【荻野アンナさんの終活】家族3人を看取り、最後は自分の看取り「看取られ上手になる」とは?

【荻野アンナさんの終活】家族3人を看取り、最後は自分の看取り「看取られ上手になる」とは?

  • ハルメク365
  • 更新日:2023/01/25

芥川賞作家であり、フランス文学者である荻野アンナさんは、父、母、パートナーと、3人の介護と看取りを経験してきました。その間に自らもがんを患い闘病。荻野さんが考える、理想の最期の迎え方について伺いました。

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三者三様の「生きるか死ぬか」という局面

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※インタビューは2021年4月に行いました。

私の場合、40代からの約20年は看病と介護と看取りの連続でした。

まず父が体調を崩して、そちらの看病に気をとられているうちに、パートナーにがんが見つかり、1年余りの看病の末に看取りました。

それから落ち込んでいる間もなく、父が倒れて入退院を繰り返すようになり、母の介護も本格化。父、パートナー、父、母……と、ミルフィーユのように介護と看取りが重なっていったんです。

渦中にいる間は、その日その日をどうやってやり過ごすかで精いっぱいでしたが、今になってみると、三者三様の生きるか死ぬかという局面を一緒に過ごせたことは、私にとって得難い経験でした。

20年に及ぶ介護の始まりは、当時85歳だった父が悪性リンパ腫を患ったことでした。幸い治療は成功したものの、翌年には腸閉塞を発症。

救急搬送された先の病院で『もう助からないな』と隊員が話しているのを聞いてしまって。ああ、これで最期なんだと思って父を見たら、薄目を開けて『ビ、ビューティフル』って若い看護師さんを指さしていて(笑)。

そういう人間って助かるんですね。その3年後、おみくじで珍しく「凶」が出て、父に何があっても覚悟しようと思っていたら、何のことはない、パートナーに食道がんが見つかったんです。

パートナーは当時50代。手術をして一時は退院したものの、がんが再発して入院生活が続きました。今でこそ末期がんなどで回復する見込みのない終末期になると、自宅で過ごすという選択肢がありますが、2004年当時は今ほど一般的ではなかったんです。

彼はいい意味でのほほんとした人で、深刻な状況をのみ込めておらず、最期の最期まで“自分は大丈夫”と希望を持っていました。終末期を自宅で過ごすのがいいのか、病院がいいのかは、その人の個性によるところも大きいのではないでしょうか。

彼に関して言えば、最期まで希望を持って病院で過ごしたことは、結果オーライでちょうどいい形だったと思っています。

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パートナーを見送った数か月後、今度は父が心不全で倒れて入院します。90歳と高齢だった父は、入院中に足腰の力がガタッと落ち、前と後ろに一人ずつついて体を支えなければ歩けない状態になっていました。

その頃、母はすでに腰椎すべり症で腰が曲がり、家の中でも杖をついていましたから、そんな状態で父が家に戻ってきたら寝たきりコース一直線です。だから必死になって転院先を探しました。

フランス系アメリカ人で船乗りだった父は、在日60年ながら日本語ができず、やっと入ったリハビリ病院で英語でかんしゃくを起こしては、私を呼び出すんです。

父は気持ちだけは元気なので大変でした。一人で歩けない状態なのに「なんでこんなに元気なのに病院にいるんだ」と怒るわけです。老いるというのは、自分が年を取っていることがわからなくなることなんだと、そのとき思いました。

そのため、リハビリ病院にも長くはいられず、退院後は在宅介護が始まりました。

母の介護をしながら自らも大腸がんを発症

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家で絵を描く仕事をしていた母は、他人が家に入るのが耐えられないと言っていましたが、とにかくヘルパーさんに来てもらったんです。でも結局、母の気持ちは休まらないし、ヘルパーさんのいない夜間は私も父も不安で、在宅介護を続けるのは無理となって、父は老人ホームに入りました。

