さすがに最近は人々の口に上ることは少なくなったが、長い間、女性をのぞき見したりつきまとったりするなどのわいせつ行為や性犯罪を犯す男の代名詞になっていた言葉がある。「出歯亀」。手元の辞書にも記述がある。
〈「(もと、変態性欲者池田亀太郎のあだ名)女ぶろをのぞき見などする、変態性の男。」(「新明解国語辞典第六版」)〉
それは115年前、いまは繁華街となっている東京郊外の新開地で起きた電話局長夫人暴行致死事件の「犯人」の名前からとられた。一世を風靡した流行語となり、やがて一人歩きして、性犯罪やモラルに関してさまざまに使用される。
現在も盗撮やストーカーなど、女性を狙った犯罪は多いが、なぜそれほどの「時代の言葉」になったのか。メディアの責任に加えて、当時の社会や文化の状況とも絡んでいた。今回も、当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中、いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。
惨殺被害者の人妻は「容貌端麗、琴の名手」
「出歯亀」について書かれたものは新聞記事も含めて数多い。しかし、事件記事のデータを筆頭に、不正確で誤解や誇張に満ちた内容が目立つ。検察・警察関係者が書いたものも例外ではない。信頼できる部分を確認しながら事件を振り返ってみる。
事件が起きたのは1908(明治41)年3月22日夜。新聞報道は23日発行24日付の報知夕刊と夕刊紙の都新聞から始まっている。他紙は24日付朝刊で大きく扱った。いずれも現在の新聞と書き方が違ううえ、文章的にも問題が多い。社会面約半分を使った東京朝日(東朝)の記事をリライトする。
〈 美人の絞殺 電話局長の夫人―容貌端麗 彈(弾)琴の名手―圓(円)満なる主婦 妊娠―風呂の歸(帰)に悲慘(惨)の死 月も日も丁度結婚の一周年 戀(恋)の怨みか―狂人の戯れか
一昨22日の夜、(東京)府下豊多摩郡大久保村(現東京都新宿区)大字西大久保309、下谷電話局長、幸田恭(32)の妻ゑ(え)ん子(28)が同所54、「森山湯」前の空き地で何者かに殺害された。〉
被害者の名前は新聞や資料によってバラバラ。「ゑん子」(東朝、報知)、「おゑん」=東京日日(東日、現毎日新聞)、読売=、「エン子」(時事新報、東京二六新聞、日本)、「エン」(國民新聞)、「お艶」(萬朝報)、「縁子」(都新聞)……。裁判の判決を報じた記事でも違っている。

「出歯亀事件」の第一報(報知)
事実関係の表記がいまほどうるさくなかったというか、どうでもよかった、というのが正直なところか。ここでは森長英三郎「史談裁判」(1966年)の表記に合わせて「ゑん子」で統一する。事件の状況について東朝の記事は――。
「奥さんなら1時間も前に帰りました」空き地に落ちていた女物の下駄
〈 ゑん子は午後5時ごろ、(外出先から)帰宅して夕食を終え、台所その他の用事を済ませた後、8時ごろ、1人でそれほど遠くない同所57、「森山湯」・森山庄一郎方へ入浴に出かけた。しかし、普段30分程度で帰るのが1時間を過ぎても帰らないので、同居している叔母(57)は疑いを抱き始め、どうしようかと思案。恭氏の実弟の早稲田大学生(20)を「森山湯」にやって問い合わせさせたが「奥さんなら1時間も前に帰りました」という返事。夫も初めて不審の念を起こした。
ここでまず付近の知り合い方へ問い合わせたが要領を得ないため、近くの駐在所に届け出る一方、出入りの車宿(人力車業者)の数人を集めて「森山湯」の周辺を捜索させた。夫の見込みで空き家を探したが、何も見つからなかった。ところが、「森山湯」と道を隔てて斜め前にある空き地に女物の下駄の片方が落ちていたことから、空き地内に入ると、東側の隅にゑん子の遺体が横たわっていた。〉
東朝の記事は現場の模様を詳しく記述。巡査の提灯に照らし出された光景をこう描く。
