三島由紀夫、衝撃の割腹自殺から50年、あれは何だったのか

三島由紀夫、衝撃の割腹自殺から50年、あれは何だったのか

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/11/22
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11月25日が近づいてきた。

三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地で、割腹自殺をした「あの日」から、今年で50年となる。

大型書店には三島由紀夫関連の本のコーナーもでき始めた。普通の作家であれば、その没後何周年でのコーナーには、その作家の小説が並ぶ。三島コーナーも、彼自身の著作が並んでいるが、あの衝撃的な死をめぐる論考も多い。

もう半世紀も前なので、「歴史」である。

あの事件のとき、私は10歳、小学校4年生だったので、かろうじて記憶にあるが、それよりも若い人、1960年より後に生まれた、いまの50代以下はリアルタイムでの記憶はないだろう。

現代史は学校では習わないので、文学や政治に興味のある人以外には、よく知らない事件かもしれない。

とらえどころのない作家

三島由紀夫は小説家である。高校の夏休みの課題図書として『金閣寺』『潮騒』あたりを読んだ人もいるだろう。

思想的には「右翼」の代表とみなされ、『憂国』『英霊の声』といった作品は、その思想をもとにしたとみなされている。

一方、三島は左翼作家と認識されていた時期もある。

東京都知事選挙に革新統一候補として立候補して落選した、有田八郎をモデルにした『宴のあと』や、近江絹糸の労働争議を題材にした『絹と明察』といった、左翼陣営を小説にしているからだ。『絹と明察』など山崎豊子が書いたといっても、通用するようなストーリーだ。

江戸川乱歩の明智小五郎シリーズの一篇『黒蜥蜴』を戯曲にもしているし、UFOを題材にした『美しい星』というSF的なものもあり、エンタメにも近い。

このように、作家としてだけでも、とらえどころのない人でもある。

それだけでなく、三島は俳優として映画に出たり、ヌードモデルになったり、ボディビルをしたり、と広義には芸術ではあるが、文学の枠組みをはみ出した活動もしていた。

そして、自衛隊に体験入隊し、私費を投じて学生たちを集めて私設軍隊ともいうべき「楯の会」を結成し、1970年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地へ仲間とともに行き、クーデターを呼びかけ、呼応する者がいないのを確認すると、切腹したのである。

45歳だった。

半世紀が過ぎても…

三島は1925年(大正14年)1月14日に生まれ、1歳の年に大正が終わり昭和になるので、昭和と満年齢が同じだ。

昭和11年の2.26事件は11歳だった。私が11歳のときにあさま山荘・連合赤軍事件があったから、この年代の大事件はけっこう記憶に残ったはずだ。

作家デビューは昭和19年10月で、短編集『花ざかりの森』が出版された。同月に東京帝国大学法学法律学校に入学している。

そして翌年8月、20歳で敗戦を迎えた。

昭和22年に東大を卒業して大蔵省に入るが、作家専業になるため一年で辞めてしまう。以後、文壇の寵児として活躍するのだ。

そして45歳で亡くなった。

三島が「変わった人」という認識は、当時の人々も持っていただろうが、その切腹という死に方は、衝撃だった。

だから、半世紀が過ぎたいまも、多くの人が語り続けている。

今年は、没後50年でもあるので、春ごろから、「三島由紀夫」は話題になり、最初に書いたように、関連書籍が何冊も出ている。

なぜ三島を阻止できなかったのか

三島はなぜあのような死に方をしたのか。

これは永遠の謎で、いろいろな人がいろいろな説を述べていて、「なるほど」と思うものもあるが、それでも本当のところは、わからない。

そういう「謎解き」が、「意味がない」とは言わないが、そういうものを読んでも、かえって、フラストレーションがたまるものでもある。

今年出た三島由紀夫関連の本や雑誌の特集をすべて読んだわけではないが、興味深かったのは、西法太郎著『三島由紀夫事件50年目の証言』(新潮社)だ。

これは、「三島由紀夫事件」を、まさに「刑事事件」として捉え、「三島がなぜあのような行動をしたのか」ではなく、「なぜ三島は自衛隊駐屯地へ行き、総監室に入り、総監を人質にとることができたのか」という視点で再検討している。

