出井伸之が84年で形作った「華麗なる人脈」の凄み

出井伸之が84年で形作った「華麗なる人脈」の凄み

  • 東洋経済オンライン
  • 更新日:2022/06/23
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昨年3月のインタビューでは眼光鋭く迫力のある姿に同席した編集者も圧倒されていた(撮影:尾形文繁)

ソニー(現ソニーグループ)の社長や会長を務めた出井伸之氏が6月2日に84歳で亡くなり、新聞、テレビをはじめとするほとんどのメディアで報道された。

創業者ではなくサラリーマン経営者(専門経営者)にもかかわらず、これほど大々的に取り上げられた経営者もめずらしい。既出の出井氏死去に関するメディア情報のほとんどは、発信者がジャーナリスト、大学教授、元社員の誰であろうが、出井氏の経営者としての功罪について紹介、解説する内容だった。そこで本稿では、出井氏がフランス通であったこともあり、ギ・ド・モーパッサンの長編小説『女の一生』にあやかり、出井伸之氏という「男(サラリーマン)の一生」を敢えて属人的な視点から振り返ってみたい。

筆者は、昨年(2021年)3月2日に、出井氏が69歳にして創業したクオンタムリープで、出井氏に単独インタビューした。その内容は「東洋経済オンライン」に掲載してある。(出井伸之「日本はアジアの真価をわかってない」2021年3月19日配信

「僕はいつも未来しか見ていませんから」

このインタビューで、出井氏は開口一番、「83歳になってしまいましたよ」と照れながらも、そのダンディーな出で立ち、論理的で強い語り口は、私が初めて会った約30年前とほとんど変わらなかった。分かれ際、エレベーターまで送ってくれた出井氏に、「いつまでもお元気で」と挨拶した。そのとき、いつものクールな表情が一瞬崩れ、顔から笑みがこぼれた。まさか、その僅か1年3カ月後に天に召されるとは思いもよらなかった。

出井氏とともに仕事をしたソニーグループの幹部も、驚きを隠せない。

「私も数カ月前に、とあるイベントで同席する機会があったのですが、その際もとても元気でしたし、コロナ後の海外出張に想いを馳せてましたので驚きました」

まさに想定外の訃報だった。

インタビューを始めると、出井氏は牽制球を投げるかのごとく、次の言葉を口にした。

「ソニーに関しては、一切話しません。僕はいつも未来しか見ていませんから」

83歳にして「未来しか見ていない」という前向きな言葉の裏には、あちらこちらのメディアから批判されたソニー時代からの過去を振り返りたくない、という意味も込められていたのだろう。

経営は結果なのだから、「終わり悪ければすべて悪し」となる。だが、サラリーマン・出井氏の人生は「すべて悪し」だったのだろうか。人生、山あり、谷ありだが、出井氏はそれを楽しんできたようだ。新卒で入社して、日本を代表するグローバル企業・ソニーのトップに上り詰めたサラリーマン(ビジネス・パーソン)の人生を、成功と失敗の両面から探ると、ほかの記事では読み取れない「人間・出井伸之」の本質が見えてくる。

「男(出井氏)の一生」は1923(昭和12)年に始まる。5人兄弟(姉3人、兄1人)の末っ子として生まれた。兄・譲治氏は16歳のときに病死したため、出井氏が自ら「私はおぼっちゃま育ち」と言わしめるほど、唯一人の男子として大切に育てられた。お母さん(綾子さん)が遠足についてくるほどだった。

お父さんの出井盛之(せいし)氏は、早稲田大学の教授(経済学)で、スイス・ジュネーブにある国際労働機関(ILO)でも勤務していた。そのため、息子にも研究者の道を歩んでほしいと思っていたようだが、伸之氏は「親離れ」し、別の道を歩みたいという思いを募らせていた。

幼稚園の頃に第二次世界大戦開戦を迎えた。そして、お父さんが、中国・大連の商工会議所で勤務することになり日本を離れる。終戦を迎えたのは7歳のときである。敗戦を知ると同時に、ソ連兵が侵攻してきた。家族ともども必死で逃げた。そして、やっとの思いで乗れた引き上げ船で帰国し、幸い焼失せずに残っていた東京・成城の家にたどり着く。まさに、戦場から遠方へ避難するという、今のウクライナ情勢さながらの過酷な体験をした。このときの体験は、国境を超え、世界を股にかけて活躍する出井氏を形成するうえで、重要な基礎となったと考えらえる。7歳ではあったが、まさに「三つ子の魂、百までも」である。