〈 むしろ2枚の上に無残な最期を遂げたゑん子の周囲には下駄の片足、せっけん箱、ぬか袋、練りおしろいの小瓶などが散乱していた。ゑん子はモスリン(ウール)の綿入れに伊勢崎銘仙(群馬県・伊勢崎特産の普段着用絹織物)の羽織。湯帰りなので足袋は履かず、頭を丸まげ(既婚女性が結う日本髪)に結い、濃い化粧をしていた。左目の下に糸のようなすり傷と、右足のすねに細かい傷があるだけだったが、犯人は口にぬれ手ぬぐいを押し込み、鼻をふさいで窒息させ、別に手で絞殺したような形跡があった。〉
小柄で色白、黒目がちのぱっちりとした目…「いまは人目にも分かる妊娠5カ月だった」
遺体は東京帝大(現東大)法医学教室で解剖されたが、死因が窒息で、暴行を受けていることは確実と記事は指摘。被害者の家族関係や本人の経歴などについても触れている。
〈 夫と夫の伯母、弟の4人暮らし。日頃極めて平穏で言い争い一つしないということからみれば、家庭内に原因があるとも思われず、必ず他になければならない。夫・恭は自宅を訪れた記者に「いくら当人が慎んでいても、外界から受ける迫害は仕方ありません。誠に残念でございます」と言い、涙をのんでそっぽを向いた。記者ももらい泣きして後方を見れば、床の間にはゑん子が出産の用意にもと新しく仕立てた産着が4~5枚積み重ねてあった。夫は低い声で「妻はよほど抵抗したようです。全くかわいそうでなりません」と語った。
付近の人の話では、被害者は非常におとなしい性格で、人に恨みを受けるようなことはないという。牛込箪笥町(現新宿区)が原籍で現在は埼玉県に住む笠原三平の長女で、家庭の事情から親類の家で育ったが、7~8歳のころからその家の夫人から琴を習い、15歳で名取に。いまの夫と結婚したのは昨年3月23日。やや小柄だが色白く、黒目がちの目はぱっちりとして、近所でも美人の聞こえが高かった。昨年11月、子どもを宿し、いまは人目にも分かる妊娠5カ月だった。〉
東朝は唯一、この日の紙面に「薄命の美人 幸田ゑん子」のキャプションで、椅子に座った和服のゑん子の写真を載せている。事件が起きたのは結婚1周年を迎える前日で、ゑん子が出かけたのは、一時世話になっていた親類宅への挨拶のためだった。ゑん子は20歳のときに一度結婚したが、夫と折り合わず、別れて親類宅に戻っていた。
「一種の色情狂者の行為であることに間違いないようだ」
この第一報の段階で「犯人像」に触れている新聞もあった。萬朝報は主見出しを「色魔の残虐」とし、本文で「たぶんこの辺を徘徊している痴漢の一時の出来心から惨事を起こしたのだろう、現場の痕跡から犯人は1人だろうという鑑定だが、抵抗されたので殺害したのか、訴えられるのを恐れて殺害したのかは明らかでない」と書いた。
時事新報も「一種の色情狂者の行為であることに間違いないようだ」と指摘。「有力なる事実」の中見出しで、2人組の男が付近で通行の女性を辱めたことが前年11~12月に約5回、本年1~2月に約4回あり、3月6日にも「女中」が被害を受けたと記した。
「怪しい男が現れて通行する女性にわいせつ行為をし、辱めを受けた将校夫人や令嬢らが…」
東朝は「無警察の大久保」の中見出しで付近の治安状況を次のように報じている。
〈 日露戦争後、大久保はがぜん膨張して人家がまばらに立ち並んだが、駐在の巡査は極めて少なく、そのために窃盗続々と生じて、われもわれもと被害を訴える者が多かった。昨年12月ごろから躑躅(ツツジ)園付近に怪しい男が現れて通行する女性にわいせつ行為をし、辱めを受けた将校夫人や令嬢らが2~3人にいるとの評判が立ち、銭湯は2軒とも女性客が半減。身分のある人は夜分は家に引き込み、そうでなければ供を付けて外出する習慣だったが、いかにも物騒なので毎晩警官は角袖で付近を警戒していた。〉
「角袖」とは男性の和装コート。まだ現場の刑事も和服だったことが分かる。同じ3月24日付朝刊の報知の続報は「5軒の湯屋覗(のぞ)き」の中見出しで「大久保管内に5軒の湯屋があって、しばしば女湯をのぞく痴漢がいる。夜間は戸口に立ち寄る者や指で障子を破る者があるという」と書いた。
