書家であり詩人、相田みつをの知られざる半生を片桐仁が息子とともに振り返る

書家であり詩人、相田みつをの知られざる半生を片桐仁が息子とともに振り返る

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  • 更新日:2022/08/12

TOKYO MX(地上波9ch)のアート番組「わたしの芸術劇場」(毎週金曜日 21:25~)。この番組は多摩美術大学卒で芸術家としても活躍する俳優・片桐仁が美術館を“アートを体験できる劇場”と捉え、独自の視点から作品の楽しみ方を紹介します。5月6日(金)の放送では、「相田みつを美術館」に伺いました。

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◆“にんげんだもの”でおなじみ相田みつをの美術館へ

今回の舞台は、東京都・千代田区有楽町の東京国際フォーラムの地下にある相田みつを美術館。1996年に銀座に開館し、2003年に現在の場所に移転。年に3回の企画展ごとに内容を変えながら、常時約100点の相田みつを作品を展示しています。

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相田みつをについて、片桐は「よくトイレなどに詩がかかっていて、ドキッとさせられたりする」とその印象を吐露。そして、「詩はいっぱい見たことがありますが、それが美術館になるってどういうことなのか。どんな場所なのか楽しみ」と期待しつつ館内へ。

案内してくれるのは、みつをの長男にして館長の相田一人さん。片桐は「(みつをが)書いているところを見ていたんですね!」と興奮していましたが、残念ながら相田館長はその姿を近くで見たことはないそう。というのも、みつをは仕事場にこもって制作し、その緊張感たるや凄まじいものがあり「そばに行ってみようなんて気には全然ならなかったですね」と当時の様子を振り返ります。

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◆“書家”としての才能に溢れていた青年時代

みつをは、1924(大正13)年生まれ、栃木県足利市出身。旧制中学時代から書や短歌、絵をたしなみ、卒業後は禅を学習。そして、10代の終わり頃から書家を志して修行を積むと、すぐさまその才能を開花。まずは、そんなみつをの、書家としての実力がわかる20歳前後の作品から。

「帰園田居 陶淵明の詩」(1946年)、「万葉集 柿本人麻呂の歌」(1945年)、「聖澤雲天」(1944年)を前に「これ、相田みつをさんの字なんですね!」と驚く片桐。

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みつをは若い頃に書の勉強に本格的に取り組んでおり、相田館長曰く「バリバリの正統派」。片桐も「字がうまっ! お若いときから誰が見てもうまい字を書かれていたんですね」と目を丸くします。

そして、「鄭文公碑 臨書」(1947年)で初めて全国コンクールで1位を獲得。以降、多くのコンクールで入選・特選を重ね、そのままの路線で進めば、書道界で「それなりのポジションを得ていたのではないか」とよく言われるものの、そうはならず。

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「本人が言っていたのは、『自分の言葉を書きたいんだ』と。自分の言葉を書くためには、こういう文字はどうも合わなかったようで、いろいろ試行錯誤して独自の世界を築いていった」と相田館長。ちなみに「鄭文公碑 臨書」には“光男”という文字が刻まれており、これは本名で、“みつを”へと変わるのは、30歳ぐらいからだとか。

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次は30代半ば頃の作品「いのちがけ」(1960年代後半)。片桐が「まだ、イメージする相田みつをさんと、ちょっと違いますね。なんか厳しい感じが」と印象を話すように、それは掠れが強調され、まさに命懸けという雰囲気を醸し出しています。

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相田館長の幼少時、作品を書いているときの父・みつをは非常に怖かったものの、筆を置くと至って普通の父親で、わりと冗談も言う面白い人だったそう。相田館長自身「仕事場で書いているときと、家族とくつろいでいるときのギャップが激しすぎた」と語ります。