その後、成城学園小学校、中学校と進む。出井氏は亡き兄が残してくれたバイオリンを弾くようになり、中学1年のときに音楽部へ入部する。そこで、出会った先輩(3年生)が世界的指揮者となる小澤征爾氏だ。今やソニーと言えば、音楽が重要なセクターになっているが、そのトップになるにふさわしい貴重な出会いである。出井氏はソニーでオーディオ事業部長を務めるなど、音楽と関わる仕事に携わったこともあり、仕事面でも小澤氏との交流がより深まっていった。良き友とは、お互いの成長を促す人間関係を指すとすれば、小澤氏との関係は、出井氏を大きく育てるうえで上質な栄養源になったのではないだろうか。

成城学園で「お坊ちゃま育ち」を謳歌した出井氏は、バンカラ、自由の気風で知られる早稲田高等学院(早稲田大学付属の男子校)へ進学する。カルチャーショックを受けたものの、出井氏は過保護から解放され、自由闊達に羽ばたき始める。おしゃれでスマートな仕草ながら、硬骨漢の気質が感じられたのは、成城学園と早稲田の校風が融合したからではないか。

早稲田高等学院では、写真部に入部し3年生のときに部長を務めた。続いて進学した早稲田大学第一政経学部(現・政経学部)でも写真部に入る。そこで、大学を卒業して間もなく結婚することになる晃代(てるよ)さんと出会う。大学では写真部長就任を断り、勉強する時間を増やそうとした。大学時代の行動を見ていると、著書にあるとおり『ONとOFF』(新潮新書)を上手に自己管理できていたようだ。

出井氏は、高校時代からカメラだけではなくオーディオにも興味を持つようになり、スピーカーを自作したりするオーディオマニアであった。さらに、「フランスへ行きたくて、ソニーを選んだ」という出井氏は、早稲田高等学院時代に第二外国語としてフランス語を勉強していた。

当時の東京通信工業の入社動機になった経験

好きこそものの上手なれ、というが、カメラ、オーディオを通じて、映像と音に対する感性が磨かれ、フランス語を学んだ経験は、結果的に、音響機器に加えて、ビデオカメラやデジタルカメラ、その目に相当するイメージセンサーなど、映像分野で大きく成長するソニーで役立っている。フランス語運用能力はソニー・フランスの責任者へとつながる。

ソニー(当時・東京通信工業)への入社動機になったのも、早稲田大学時代に遭遇したある経験がもとになっている。早稲田高等学院に通っていたこともあり、高校生の頃から早慶戦に足を運び観戦するようになっていた。その時に、大きな真空管ラジオを持参して球場で試合中継に耳を傾けていたのだが、大学生の頃、小型軽量のトランジスタラジオと遭遇し、これを作っている見知らぬベンチャー企業・東京通信工業に興味を持つようになった。

その頃、お父さんが東洋経済新報社の研究所所長を務めていたこともあり、東京通信工業に詳しい記者を紹介してもらい、「東京通信工業はどんな会社でしょうか」と尋ねてみた。「いい技術を持っている会社だけれど、まだ小さい会社ですよ」と説明された。ここで、出井氏は就職できるチャンスありと見た。成長性が高いけれど、受けに来る人が少ない。それなら合格する確率も高くなると考えたのだ。まさに、競争戦略的思考である。

出井氏は「入社後はカンパニー・エコノミストになりたかった」と話しているように、論理的に分析し将来を構想するのがこの頃から好きだったようだ。「お父さんみたいな研究者にはなりたくない」と子供の頃から反発していた出井氏だったが、研究者の資質を潜在的に持っていたと思われる。

一方、出井氏と言えば、国内外にわたる「華麗なる人脈」を有していることで知られている。大学生時代の就職活動で見せた大胆な行動に、優れた人脈構築力の片鱗が見られる。

出井氏がソニーの本社を訪れたのは1959年の夏休み。東京の品川と五反田の中間(御殿山)にあった社屋はまだ木造だった。人事部長が出てきた。一通りの面接を終えると、出井氏はこう切り出した。

「もうちょっと偉い人に会えませんか」

ビジネス・ネゴシエーション(交渉)の鉄則である「トップに会え」を大学生の身で実行したのだった。すると、意外にも人事部長は「どうぞ」と言って、2人の創業者、井深大社長と盛田昭夫副社長に会わせてくれた。出井氏は2人とも初対面ではあったが、井深氏の娘さんとは成城学園時代に同級生であったため、井深氏には親近感を持っていた。

小さなきっかけを「華麗なる人脈」形成につなげる。この手腕はビジネスを成功させるうえで必要不可欠である。実際、出井氏は小学校時代の同級生の縁をベースにして「もうちょっと偉い人」に会えたのだ。入社前から、井深氏と盛田氏との関係を築いた点では、大賀氏と共通している。大賀氏も東京藝術大学で音楽を専攻する大学生だった頃、足しげくソニーに通い、井深氏や盛田氏と交流していた。