事件発生直後から、角袖の刑事は付近の「不審人物」を「嫌疑者」として次々連行していた。東朝は「警視庁の宮内警部は某方面に出張中だったが、昨夜10時ごろ、刑事2名とともに嫌疑者1名を伴って新宿署に帰った。嫌疑者は22~23歳の土方ふうにして頭髪は五分刈り。面相は獰悪ではんてんを着ていた」と、当時の新聞らしい差別的な表現。
「新宿区史」(1955年)によれば、明治初年「大久保界隈は抜弁天(厳島神社=現新宿区余丁町)を除けば大して人家もなく」という状態だったが、「日露戦争前後からは市街電車の発達に促されて増大していく人口は大久保、戸塚辺に吸収され、都市と郊外との接触地帯を次第に西へ進めたのであった」。
同書に掲載された1922年の東京市統計年表によれば、事件が発生した1908年の大久保村の現住人口は前年1907年の4943人から9581人にほぼ倍増。そうした郊外居住を始めた新住民の多くは役人やサラリーマンら中流の給与生活者で、幸田家もその一員だった。
ほかにも、住宅建築に携わる土木・建設作業員が大挙して近辺に居住。近くの早稲田大に通う学生らの下宿もあるなど、実際の人口はさらに膨張し、それに伴って治安の悪化が問題になっていた。
手当たり次第に不審者連行
捜査の重点について新聞はそろって書き立てた。
「その筋の鑑定においては、堕落学生あるいは土工の所業とにらみ、元来大久保村は不良学生の巣窟とも称すべきほど常に多く徘徊しているという」(3月24日発行25日付報知夕刊)、「7名の嫌疑者を拘引」(同日付都新聞)
「嫌疑者は既に5~6名に及んでいるが、そのうち24日午後7時に拘引した22歳と明治大聴講生の2人は証拠不十分で午前10時ごろ放免された。その他の人夫3名も本件には関係がない模様だという」(25日付東朝朝刊)
……と、いわば手当たり次第に不審者を連行して取り調べたようだ。
25日付國民朝刊は「惡(悪)書生乎(か)知合乎」の見出しで、事件の主任である森田警部の見方として「犯罪者は無論無頼の土方、悪書生の類だろう。空き地にひそんで被害者の湯帰りを待ち受け、現場の入り口を通り過ぎるのを見て後ろからやにわに喉を締めつけ、空き地に連れ込んだ」と記述。
そのうえで「記者の見るところによれば、犯人はあるいは被害者の知り合いではないだろうか」との疑いを述べている。現場の状況から犯行が大胆すぎるとし、空き地の前で被害者を口説き、無理に引き入れたなどと推理。
また同じ日付の萬朝報は「大久保住民を安堵せしめよ」として、女性が襲われたりのぞき見された最近の事件を列挙。「一刻も早くこの悪漢を捕まえ、住民の安堵を図るよう切望にたえない」と警察に注文をつけた。
新聞には霊術師と歴史家が「犯人は悪漢でない」「いや悪漢だ」と…
以後も各紙は、「犯人」の推理と「嫌疑者」の連行の報道を競った。
「以前から大久保村を騒がせていた痴漢はかすりの羽織を着ていた」と書いたのは3月26日付萬朝報。
3月28日付読売は霊術師と歴史家の「犯人は悪漢でない」「いや悪漢である」という見解を紹介した。
3月28日付東朝社会面コラム「六面鏡」は「大久保の美人絞殺事件は意外の辺より犯人が挙がるらしい」と書いた。意味は不明だが、捜査員の間にも犯人像が錯綜していたことがうかがえる。
106歳まで生きた国文学者で事件当時、東京朝日の記者をしていた物集高量は「百三歳。本日も晴天なり」(1982年)でこう書いている。
〈「そのころの新聞っていいかげんなものだったんですよ。悪いことをしたら極悪非道。もう鬼のように書かれてね」〉
〈「悪いことをした人の顔写真も適当なものなんですよ。新聞社はいつも人相の悪い人の顔写真を集めてね。悪いやつが出てくると、その中から選んで『こいつは出歯亀しそうだからこれにしよう』なんて新聞に掲載するんですよ。いいかげんなもんでしょ。これは明治40年ごろの話ですよ」〉