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つまり、警察と自衛隊は、三島がああいうことをすると事前に察知していながら、泳がせていたのではないかというわけだ。

最後の文章である「檄」で三島はこう書いている。

〈憲法の私生児であった自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたのである。〉

つまり、自民党政権が憲法を改正して自衛隊を国軍にする気がないこと、その現状に自衛隊も納得していることを憂え、怒っている。

内閣総理大臣が自ら憲法改正を訴えている現在の感覚だとわからないかもしれないが、50年前は「憲法改正」を叫ぶのは、反体制とみなされていた。

左翼の過激派が唱える「革命」も、天皇制廃止、私有財産の制限を意味するのだから憲法改正をしない限り実現できず、左翼こそ改憲派だった。

そして自民党政権下の公安警察は、左翼も右翼も監視対象としていたので、三島のように楯の会という私設軍隊を作り、「憲法改正」を公言している有名人も、当然、監視下にあったはずだ。

それなのに、なぜ、11月25日の行動を阻止できなかったのか。

一方の自衛隊は、楯の会に体験入隊させて友好的関係にあった。

それゆえ、当日も三島は堂々と総監室に入れたわけだが、総監が人質になった時点で、なぜ「武装部隊」である自衛隊が自ら制圧せず、警察を呼んだのか。

三島由紀夫事件50年目の真実』は、この二つの謎を当時の資料の読み込みと、関係者への取材で明らかにしていく。

怒れる若者と対決

同じ「50年目の真実」というサブタイルを持つ映画が、3月から公開されている。

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』(豊島圭介監督)である。

この映画は、三島がその死の一年半前の1969年5月に、母校である東大で、東大全共闘と討論会をしたときのフィルムをもとにしている。

いわゆる学生運動が盛り上がったのは、1968年だった。

だが、1969年1月に学生たちが籠城した東大安田講堂が機動隊によって陥落したのを機に下火になっていく。

その4ヵ月後の5月13日、三島由紀夫と東大全共闘の討論会が開催され、その記録映像をもとにして作られたのが、『三島由紀夫vs東大全共闘』だ。

この討論会は、学生運動が退潮へ向かおうとしている時期だが、まだ、当事者たちにはその意識はなかったようだ。

当時の「怒れる若者の代表」と憲法改正を唱える人気作家との対決なので、注目されたのだろう。

当日はテレビ局や出版社も人を派遣して、記録した。

そのうち、音声を記録し、それを書き起こしたのが新潮社で、6月25日に『討論 三島由紀夫VS東大全共闘』として刊行した。この本は現在は角川文庫から出ている。

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したがって、討論会で何が語られたかは、これまでも「読む」ことができた。