出井氏は、井深氏と盛田氏を前にして、大学生ながらも、ヨーロッパ市場拡大で貢献したいと訴え、文系ながらソニーのトランジスタラジオとの出合いがきっかけとなり、その核を成すトランジスタに興味があることを強調した。すると、創業者2人の心の琴線に触れた。ソニーはアメリカ進出を果たしたので、次はヨーロッパを攻略したい。しかし、単なる語学屋さんではだめである、というニーズに合致したのである。

選考段階で突きつけた入社後の条件

出井氏は自己紹介と志望動機を述べるのに留まらず、堂々と条件を突き付けた。入社後に私費留学させてほしいと訴え、その要求を承諾してもらったのだった。入社前に自分の要望をこれほど強く主張できる大学生は、今の日本ではまれだろう。

出井氏は、入社2年目で2年間休職して、ジュネーブの国際・開発研究大学院へ留学した。1968年、東京、スイス・ツークを経てパリへ。代理店の一室を貸してもらい、ソニー・フランス設立の準備をたった1人で始めた。フランスでも出井氏は「華麗なる人脈」を形成する。「華麗なる人脈」は華麗なる人の紹介により拡がる。パリで「本当にお世話になった」(出井氏)のが、日本よりもアメリカやイギリスの映画で活躍したヨーコ・タニ(谷洋子さん)である。谷さんは、お父さんの友人のお嬢さんだった。谷さんの家でホームパーティーをしているとき、パリ大学在学中に谷さんを見出したマルセル・カルネ監督も紹介された。

盛田氏もニューヨークに住んでいた頃は、政財界、スポーツ、芸能界を問わず、さまざまなVIPを自宅に招いて頻繁にホームパーティーを開き、「華麗なる人脈」を形成した。その裏方で活躍したのが、夫人である良子さんである。OB世代の間では「ミセス」と呼ばれていたほど存在感は大きかった。盛田氏は老舗造り酒屋・盛田15代当主、良子さんは三省堂書店創業者の孫という「華麗なる出自」である。盛田夫妻が健在だった頃、ソニーはグローバルな上場企業でありながら、ファミリービジネス(同族企業)色が強かった。良子さんも目をかけていた社員を家族と見ていた節もある。

盛田氏の秘書として財界活動をサポートしていた大木充氏(後に常務)は、「私が入社した頃、ソニーはほかの大手電機各社を仰ぎ見る音響専業メーカーでした。まだ、家族的な雰囲気が残っていて、新入社員が(東京)青葉台にあった盛田家に招待され、良子夫人がもてなしてくださいました」と振り返る。

出井氏も同様の経験をしている。テニス、ゴルフが好きだった盛田氏は、出井氏の自宅に電話をかけ、たびたび呼び出した。プレー中は、仕事の話を一切しなかったという。とはいえ、盛田氏と出井氏の接触回数が増えるにしたがい、良子さんと出井氏との関係もより密接になっていく。ちなみに、盛田氏の長男・盛田英夫氏の夫人は、出井氏の従兄弟の娘である。

はっきり言って、出井氏は公私ともども、盛田夫妻に信頼され、好かれていたのだろう。その証拠に、盛田氏が亡くなった後も半年ごとに、1人になってしまった良子さんを励ますため出井氏は会食に誘っていた。ファミリービジネスで創業者夫人を大切にするのは、当たり前というのが「世間の事実」だが、これが、「策略」としてメディアに描かれることもある。また、ミセスに好かれた人は、そうでない社員、ライバルのやっかみの対象にもなりかねない。ましてや、株主重視主義の昨今においては、このような「古典的慣行」はコンプライアンス上、問題視されがちだ。

ミセスが「ソニーの社長になるような人は、(盛田氏のように)さっそうとした人でないとだめよね」と言ったという都市伝説ならぬ社内伝説がある。良子さんが公言したか否かは定かではないが、盛田氏がテレビ出演をする際には、良子さんはスタイリストのごとくファッションの細部まで関係者に指示を出していた。こういった証言を得ていることもあり、さもありなんと言ったところか。

ともあれ、良子さんのアドバイスは必ず盛田氏に届いていたはずだ。このような効果が、ファミリービジネスにおいて社長夫人が「影の取締役」と言われる所以である。合理性だけでは説明できない影響力についての評価はさておき、ソニーの歴代トップを見て見れば、華がある経営者が多いことは明らかだ。盛田氏のように、品性と知性を兼ね備え、国際的、社交的な人物がトップに就いている。

左遷につながった修羅場

ソニーを再生させた平井一夫・前CEOが、ネイティブ同様の英語でプレゼンする姿には華があった。出井氏のもとで社長(CEO)室長を務めていた吉田憲一郎・現CEO は、平井氏に比べれば地味な印象を受けるが、頭の切れは鋭い。出井氏は「吉田君は、なかなか厳しいよ」と評していた。仕事に対する厳しさが、2021年度連結決算で営業利益1兆円越えを実現し、「華がある企業価値」を実現した。