そのままではないとしても、大筋ではその通りだったと想像できる。
「豪胆な婦人中より年若く眉目うるわしい者3名を選んで雇い入れ…」警察の“おとり作戦”
もちろん、警察も手をこまねいていたわけではない。新宿署長までが変装(といっても制服以外を着てということのようだが)して街に出た。4月2日付報知朝刊にはそうした捜査の内容が「探偵隊の大活動」として詳しく載っている。
刑事が大挙して街へ出て「不審者」の探索に当たるだけでなく、次のような作戦も。
〈 豪胆な婦人中より年若く眉目うるわしい者3名を選んで雇い入れ、紅粉を施させて、一人はひさし髪(明治末から大正にかけて女学生らに流行した束髪)、海老茶はかまのハイカラ姿となし、一人は丸まげに東コート(女性用の和服コート)の装い。もう一人は野暮ないちょう返し(若い女性のまげ)に黒じゅす(黒いサテン)のえりを掛けた双子木綿(光沢のある綿織物)の着物姿にそれぞれ変装させた。日没後、深更に至るまで大久保付近をあちこちと徘徊させ、距離を置いて見え隠れに1名の密行巡査を付け、もし途中で何者かが婦人に戯れるようなことがあれば、直ちに巡査が飛び出していやおうなしに引き捕らえようという計画。いわゆる“おとり政策”も実行しつつある。〉
「出歯亀」逮捕後の4月9日付時事新報には、おとりだったと思われる「女探偵」の写真が掲載されているが、そこでは4人になっている。
そうした捜査の過程で「引致した嫌疑者は既に十余名に達した」(3月26日付時事新報)が「大久保の色魔は何者ぞ」(同日付萬朝報)、「惨殺者は誰れ」(3月28日付読売)、「犯人はまだ知れぬ」(3月29日付読売)という展開に。
時事新報は3月29日付で「真っ先に犯人を探知、もしくは逮捕した者に金時計を贈る」という「大久保惨事犯人 探偵大懸賞」の広告を掲載した。
その結果は4月16日付同紙に、「犯人」逮捕に功があった巡査4人に銀時計4個が贈られている。さらに事態は「暗中模索」(3月30日付報知朝刊)、「事件は迷宮に入れり」(4月1日付報知朝刊)に。
批判は警察に向かい…
一方で事件の影響が無視できなくなってきたことが報知の同じ記事で分かる。
「日没後は婦人の通行者はまれで、銭湯へは近所で申し合わせ、5~6人ずつ団体をつくって入浴。よくよくの急用でなければ夜間は外出しないよう戒めているとのこと」
刑事・巡査が日夜の別なく全村に入り込み、かえって女性が不審者ではないかと通報する騒ぎも。ついには……。
「近来、大久保を引き払って(東京)市内に居を移す者多く、借家の契約をしたものが続々破談になるような始末。犯人が捕まらない場合は、ようやく発展しようとしてきた大久保も元の寂しさに戻るかも分からないと地主は心を痛めている」
当然、批判の対象は警察の捜査に向かう。4月1日付時事新報は、東京府会議員有志が「不安の状態を継続させているのは警察の緩慢によるもの」として警視庁に申し入れをしたと報じた。
新聞も同様で、3月31日付報知朝刊「論説」はこう主張した。
「警察の威信 大久保の惨事はその犯人いまだ捕縛されず、人にいよいよ警察の威信を疑わせるに至った。それにしても、都市の膨張は各種階級の人間の流入を招き、風儀上非常に恐ろしい危険分子を増加させ、一層の警察力の発揮を求めつつある。いまの都市は人間の都市でなく罪悪の都市。厳しい取り締まりを求める」
さらに激しかったのは3月2日発行3日付都新聞の「拙劣なる探偵術」。「戸山が原の浮浪者」や「堕落学生」を片っ端から調べたが手ごたえがないことから「最も初歩的で拙劣な手段である釣り出しを行うに至った」と捜査員の人海戦術とおとり捜査を批判した。対して4月4日付萬朝報1面「言論」は警察に「一層の奮励を望む」と激励した。
女湯をのぞき目にとまった“26、27歳の美人”を暴行・殺害…「畜生に劣る色餓鬼」性犯罪者の代名詞となった男の犯行とはへ続く
(小池 新)
小池 新