【プロ野球人・木村拓也の原点2】泣いたユニホーム騒動...「投げろ!」仲間と大喧嘩の真相

【プロ野球人・木村拓也の原点2】泣いたユニホーム騒動...「投げろ!」仲間と大喧嘩の真相

  • Business Journal
  • 更新日:2021/04/08
No image

宮崎南高校創立50周年とともに設置された顕彰レリーフ

2010年4月7日、広島大学病院で一人のプロ野球人がくも膜下出血のため息を引き取った。同年、読売巨人軍の1軍内野守備走塁コーチに就任したばかりの木村拓也さん=享年37歳=である。

1990年オフ、捕手として日本ハムファイターズにドラフト外入団。身長、わずか170cm。出場機会に恵まれず、一度は捕手失格の任意引退扱いになるも、1994年の広島東洋カープ移籍を機にスイッチヒッターへと転向し、投手と一塁手以外のすべての守備にも取り組んだ。このことが、木村さんをして球界屈指のユーティリティプレーヤーにのし上がる下地となる。

巨人時代(2006~2009年)はリーグ3連覇、7年ぶりの日本一達成にも貢献した。中でも捕手不在の不測の事態で10年ぶりのマスクをかぶり、チームを勝利に導く好リードを見せたことは(2009年9月4日の東京ヤクルトスワローズ戦)、今も語り草になっている。

一貫してチームプレーに徹したその野球観は、何によって育まれたのか。何よりも、「キムタク」の愛称で親しまれ、誰からも愛されたその人間性は、どこからきているのか。

木村拓也さんの魅力を、彼の原風景の中からたどる。

※第1回はこちら

捕手失格が生んだユーティリティプレーヤー

冒頭でも書いているように、木村さんはプロ入り早々、捕手失格の烙印を押された。それが、彼のユーティリティプレーヤーとしての潜在能力を呼び覚ます要因になったことは、ひどく皮肉であり、幸運でもある。

宮崎南高校野球部の1年先輩の江藤善健さんは、木村さんの捕手としての技量をこう振り返っている。

「高校時代の木村は強肩ぶりこそ目を見張るものがありましたが、キャッチングがあまりうまくなかった。思い出すのは、僕たちが最後の試合となった夏の県予選。よりによって、木村が新品の硬いミットを試合に持ってきたんです。さすがにみんな『おい、それ買ったばかりだろ? 大丈夫か?』と不安がっていましたが、木村は『任せとってください!』と気にも留めない。『頼むからそのミットで後ろに逸らすなよ』と言っても、『大丈夫っす!』『大丈夫っす!』。

ところが、本当にパスボールしちゃったんです(笑)。しかも、それが決勝点になって、うちが負けてしまいました。試合後、木村は『だから、言ったやないか!』と周りに叱られていましたが、意外とあっけらかんとしていましたね。図太いところがあったんです」

木村さんが恩師と慕った清水一成さんが高鍋農業高校から宮崎南高に赴任し、同校野球部の監督に就任したのは、1989年の4月。木村さんが2年生になったときである。

当時、すでに木村さんの存在は複数のプロ球団に認知され、中でも日本ハムの岩井隆之スカウトが熱心に視察を繰り返していた。

「小さいけど、馬力があるというのが第一印象でした」

清水さんは言う。

「走るにしても、その馬力で自分の体をグイグイ引っ張っていく。肩もめっぽう強く、遠投で110m投げていました。日本ハムの岩井さんが早くから木村に目をつけてくれたのも、バッティングより、その脚力と強肩ぶりに光るものがあったからです。木村は3年生の練習試合で、5打席5三塁打という離れ業をやりましたが、次の塁を狙うその積極性がすごいと、岩井さんも言ってました。脚力と肩に関しては、確かに九州でNo.1だったかもしれません。

ただ、キャッチャーということになれば、木村はそれほどじゃなかった。キャッチングに難があったんです。高校レベルだから通用しているだけで、プロでは通用するレベルじゃありませんでした」

ナインが見た、最初で最後の涙

しかし、キャプテンシーには光るものがあった。3年生になって、木村さんは主将に抜擢された。清水さんによれば「ナインの誰もが認める無言のキャプテンシーがあった」という。

「練習は他の部員の2倍も3倍もやっていましたし、その木村が自ら先頭に立ってガンガンやっているんです。いちいち口に出さなくても、ナインはついてくる。こと技術的なことや練習に関しては、私も木村にあれこれ言ったことはありません。