ビジネスパーソンに苦闘はつきもの。その中でも極めて高いハードルを越えなくてはならないことがある。出井氏の場合、「華麗なる人脈」やパフォーマンスが注目されがちだったが、ご多分に漏れず、修羅場を経験したことで一回りも二回りも大きくなった。

パリに駐在し始めた頃(1968年)、ある修羅場が待ち構えていた。日本製カラーテレビの輸入制限が実施され、マルセイユの港に着いた製品を受け取れなくなってしまったのだ。認可をとるため必死で交渉した。疲労がたたり入院する羽目に。そんな修羅場も乗り越え、スエズ銀行(現クレディ・アグリコル)との折半出資により、現地法人設立のメドがついた。

ところが、これまで使っていた販売代理店と組むべきだとする本社側と対立し、出井氏は帰国を命じられた。サラリーマンが上層部に逆らえば、修羅場が用意されているのは、お決まりのパターン。帰国後、配属されたのは横浜の物流センターの倉庫。俗に言う「左遷」である。出井氏も内心ショックだったと吐露しているが、出井氏は、その配属を前向きに捉え、物流とコンピューターについて学び、その重要性に気づいた。物流センターで得た知見は、芸の肥やしならぬ、社長の肥やしとなる。

新しい知識・経験を得るだけでなく、アフター5を有効活用した。物流センターでは、夕方には仕事が終わるため、その後は、(東京)六本木へ足しげく通った。そこで、「華麗なる人脈」を拡げる。文化に造詣が深い異業種の経営者、芸能プロダクションや劇団のトップ、文化人や芸能人など、電機業界以外の人たちとの交流を深めた。この経験が、社長就任後にハードとソフトの融合、エンターテインメント事業、ソニー銀行の設立などにつながる。

こうした「華麗なる人脈」が、派手なパフォーマンスと見られ、逆効果になった面もある。ソニーと聞けば、1969年に出した「出る杭を求む」という大きな新聞広告が話題になるほど、ユニークな人材を大切にするイメージが強かった。しかし、そのような突出した秀才たちが集まれば、当然、「人の不幸は蜜の味」とする輩が、人の足を引っ張る。あるソニーOBによると、「つねに周囲からウォッチされている厳しい競争環境」だそうだ。

「謙虚に目立つ」のではなく堂々と目立っていた

そのような中にあって、出井氏は敢えて「出る杭」に徹しようとしたのだろう。サラリーマンが上に認めてもらうには、自分を磨き、その姿をわかる形で明示しなくてはならない。いわゆるセルフ・プロデュース力が求められる。この点について、あるサラリーマン社長に「出世の極意は」と尋ねると、「謙虚に目立つこと」という答えが返ってきた。

出井氏は堂々と目立っていた。記者会見で記者から厳しい質問が飛んできても、論破、反論する強気なところがあった。堂々と言いたいことを言い、したいように行動する姿は格好いいが、いざ、実行してみると、目立つ行為にはリスクが付きまとう。この国では、「出る杭は打たれる」という諺は今も無視できない。いや、脳科学の知見によると、人間は誰しも万国共通で、「人の不幸は蜜の味」という要素を持っている。

出井氏は、文系出身であったこともあり、社長就任後も「技術軽視」と評され、技術者のモチベーションが下がったと聞く。そう書いている記事も散見される。

その悪評に拍車をかけたのが、2003年4月に起きた「ソニーショック」だった。次年度(2004年3月期)は黒字を確保できるものの、前年度比57%減益になる見通しである、と発表したところ、ソニーの株価が暴落し、株式市場を混乱させた。その際、減益の要因として話題になったのが、平面ブラウン管テレビが好調に売れていたため、薄型テレビへの移行が遅れた点だった。人の感性に訴える高級ブランドとして投入したQUALIA(クオリア)ブランドの失敗も、出井氏の評価を下げた。この結果、「技術がわからない出井氏」の烙印が押されてしまった。

「ソニーショック」の痛手は大きく、縮小経営へと続く。2006年1月、1999年に発売して以来、ソニーらしい看板商品として話題を呼んだ犬型ロボットAIBO(アイボ)から撤退した。到来するIoT時代で重要性が増すロボットをなぜやめるのか、と惜しむ声が社内外で聞かれたが、「ソニーショック」を乗り切るため「守勢の判断」を出井氏は下した。