退院していきなりホームだと父の怒りが爆発していたでしょうが、いったん在宅を経験したことで本人も納得したようでした。

その間、父の心境に大きな変化があり、今までの自分はわがままだったと私に話すようになりました。留守が多かった父とは普通の親子関係ではなかったんですが、老いた父に伴走するうちにやっと親子になれました。その後、入退院をしながら父はホームで4年過ごし、95歳で旅立ちました。

次第に口から食べられなくなった父は胃ろうになり、最期は点滴だけでした。

胃ろうをすると人間の尊厳が失われると嫌がる方がいますが、それも個人差で、父はとにかく生きたい人でした。食べる喜びがなくなっても、アロマをたいたり、子守唄を聞かせたりして父の五感を刺激し、最期まで生きる実感を得られるようにしていました。

一方で母も少しずつ体調を崩していました。私が父にばかりかまけていたので、母は寂しかったのか「育ててもろたわけでもないのに、なんでそんなするんや」とこぼしていましたね。

そして父が他界して2年後、母を在宅介護していた私自身が大腸がんを患いました。でも、母を一人にできないので、個室を二つとって母も一緒に入院してもらい、開腹手術を受けました。

しばらくして母は肺の病気で長期入院。退院後は本格的に在宅介護を受けるようになりました。長期入院したことで母はまわりに人がいる環境に慣れたのか、ヘルパーさんも受け入れるように。母が他人を家に入れたがらないとケアマネージャーさんに相談したとき「パーッと道が開けるときがきますよ」とアドバイスされたんですが、その通りでした。

素直に老いを受け入れ、喜んで助けてもらいたい

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母を看取ったのが2015年。3人を看取って、最後は自分自身の看取りですね。

自分を介護することはできませんが、看取られ上手になりたいですね。ある一定のところまでは一人でがんばっても、どうしても他人様に助けてもらわなければいけない日がくるわけです。そのときは素直に老いを受け入れ、喜んで助けてもらいたいと思っています。

私の小説『老婦人マリアンヌ鈴木の部屋』で、ベッドに横たわって過ごす90歳の老婦人を中心に、仕事と母の介護の板挟みで悩む60歳手前の娘、50代の介護ヘルパー、金儲けを狙う介護実業家の女性など、さまざまな立場の人々を描いています。

介護される人が一人いると、まわりに人の輪ができていきます。その輪を描きたかったんです。介護される側でありながら、確固たる快活さを持つ老婦人、マリアンヌ鈴木は、私の理想です。“起こったことはみんないいこと”が私のモットー。その精神で老いも最期も迎えたいですね。

荻野さん流“老いと死への3つの心構え”

起こったことはみんないいこと。
病気も介護もすべては受け取り方次第です。

目指すは“看取られ上手”。
年を取った自分を素直に受け入れて、喜んでまわりの人に助けてもらいたい。

最期を過ごすのは自宅か、ホームか、病院か?延命治療をするか、しないか?
希望は状況によって変わっていくもの。流れに任せることも時には必要です。

荻野アンナ(おぎの・あんな)さんプロフィール

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壁にかかっている絵は母の作品。「実家を小さな美術館にする予定です」(荻野さん)

作家、フランス文学者、慶應義塾大学名誉教授。
1956(昭和31)年、横浜市生まれ。フランス政府給費留学生としてパリ第四大学に留学し、ラブレーを研究。86年ソルボンヌ大学博士号取得。91年『背負い水』で芥川賞、2002年『ホラ吹きアンリの冒険』で読売文学賞受賞。07年フランス教育功労賞シェヴァリエ叙勲。08年『蟹と彼と私』で伊藤整文学賞受賞。

取材・文=岡島文乃、五十嵐香奈(ともにハルメク編集部) 撮影=中川まり子
※この記事は雑誌「ハルメク」2021年6月号を再編集、掲載しています。

雑誌「ハルメク」

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