名前が分からない、喋れるのは「お母さん」「わかんない」だけ...脳梗塞になった清水ちなみが明かす失語症の日々

名前が分からない、喋れるのは「お母さん」「わかんない」だけ...脳梗塞になった清水ちなみが明かす失語症の日々

  • 文春オンライン
  • 更新日:2020/10/22

最初に覚えたのは数字です。1から10まで覚えるのは本当に大変でした。その後、自分の名前と住所を覚えました——。(第3回/第1回第2回より続く)

◆ ◆ ◆

前回、10年ぶりに原稿を書いてみて、やはりブランクが大きいな、と思いました。

まずパソコンのキーボードを打つのが遅くなった。昔はとても速くて、家にやってきたテレビのカメラマンが「うそだ、適当に打ってるんですよね?」とびっくりしていたほどだったのに。

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1988(昭和63)年。OLを辞め、執筆生活に入った頃

予約の電話がかけられない、右の眉毛がうまく描けない

やっとの思いで原稿を書き上げると、今度は誌面に載せる写真を撮影させてほしいと編集部から言われてパニックに。まったくの想定外でした。

まずは美容院です。まだ自分では予約の電話がかけられないので、旦那に予約をしてもらって行きました。

ふだんはすっぴんの私ですが、久しぶりにメイクにも挑戦。顔の左半分はなんとかなったけど、右手の感覚が鈍いので、右の眉毛がうまく描けない。困った私はデパートの化粧品売り場のお姉さんにお願いしましたが、コロナウイルスでメイクを手伝えないと言われてしまい、しかたがないので自分でなんとかやりました。

脳梗塞で左脳の四分の一を失った私は、「できること」と「できないこと」がくっきりと分かれるようになりました。

昔のように、何もかも自分でできるわけではないのです。

でも、言葉に関してはずいぶん戻ってきました。

今回は「私が言葉をどう取り戻していったのか?」について書いてみようと思います。

喋れる言葉は「お母さん」と「わかんない」だけ

11年前、46歳の時にくも膜下出血で倒れた私は、手術は成功したものの脳梗塞が起こり、失語症になりました。

喋れる言葉は「お母さん」と「わかんない」の2語だけなので、旦那とはこんな調子で喋っていました。

「お母さんはわかんないからお母さんでお母さんなのよ」

手術後、ICU(集中治療室)から一般病棟に移ったものの、ベッドに寝たきりだった私は、流動食さえ食べられず、液体の袋から栄養を摂っていました。

そんな私の口に、いきなりゼリーを入れた女の先生がいたのです。

「何? 誰? どうしてゼリーをくれたの? とりあえずありがとう!」といった感じで、私には訳がわかりませんでしたが、じつはその人が言語のリハビリを担当する先生だったのです。ちなみに、私の中に「ゼリー」や「リハビリ」という言葉はまだありません。

翌日、また同じ言語の先生が現れ、別室に案内された時に初めて「これが私の先生なんだ」と認識しました。

ほとんど赤ちゃんからの出発

最初にペーパーテストを受けました。鉛筆を渡されて、「答えを紙に書いてください」と言われたのですが、答えを書く以前に、当時の私の右手の握力はゼロだったので、左手で鉛筆を持つ練習から始めました。当時のことは、じつはよく覚えていません。ほとんど赤ちゃんからの出発で、世界を把握すること自体が、まだできていなかった、ということでしょう。

国語や算数など、失語症のテストもいくつか受けました。

たぶん、言語の先生(言語聴覚士)が共通して使用するテスト(SLTA 標準失語症検査)だったはずです。

私はいくつかの病院で、このテストを4回か5回受けましたが、内容はすべて同じでした。言語聴覚士の先生が代わっても、テストの結果を見れば、患者の回復がどれくらい進んでいるかがわかります。テストでは聞く力、話す力、読む力、書く力、計算する力などが評価されますが、リハビリをするたびに、少しずつ結果が良くなるのです。

私が最初に受けたテストの結果は散々だったはずです。先生は私に正しい答えを教えてくれないし、教えてくれたとしても、私には理解できません。

「あなた、こんなんじゃどうするの?」という先生の言葉は、とてもよく覚えています。きっと唖然としたんでしょうね、私があまりにもできないから。

でも私からすれば、話せなくても心の中では言いたいことがある訳です。たとえば私が「お母さんわかんないからお母さんでお母さん」と喋っている時には「何日もお風呂に入っていないから入りたい」と伝えたいのです。でも、それは相手にはまったく伝わらず、私も心の中で「わからないだろうなあ」と思うだけ……。

「失語症は、言葉がわからない国に放り出されたようなものだ」とよく言われます。聞き取れない、話せない、相手の言ったことを繰り返せない、名前が言えない、説明ができない、計算ができない。

失語症にはいろいろなタイプがあって、同じ症状の人はいないのだそうです。

左脳の4分の1を失った私は、失語症だけでなく、右目の視野が欠け、右手が使えず、右足もうまく動かせません。脳梗塞患者は車椅子生活になることが多いのですが、歩けたのは幸運でした。

自分で髪が縛れるようになるまで5年かかった

リハビリの目標は日常生活が送れるようになること。言語聴覚士(失語症、聴覚、音声)ばかりでなく、作業療法士(家事、食事、移動など)、理学療法士(運動、生活活動など)の方々にお世話になりました。お医者さまは「お箸を持つときは右手の方がいいですね」と持ち方を教えてくれました。

毎朝きてくれる看護師さんは、体温や血圧をチェックするとともに、髪が長い患者の髪の毛をゴムで縛ってくれます。体が硬くなってしまった多くの患者にとって、腕を後頭部に回して髪の毛を縛るという動作はとても難しいことなんですね。私はゴムで自分の髪が縛れるようになるまで、5年ぐらいかかりました。

たぶん、手術は体を硬くするのでしょう。長く体を動かさないと、関節の変形や筋力低下などさまざまな不具合が起こるのです。手術直後はまったく上がらなかった私の両肩を、運動の先生(理学療法士)が、徐々に上がるようにしてくれました。

ちなみに入院患者は、死ぬか生きるかの瀬戸際ですから、髪の毛なんか知ったこっちゃありません。髪の毛はどんどん伸び、白髪染めもしないので、白黒、こげ茶、赤茶、オリーブ、紫色などグラデーションでカラフルです。

さて、手術から1カ月ほどが過ぎた12月の終わり、正月休みの関係で、一時帰宅が許されました。

旦那の運転で家に帰る途中、寒かったので暖房をかけたいと思いましたが、赤いランプと水色のランプ、どっちが暖房かがわかりませんでした。そもそも「色」もわからない。「暖房ってこっち?」と聞きたかったのですが、口から出た言葉はまたしても「お母さんがお母さんでお母さんでわかんない」。結局、寒いまま自宅に着いてしまいました。

【続き】「失語症になった清水ちなみが「母には絶対内緒に」と頼んだ理由」へ

※最新話は発売中の『週刊文春WOMAN 2020秋号』でご覧ください。

「あ、ぬ!」「違う。あ、め!」…脳梗塞で失語症になった清水ちなみが「母には絶対内緒に」と頼んだ理由へ続く

(清水 ちなみ/週刊文春WOMAN 2020夏号)

清水 ちなみ

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