後に、平井・前CEOが、この社内の不満、そして、市場ニーズを察知し、2017年度中間決算で営業利益、純利益ともに過去最高を達成したソニーは、決算発表翌日の11月1日、本社で新製品発表会を開き、新型aibo(ERS-1000)を戌年の2018年1月11日(ワン・ワン・ワン)に発売すると発表した。発売から30分で初回販売分3000台を完売した。意図せざる結果かもしれないが、平井氏は出井経営を否定するかのような印象を与えることで、社内のモチベーションを向上させていった。

出井氏が技術軽視と見られたのは、ソニーらしい斬新なヒット商品が生まれなかったのが最大の要因だが、その印象をさらに強めることになったのはコーポレート・ガバナンス(企業統治)改革に積極的に取り組んだから、という皮肉な理由もある。

1997年、ソニーは監督と執行の機能を分ける、「執行役員」制度を日本で初めて導入する。翌年には、社外取締役を含む報酬委員会と人事委員会(現・指名委員会)を設置した。

アメリカ型企業統治については、経営学者の間でも賛否両論ある。出井氏はデジタル社会においては、より迅速な経営判断が執行段階で求められること、当時の商法において、監督と執行を同じ役員が行っていることに矛盾を感じていた。

この改革に関して筆者が会長だった大賀氏にインタビューした時、次のように発言した。

「サラリーマンにとって取締役という肩書は別格なんです。それなのに、取締役がとれ、執行役員なる名称になると、社内事情がわからない家族はがっかりするでしょう。とりわけ奥さんはショックを受けます。そこで、誤解を招かないように、ご主人の値打ちが下がるわけではない旨をつづった手紙を執行役員になられる取締役の奥さん方にお送りしました」

手紙を送る案は、出井氏が大賀氏にお願いして実現した。一見、欧米追随型、合理主義一点張りに見られていた出井氏の素顔には、浪花節的な一面も覗かれる。

出井氏がアメリカ型企業統治を志向するきっかけとなったのも、アメリカの「華麗なる(経営者)人脈」から受けた影響が大きい。その一例が、IBMのルイス・ガースナー元CEO(最高経営責任者)、ゼネラル・エレクトリック(GE)のジャック・ウェルチ元CEOなどだ。こうした「経営の神様」たちだけでなく、イタリア・ローマ在住の作家、塩野七生さんのような文人からも改革のヒントを得た。

技術軽視ではなく、むしろ、技術好きだった

コーポレート・ガバナンスをはじめ、技術以外の面で注目されがちだったが、出井氏自身は決して技術軽視ではなかった。むしろ、技術好きだった。その中でも半導体には並々ならぬ思い入れがあった。社長を務めていた2004年、業績が悪かったのにもかかわらず、将来、ソニーの稼ぎ頭の一つになると判断し、CCD(電荷結合素子)イメージセンサーを生産していた熊本工場を拡張し、CMOS(相補型金属酸化膜半導体)イメージセンサーも生産するため大型投資を行った。これが、2025年度に世界シェア60%(金額ベース)を目指すCMOSイメージセンサー事業の隆盛につながった。この蒔いた成功の種は、出井氏の功績としてあまり語られることはなく、華やかなパフォーマンスの陰に隠れている。

そもそも、出井氏が半導体好きになったのは、盛田氏の義弟で、大賀氏の前任社長を務めた岩間和夫氏(社長在任中の1982年に急逝)である。トランジスタラジオの開発で陣頭指揮を執り、CCDイメージセンサーを使ったビデオカメラも商品化した。出井氏がフランスに駐在していた時に、岩間氏が訪れたことがきっかけで交流が始まった。プライベートでもゴルフの師匠として、マナーに厳しい名門ゴルフクラブでゴルフ道を教えてくれた。

創業世代に覚えがめでたかった出井氏もほかのサラリーマンと同様、それなりに出世欲を持っていた。周りを見渡すと、文系出身者が集まる部署では、東大卒をはじめとする秀才たちがごろごろいる。文系部署では勝ち目はないと判断した。並みのサラリーマンであれば、これで昇進は頭打ちかな、と諦めるかもしれない。

だが、勝ち気で戦略家の出井氏は、「そうだ、技術者が多い部署の長になればいい。それも、技術系の人も行きたがらない業績が悪い事業部であれば、受け入れてもらえるだろう」と考えた。まさに、逆転の発想である。そこで目を付けたのが、不況下で赤字に悩んでいたオーディオ事業部だった。「オーディオ事業部長をやらせてください」と出井氏は手を挙げたところ、すんなりと事業部長就任となった。

オーディオ事業部長の技術者たちも腹の中では、お手並み拝見と思っていた。出井氏も、オーディオマニアで、バイオリンを弾いていた経験から音感が良くても、技術者との距離を縮めるのに苦労した。ところが状況は一変する。フィリップス社と共同で開発を進めていたコンパクトディスク(CD)が出現。出井氏をデジタルの道へ導くことになった。