この映画は、TBSがフィルムで撮影していた討論会の記録映像を、ほぼすべて見せている。

当時はビデオカメラをスタジオの外へ持ち出すのが難しく、またビデオテープも高価だったので、テレビ局も報道部は映画用フィルムで撮っていた。

そのフィルムをベースに、随所に、当日、三島と討論した学生たち(すでに70歳を超えている)や、楯の会のメンバー、作家や評論家などが三島について語る。

この映画では「11月25日」への言及はそう多くはなく、サブタイルには「50年目の真実」とあるものの、「謎解き」をするわけではない。

だが、本で読むだけではわからない、当日の三島の表情が、よくわかる。実に楽しそうなのだ。書き起こされた文章では、かなり難解な討論だが、ぎすぎすした感じはない。

会場には1000人ほどの学生がいるが、彼らも黙って熱心に聞き、ヤジなど飛ばさない。まるで、演劇のようだった。

それが一年半後、同志であるはずの自衛隊の前での最後の演説には、ヤジが飛ばされる。

東大生には言葉が通じたが、自衛官には言葉が通じなかったともいえる。

「戦後日本の偽善」に対する憤り

TBSには他にも三島の映像や音声が残っており、『告白』(講談社文庫)は1970年2月19日のインタビューを書き起こしたものだ。

これは放送されなかったもので、TBSの「放送禁止テープ箱」にあったものを、同社の小島英人氏が発見して、世に出した。

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事件とは直接関係ないが、三島の文学者の面に迫っている。

だが、このインタビューでも、「戦後日本の偽善」に対する三島の憤りが語られる。

「憲法改正」という言葉は、いまも政治のキーワードである。

しかし、その意味するものが、いまと半世紀前とではだいぶ違う。

三島は当時の保守政治家たちにも絶望しているが、いまの政治家たちの覚悟なき「憲法改正」発言を聞いたら、どう思うだろう。

映画の中での切腹死

1969年5月の東大全共闘との討論会の後、三島は映画に出た。

自分の小説が映画化されるにあたり、ワンカットだけ特別出演する作家は何人もいるが、三島の場合、自分の小説とは関係のない映画に、俳優として出ていた。

小説だけではなく、戯曲も多く書いていたが、演劇に出ることはなかった。舞台俳優になるにはそれなりのトレーニングが必要だから、無理と判断したのだろう。だが、本当は、舞台にも立ちたかったのではないか。

1969年5月13日の東大での討論会は、壇上に三島がずっといて、全共闘側は何人かが入れ替わり立ち替わり登壇して三島と対峙するスタイルだった。

三島はそこでは主演俳優であり、相手役が何人かいるという構図だ。

この討論会は、舞台俳優になりたかったであろう三島の脳裏に、何らかのスイッチを入れた。

この討論会の前後から、五社英雄監督の『人斬り』への出演依頼があり、三島は出演した。6月30日が三島の最後の撮影後で、映画は8月に封切られた。

勝新太郎が主演で幕末の土佐藩の暗殺者・岡田以蔵、仲代達矢が武市半平太、石原裕次郎が坂本龍馬を演じ、三島は土佐藩と対立する薩摩藩の暗殺者・田中新兵衛を演じた。

この『人斬り』で、三島は劇中に切腹死する。

観客たちの反応

その前の1966年にも、三島は映画のなかで切腹している。自作『憂国』を自ら脚色し監督し、主演した同題の映画だ。

2.26事件を背景にしたストーリーで、三島演じる将校は劇中で切腹する。

というよりも、この映画は切腹のシーンのためにあるようなものだった。

ATGとの提携で三島は資金も出し、プロデューサーでもあり、「製作」「製作総指揮」とクレジットされている。

2作の映画で切腹死したことが、1970年11月25日の事件に直結したわけではないだろうが、69年5月に、演劇での主演を思い立ったとき、そこには切腹のシーンが必要だと発想したのかもしれない。

1970年11月25日の事件は、最初は総監室という密室での監禁事件だったが、三島要望で中庭に自衛官が集められ、1000人近い同志を前に、三島は演説を始めた。

懇意のマスコミも呼んでいた。

残念ながら、演説の最初から最後までを記録した映像はないが、音声は一部聞き取れないものの、残っている。

しかし、この演劇は目の前の観客には支持されなかった。

三島の言葉は自衛官へは届かない。

それでも、作ったシナリオに従い、三島は総監室に戻り切腹した。

その場にいた自衛官には届かなかったが、三島の言動は報道によって全世界へ衝撃とともに伝えられ、半世紀という時間を超えても、伝わっている。

三島の小説や戯曲を読まない人でも、その死に方は知っている。

この日、作家や演劇人、映画関係者、あるいは政治家など、各界の著名人が、この事件を知って何を語り、何をしたかを集めたのが、拙著『昭和45年11月25日』(幻冬舎新書)である。

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三島の一世一代の大芝居の観客たちの反応を通して、あの事件を描いた。

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