また、みつをの作品は、一見簡単のように見えますが、実際はひとつの作品につき、ものすごい量を書き、一晩で失敗作が山のようになることも。そして、その失敗作は「人目に触れるのは嫌」とお風呂場に持っていかれ、炊き付けにして、お風呂を沸かしていたとか。

それを聞いた片桐は「紙代が相当かかっていますね」とあんぐり。実際、昭和30年代の大卒の初任給は1万5,000円程度に対して、相田館長の母(みつをの妻)曰く、調子がいいときのみつをは一晩で3万円分の紙を使っていたそうです。

一方、収入面は30歳で初めて個展を開いたものの、作品はほとんど売れず。その後、生涯20数回個展を開くも、売れ行きは芳しくなく「命懸けで書いていたが、なかなか世の中の理解は得られなかった。一般的には知名度が全然なかった時代なので、売れるという感じではなかった」と相田館長は回顧。

書家としての才能がありながらもそのテクニックを捨て去り、自分にしか書けない書を追求していく相田みつを。そんな彼には書家と同時にもうひとつの顔があり、それが“詩人”でした。

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◆詩人として、自ら信じるものを書に

作品を前に、片桐が「字の感じは我々が知る相田みつをさんではないけれど、(みつをの)詩ですね」と感慨深そうに眺めていたのは、「筆を持って」(1950年代)。

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みつをのスタイルは、30歳前後に出来つつあったそうですが、そうしたなかでこれは自分の生き方を宣言したような言葉で、相田館長も「相田みつをの原点に位置する作品のひとつ」と解説します。

当時、書家で詩人、今でいうシンガーソングライターのような存在はほとんどいなかったそうで、本格的に書を学んだみつをは、その技術を踏まえた上で自分の詩にあった書体・文字を模索しますが、その際の葛藤はものすごいものがあったとか。

また、詩に関しても短いものが多いため、瞬時にできると思われがちですが、それは大きな誤解。詩が生まれるまでには長い時間がかかり、1年や2年はザラ。一番長いもので10年かかったものもあるそう。そして、それを書にする際には誰でも書けそうな感じでありながら、実は大変ということを見る人に悟られるようでは本物の書ではない、とみつをは生前語っていたそう。

続いての作品は、ろうけつ染めで書かれた「わたしは無駄に」(1960年)。ろうけつ染めとは、布に墨の代わりにろうを溶かしたもので書き、乾いた後に染めるのですが、そうするとろうの部分が染料をはじいて白く染め抜かれます。

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なぜこうした作品を書いていたかといえば、作品が売れなかったから。風呂敷やのれんなどの実用品を作り、糧にしていました。

みつをは、30歳の頃に筆1本で生きることを決め、制作活動に邁進していましたが、この頃が生活的に最も大変だったそう。世間は高度成長前夜で物質的な豊かさが求められた時代とあって、精神・心をフォーカスするみつをの作品はあまり合わなかったそうですが、世の中の流れとは逆行し、その後もみつをは自らの信じるものを追求していきます。

◆全ては計算された作品…息子が語る相田みつをの真髄

みつをが50代後半の作品「アノバチコノバチ」(1981年)になると、いよいよ既存の相田みつをワールドができ、片桐も「我々がイメージする相田みつをさんの感じ」と笑顔を見せます。

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本作は平仮名にカタカナ、漢字が使われていますが、相田館長によると、これは計算された使い方で「父は自分の喉元に相口を突きつけるような、自分に向けて言葉をぶつけるときにはあえてカタカナの鋭さを利用したと思う」と言います。

また、カタカナの“バチ”に目が行きがちですが、それも計算のうちで「よく相田みつを作品は素朴な書という表現を聞くが、素朴ではなく全て計算し、その計算が表に出ない段階まで書き込んで初めて発表していた」と相田館長。そのため、ひとつの作品ができるまでには相当な時間とエネルギーが必要だったとか。