CDプレーヤーを発売した1982年、大阪の家電量販店で盛田氏(当時・会長)と偶然に会う。店主は盛田氏に「なぜ、ソニーはコンピューターをやらないのですか」と尋ねた。盛田氏が即答しなかったのにもかかわらず、出井氏は「CDでデジタル技術を学んだので、すぐにでもコンピューターも商品化できます」と啖呵を切ってしまった。すると1週間後、盛田氏からコンピューター事業部長への転籍を命じられた。その結果、1983年に生まれたのが、電機各社が統一規格として打ち出した「MSX」ある。日本の電機業界が一丸となって開発し意気込んで発売したものの、販売は各社とも不調に終わった。8ビットにもかかわらず、現在のパソコンのような姿を夢見ていたが、ビジョン倒れに終わった。

ソニーはパソコン事業から撤退し、出井氏もコンピューター事業部長を解任された。また、しばらく仕事がない日々が続いた。修羅場である。だが、出井氏は、マイクロソフトの創業者・ビル・ゲイツ氏をはじめ、国内外の「華麗なる(コンピューター)人脈」とコンピューターに関する最新情報を手に入れることができた。この無形資産が、ソニーのデジタル化に大きく貢献することになる。

ここで、出井氏と盛田氏の共通点に気づく。2人とも良い意味で「ほら吹き」である。

「最近は、ホラを吹く経営者が少なくなった」と嘆いている日本電産の永守重信会長は、「ホラも結果を出せば、ホラでなくなる」と話している。その永守氏が「私も彼のホラには勝てない」と言わしめたのがソフトバンクグループCEOの孫正義氏。孫氏曰く「ホラを英語で何というかご存じですか。ビジョンと言うのです」。

盛田氏譲りの資質

出井氏もまず、ビジョンを打ち出し、すぐに行動に移すタイプである。この資質も盛田氏譲りと言えよう。

コンピューター事業部長を解任された出井氏は、1986年、レーザーディスク事業部長になる。この時も出井氏はスティーブン・スピルバーグ監督をはじめとする「華麗なる(ハリウッド)人脈」を拡げ、著作権など知的財産権の重要性について学んだ。さらに、ハリウッドの映画配給だけにとどまらず、放映権をテレビ局に売り、レーザーディスクにして売るなど、一粒で数回おいしさを味わえるビジネスモデルを知る。この知見が、今、ソニーグループが力を入れている一度モノを売って終わりにするのではなく、顧客との継続的な関係を築いたうえで安定的な収益を得るリカーリングビジネス(Recurring Business)へと発展していく。

1989年、ソニーはアメリカ映画大手のコロンビア・ピクチャーズ・エンターテインメント(SPE)を買収する。今となっては、ソニーグループの大きな収益源となっている映画部門だが、当初は、マネジメントに手を焼く。アメリカ人CEOが、全面的に任せたのをいいことに、放蕩三昧といっていいほど浪費した。盛田氏や大賀氏と親しい人物だったがゆえ、乱脈ぶりがわかっていても誰も口を出せなかった。

ところが、出井氏が社長に就任するや否や、この問題児を更迭した。そして、SPEを立て直すために、元ワーナー・ブラザースでプロデューサーだったジョン・キャリー氏を招聘し、厳しい経営管理を導入した。その後は、『スパイダーマン』などの大ヒット作も生みソニーグループに貢献するようになったのは現在の同社の業績を見れば明らかだ。

ただ当時は、出井氏の英断が、ソニーにおけるエンターテインメント部門の隆盛につながるとは、メディア、アナリストのほとんどが予想できなかった。

エンターテインメント部門の基盤を作った出井氏だが、対外的な「表現」を見ていると、二枚目の主演俳優に近い印象を受けた。格好悪い姿を一切見せなかった。俳優は人間であるが、自身の「ソフト」を売りにしている。同様に、出井氏も経営者の「ソフト」面を重視していた。

出井氏は社長に就任する前から、話の内容はもちろんのこと、話し方、見せ方に神経を尖がらせていたようだ。筆者が社長室でインタビューしたとき、ノーネクタイでジャケットの下はタートルネックのセーターという出で立ちで登場した。その着こなしがあまりにも板についていたので、ファッションの好みについて聞くと「カシミヤを好んで着ますね」と言う答えが返ってきた。

そして、カメラマンが写真を撮ろうとしたとき、「僕は学生時代に写真部に所属していたんだよ」と言い、カメラマンとカメラや撮影技術につい会話を始めた。今思い起こせば、“SONY”というブランドをしょって立っているという自負があり、責任を感じていたようだ。出井氏は「トップ広報」の先駆けと言ってもいい存在である。

コーポレート・ブランドの象徴としてのトップを演じるうえで、良い予行演習となったのが、1989年の人事だった。取締役となり、その翌年に広報と宣伝、デザイン担当の役員に就いた。