でも、一度だけ木村を利用してチームに喝を入れたことがありました。雨で濡れたグラウンドに2個のボールが放置されているのを見つけたんです。さっそく部員を集めて、木村だけを激しく叱責しました。野球の技量が優れていることだけが大切なんじゃない。その前に人間として大切なことがあるんじゃないか!? と。あの野球に優れた木村が、私にこっぴどくやられている。それを目の当たりにしたナインも、さすがに気を引き締めていましたね。

木村は当然、私のメッセージを理解していたはずです。のちに広島と巨人で活躍したときも、木村は率先して雑用をやっていました。巨人のコーチになってからも、『そんな雑用しなくていいよ』と言われて、『好きでやってることですから』。そう木村が答えたと、人から聞いたこともあります」

木村さんのこのキャプテンシーが、一つの“騒動”を介して存分に発揮されたことがある。自分たちのチームカラーをつくることを目的に、清水監督がユニホームの変更を決めたことがきっかけだった。

バッテリーを組んでいた佐々木未応さんが言う。

「OBたちから『甲子園に出たときのユニホームを、なぜ変える必要があるんだ』と猛反対の声が出たんです。部員からも『なぜ変えるんだ?』『監督が決めたことだからかまわない』といった声が飛び交い、チームに不協和音が渦巻いたんです。このとき、板挟みになりながらも、チームをまとめようと必死に走り回ったのが、キャプテンの拓也でした。

よほどつらかったのでしょう。拓也は必死に涙を堪えながら、僕たちの前でこう言ってチームの混乱を収めたんです。『ユニホームで野球をやるわけじゃない。俺たちの目標は違うだろ?』。あいつの涙を見たのは、あれが最初で最後でした」

チームをいかにまとめるか。いかに選手個々に自信を持たせ、本来の力を発揮させることができるのか。この木村さんのキャプテンシーは、チームプレーに徹し、チームをまとめることに専念した、のちのプロ野球時代の彼の姿にも通じる。

「投げろ!」バックホーム要求で仲間と大喧嘩

宮崎南高の左腕エースだった佐々木さんは、長い歳月の流れを経て、木村さんのキャプテンシーの深みに気がついたという。発端は1990年5月、MRT宮崎放送が主催する招待野球に出場したときのことだった。

「神戸弘陵高との試合で、僕はこの甲子園強豪校を9回2アウトまで完封していたんです。チームも5-0で勝っていましたが、打者にカウント2ストライクからフォアボールを与えてしまった。で、次の打者に左中間を深々と破られてしまったんです。

ところが、1失点は避けられないというのに、キャッチャーの拓也が『バックホームだ!』と大声で叫ぶ。奥野という遊撃手が外野からの返球をカットしたときは、すでにランナーもホームイン寸前でした。それでも、拓也は『投げろ!』と怒鳴るんです。

この状況で、もしバックホームで暴投でもしようものなら、打者走者までホームインさせてしてしまうかもしれない。当然、奥野はバックホームを控えましたが、なぜ拓也があれほど怒鳴っていたのか、その理由がわかりませんでした」

それから20年後の2010年の正月、当時の同期部員が宮崎市内の居酒屋に集まり、巨人のコーチに就任したばかりの木村さんも顔を見せた。その酒席で、木村さんが「お前、知らんかったやろ?」と、八重歯を見せながら佐々木さんに打ち明けた。

「あの試合の後、奥野と殴り合いにならんばかりのすげぇ大喧嘩しちょっとぞ」

佐々木さんはこのとき初めて、あの無意味とも思えた執拗なバックホーム要求の意味を知ったという。

「僕には完封勝ちという経験が一度もありませんでしたが、拓也はナインみんなが僕の完封を一生懸命後押ししようとする、その姿を見せたかったんです。その気持ちを僕に伝えるために、あれほどまで激しくバックホームを要求したんだ、と。それが、僕の自信になり、夏の大会にもつながるんだとも言ってました。この話を聞いたとき、僕は腹の底から『こいつ、すごい』と思いました。高校生でそこまで考えていたんです。巨人でも絶対、素晴らしいコーチになると確信しました」

この4カ月後、木村さんは世を去った。

※第3回へ続く

(文=織田淳太郎/ノンフィクション作家)

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。
  • このエントリーをはてなブックマークに追加