みつをは67歳のときに脳内出血で亡くなりますが、相田館長は「ある意味、その歳までよくぞ生きたというところもある。書き続けるのはすごく大変なことだったと思う」と父を労い、「本人ではないとわからないいろいろな苦しみがあり、それを背負いながら67年の生涯を走り抜けた印象」と思いの丈を語ります。

そして、最後はみつをの代表作、“つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの”でおなじみ「つまづいたって」(1980年代後半)。

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この頃、みつをは60歳を超えていますが、実はこの言葉は30歳過ぎあたりから書き始め、死ぬまで書き続けた、いわば自身を物語るテーマソングで、時代時代でその作風は大きく異なっていたそう。

また、当時のみつをはこの言葉とは裏腹に「人間、誰だってつまづきたくはない」と言っていたとか。そして、「自分は絶対につまづかない方法を知っている」とも言い、それは何かといえば「何もやらないこと」。そうすればつまづくこともないことを知りながらも、絶えず挑戦を続けていました。

そんなみつをのことを世間の人が知ったのは、残念ながら彼の死後。60歳の頃に著書「にんげんだもの」を出版したものの、そこまで売れることはなく、相田館長は「(もしも今)父が生きていたらビックリすると思う」と話します。そして、存命していれば98歳。「おそらく、全然違うスタイルの『つまづいたって』を書いていたと思う」とも。

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みつをの実子とともに、その半生を辿った片桐は「誰もが知っている相田みつをさんですが、20代前半であれほどの書を書き、そこから自分の言葉を書にするために、あの字体になっていった。しかも、何回も、何回も、何回も書き続け……それによって、あの人々の心にスッと入ってくる字になるんだなっていうことに衝撃を受けました」と感想を述べ、「人間だもの、相田みつをさん……素晴らしい!」と称賛。貧しくとも自らの世界を追い求めた孤高の芸術家に拍手を贈っていました。

◆今日のアンコールは、「憂い」

相田みつを美術館の展示作品のなかで、今回のストーリーに入らなかったもののなかから相田館長がぜひ見てほしい作品を紹介する「今日のアンコール」。今回選ばれたのは「憂い」(1980年頃)です。

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これは、みつを作品のなかでも最大のサイズを誇り、相田館長によると、この詩ができるまでに10年かかったそう。しかも、活字で発表したその詩をある方が気に入り、「書にしてほしい」とみつをに懇願。しかし、一向に作品が出来上がる気配はなく、もはや忘れかけていた10年後に本作が完成。つまり、詩が生まれるまで10年、書になるまで10年と、20年もかけてできた大作です。

その上で相田館長は「これは父・相田みつをの詩人としての代表作であり、書家・相田みつをとしての代表作と言っていいと思う。内容的にもいかにも父らしい作品で、自分がどうしていかにして作品を書いてきたのか、その“原点”を説明しているようなところがある。ですから、父・相田みつをの作品のなかから『一点を選べ』と言われれば、私はこの作品を選びたい」と本作を選んだ理由を語っていました。

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最後はミュージアムショップへ。「見てください!」と語る片桐の眼前にはたくさんのポストカードがズラリ。

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「過去最大量のポストカード!」と興奮しきりの片桐の目に留まったのは、珍しく絵が描かれているもの。それは1970年、みつをの故郷である栃木県足利市の成人式のポスター用に本人がデザインしたそうで「絵も描かれたんですね!」と片桐。

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さらには、ろうけつ染めの「暖簾」やトイレ用の「日めくりカレンダー」など、さまざまなグッズに目を輝かせる片桐でした。

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※開館状況は、相田みつを美術館の公式サイトでご確認ください。

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<番組概要>
番組名:わたしの芸術劇場
放送日時:毎週金曜 21:25~21:54、毎週日曜 12:00~12:25<TOKYO MX1>、毎週日曜 8:00~8:25<TOKYO MX2>
「エムキャス」でも同時配信
出演者:片桐仁
番組Webサイト:https://s.mxtv.jp/variety/geijutsu_gekijou/

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