「評論力」こそが真骨頂だった

この頃、ソニーはメディア関係者を招いて懇親会を開いていた。大賀社長の傍でSPのごとくニコリともせず、鋭い視線を送り立っていた背が高い人の姿を覚えている。その人こそ、広報担当役員の出井氏だったのだ。

広報担当役員として、メディアやアナリストへの対応をするだけでなく、「プロダクツ・ライフスタイル研究所」という社内シンクタンクを設ける。「カンパニー・エコノミストになりたい」と言って入社した出井氏の夢を自ら実現させた。「ソニーショック」の折、出井氏は「実行を伴わない評論家」だと揶揄されたが、現在の経営者たちを見渡すと、論理的に考え、事業を構想し、それを上手に表現する「評論力」が欠けた人が少なくない。

この「評論力」こそが、出井氏の真骨頂であったという見方もできる。まず、プロダクツ・ライフスタイル研究所から、レポートや本を相次いで発表した。激変する環境変化に対応したソニーのあり方を提言するようになった。そして、その「評論力」が社長への道も切り開く。

ビル・クリントン政権時代、アル・ゴア副大統領が1993年に提言した「情報スーパーハイウェイ構想」に衝撃を受けた出井氏は、「このままではソニーは絶滅する」という危機感を訴えた。翌年1月、「スーパーハイウェイへのソニーの対応」というレポートを大賀社長に提出した。このレポートは、今見られるインターネットによる変化を、驚くほど見通している。言い換えれば、現在あるソニーグループのビジネスモデルの基礎は、出井氏が固めたといっても過言ではない。

1995年1月、出井氏は社長に任命される。大賀典雄社長から次期社長に指名された。14人の先輩たちを追い越しての就任だった。大賀社長が新社長の記者会見で発した「消去法で出井氏を選んだ」という言葉が独り歩きした。その背景には、当初、社長有力候補だった1人が、週刊誌にスキャンダルを報じられたことで、そのほかの候補から選ばざるをえなくなったという明言しにくい事実があった。

出井氏の才能、キャリアが見劣りするという意味ではなく、ほかの14人と比べて、「違う何か」を持っていると大賀氏が判断し、そのほかの人を消去したのだろう。「違う何か」がこれまでのソニーにはない「違う何か」を創出してくれると期待したに違いない。そのきっかけとなったのが、シンクタンク時代に出井氏が大賀氏に渡したレポートであったと考えられる。

社長就任の内示が出る前まで出井氏は、「こんな会社の社長になりたい人がいるのだろうか」と内心思っていた。バブル経済崩壊後の長期低迷に突入し、取り巻く環境も大変厳しいものだった。すでにソニーは、売上高4兆円の国際的な企業に成長していたが、1ドル=80円を割り込む円高、コロンビア映画買収に伴う膨大な有利子負債、ソニー・アメリカの乱脈経営、東芝陣営とのDVDのフォーマット争いでも苦戦していた。

ソニー初の生え抜きサラリーマン社長

会長兼CEOになった大賀氏まで、創業世代が社長を務めた。いずれもカリスマ性が強いトップだった。出井氏ははじめて登場した生え抜きのサラリーマン社長として、いかに強いリーダーシップを発揮していくかが大きな課題となった。そこで、オーディオ・ビデオに加えてIT時代に対応した新しいソニーに変革するため、キャッチフレーズを二つ考えた。「リ・ジェネレーション(第二の創業)」と「デジタル・ドリーム・キッズ」である。広報・宣伝で学んだ言葉の力を信じた。出井氏が言うところの、「コーポレート・コミュニケーション」、経営としてのブランド戦略である。

社長の初仕事は、コンピューター事業への回帰だった。ここでも出井氏のコンピューター事業部長時代に培った「華麗なる人脈」がものを言う。すぐに頭に浮かんだのが、アンディ・グローブ・インテル社長だった。グローブ氏は全面的な協力をすると約束し、その条件として、これまでにない「ソニーらしい」パソコンを作るよう求めた。そして、1997年に発売されたのが、軽量・薄型のノートパソコン「VAIO(バイオ)」だった。その後、平井CEOにより分離・独立されるが、当時は、「ソニーらしい」斬新なデザインが話題を呼んだ。

社長になってからの出井氏は経営層の人事に「華麗なる人脈」を生かそうとした。1997年5月、米3大ネットワークの一つ、CBSブロードキャスト・グループ元社長のハワード・ストリンガー氏をソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ(米現地法人)の社長としてスカウトする。ソニーの主力市場であるアメリカで業績を大きく改善した手腕が認められ順当に昇進、2005年6月、ソニーCEOになる。初めての外国人トップ(イギリス出身)として話題を呼んだが、CEO就任後はヒット商品を出せず業績が低迷し、株価も急落してしまった。その結果、出井氏の任命責任が問われるようになった。

だが、長期的視点で評価すれば、あながち失敗人事であったとは断定できない。ハードとソフトを融合させインターネット時代に対応するという出井氏のビジョンに乗り、エンターテインメント分野の「華麗なる人脈」を紹介し、同分野での経験にものを言わせ、エンターテインメント部門の社員の士気を高揚したのは、ストリンガー氏の功績であったと言えよう。

ソニーの保守本流とされてきたエレキ(エレクトロニクス)部門の経験がなく、主に、音楽、ゲームなどのエンターテインメント畑を歩んできた平井氏を後任CEO候補として推したのはストリンガー氏だった。「ストリンガーにネイティブ・イングリッシュでゴマを擦れる人は、ソニーに平井さんしかいない」というブラックジョークが飛び交うほど、ストリンガー氏と平井氏は強い絆で結ばれていた。

出井氏の「華麗なる人脈」は、同年代、年上とは限らない。自身より若い「やり手経営者」にも積極的にアプローチした。ソニー時代からベンチャーの支援に熱心だった。

「彼の目を見てください。志に燃え、きらきらと輝いている」

この一言でわかるように、出井氏が一目ぼれした人物がいる。マネックスグループを創業した松本大(おおき)氏である。筆者も、創業当時の松本氏にインタビューしたことがあるが、確かに眼力は強かった(なぜか、だてメガネをかけていた)。オンライン証券会社がめずらしかった時代に、個人投資家向けにその将来性について熱く語っていた。

松本氏は出井氏の前でも熱弁を振るった。出井氏は出資を即決し、1999年、ソニーはマネックスに50%出資した。出井氏はソニーを退職した後も、クオンタムリープでベンチャー支援を続けていた。

日本でベンチャーが育たないのは、資金調達の壁があるからだ。京都では、オムロンの創業者である立石一真氏のように、若手起業家を育てるためエンジェルとなり金も出すが口も出す創業経営者がいたが、大企業のサラリーマン経営者が、1人の起業家に一目ぼれして、自社と折半出資に持ち込むケースは非常に少ない。このような冒険を出井氏は実行したのだった。

上司に恵まれたサラリーマン人生

何度もクビになりかけた出井氏。仕事以外でも、危ない経験をしている。盛田氏とダブルスを組みテニスをプレーしていたときの話だ。思い切りラケットを振ったところ、盛田氏の顔に当たり、血が流れた。「あのときは、本当にクビになると思いました」という。盛田氏は何も言わなかったそうだが、数多くの挫折を経験した出井氏を象徴するようなエピソードである。

もう1つ、笑うに笑えぬエピソードがある。実は、フランス駐在時代、出井氏は転職活動をしていた。ある企業からスカウトされた。転職の動きを嗅ぎつけたのが大賀氏だった。フランスに来た大賀氏が出井氏に一言。

「君にA社から声がかかっただろう。その会社、私にもアプローチしてきたよ」

実に、大賀氏らしいブラックユーモアである。その後も、大賀氏からは何度も「クビだ」と言われた。しかし、それはハラスメントではなく、トップ候補育成のための愛の鞭だった。

実に、出井氏は上司に恵まれた。これが、出井氏のサラリーマン人生を成功に導いた最大の要因であったのではないだろうか。オープンイノベーション、副業、異業種間交流が叫ばれる昨今だが、「最強の『華麗なる人脈』は社内にあり」は今もなおサラリーマンの鉄則であり、人脈形成の手間から考えると効率が良い。ただし、その会社が持続的成長を遂げるという大前提がある。

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パナソニックの創業者である松下幸之助氏は、「愛嬌」の重要性を強調した。深い意味がある。出井氏は表面的には、愛嬌があるほうではなかった。いや、誰にも媚びへつらわなかった。それには、覚悟が要っただろう。出井氏特有のダンディズムが身なりだけでなく、精神にまで浸透していたようだ。

誰にも媚びへつらわない姿勢を貫くには、大いなる自助努力なくしては無理だ。出井氏は、挫折を挫折で終わらせなかった。転んでもタダでは起きない、を実践した。挫折を必ず、後に生かしているのだ。それを可能にしたのが人との出会いである。人に会うことで情報収集し、問題解決や構想につなげた。そのため、つねに新しい人と出会うため、自ら出会う機会をつくり、できた縁を大切にし、維持するように心がけた。筆者もその1人であったとすれば光栄なことだ。

きっと、出井氏は天国でも「華麗なる人脈」を拡げているのではないだろうか。合掌。

(長田 貴仁:流通科学大学特任教授、事業構想大学院大学客員教授)

長田 貴仁

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