
日本の学校教育の現場は疲弊している(写真:Fast&Slow/PIXTA)
さまざまな課題、指摘、問題点が噴出している日本の教育。「なぜ」「どのように」「何を」を考えず、新しい用語が飛び交い、その第一人者が現れては消えていくという現状に教育現場は疲れ切っている。日本の教育に欠けていることを、日本と海外の教育にくわしい千代田国際中学校校長の日野田直彦氏が、本当に学校で身につけるべきことや、ミライを担う人たちに向けてのメッセージをまとめた『東大よりも世界に近い学校』から一部抜粋、再構成してお届けします。
いまの学校は限界だ
はじめまして。日野田直彦です。現在は千代田国際中学校の校長をしています。その前は、公募で大阪府立箕面高校の校長をしていました。公立学校では当時最年少の校長でした。偏差値50そこそこの「普通」の高校で、さまざまなチャレンジをした結果、生徒も先生も見違えるほど変わり、帰国生でなくても、海外経験がなくても、多くの生徒たちが海外に飛び立っていきました。
さて、どうして私がこの本を書いたのか。いま教育を受けているみなさん、そして大切なお子さんに「よい教育」を受けさせたいと願っているみなさんに伝えたいことがあるからです。
それは、ひと言でいえば、いまの学校は限界にきているということです。どうすればよいかわからず、迷走するばかりです。はっきりいって「オワコン」です。「終わったコンテンツ」ということです。とくに、私が中心的に取り組んでいる中等教育、つまり、中学と高校で6年もの時間をかけて行われる教育は極端にいえばムダになってしまっているということです。
まず、いまの学校がオワコンな理由を説明しましょう。オワコンとは一時は流行したけれど時代に取り残されてしまったもののことです。
いまの学校は、生徒のためにも、社会のためにも役に立っていません。弊害ですらあります。理由は簡単です。時代に合っていないからです。社会の変化にまったく追いつけていないのです。
では、何を意識すべきなのか。
2050。いま意識しなければならないのは「2050年」、いまの中学生・高校生がお父さん、お母さんの年齢になるころの社会です。そこを生き抜かなければならない。そのためには、親や社会の常識や思い込みに惑わされないことが大切です。つまり、いまの学校はだれがなんのためにという視点がないために、根拠のない常識やいまでは通用しなくなった過去の成功体験に縛られているのです。
「いえない」「いわない」「いわせない」
産業革命以降の教育を振り返ると、教育に求められていたのは、国や会社の維持・発展に役立つ人間を育成することでした。「よき納税者を育成する」という言葉があるほどです。忠犬ハチ公のような犬(労働者)を生産するシステムが、近代の学校の原点でした。
その原点はいまも、色濃く引き継がれています。学校は勉強を教わるだけの場所ではありません。社会のルールや社会での「正しい」振る舞いを身につけるための場所でもあります。学校に厳しい校則があるのも、1学級40人というシステムが維持されているのもそのためです。中学校や高校に髪の長さから靴下の色までうるさく制限する校則があるのは、わけのわからない規則で縛りつけられることに慣れさせて、規則を守り、上に逆らわない従順な人間をつくるためです。1学級が40人なのも、勝手な言動をしないおとなしい人間をつくるためです。40人が一斉に勝手なことをしだしたら、授業は成立しません。ほとんどの先生は生徒に対して高圧的、強権的になるしかありません。いまの学校は、先生をそのように仕立てるシステムになっているのです。
つまり、産業革命以降の学校は、人間を忠犬にするための調教システムとしてつくられたにすぎないのです。「いえない」「いわない」「いわせない」人間を生産するための組織です。いまもその本質は変わらないので、いつまでたっても、自立しない従順な人間を育てることしかできません。
でも、それではいけないのです。
近年、教育や勉強に関する本が数多く出版されています。教育への関心が高まっているからでしょう。しかし、教育評論家やジャーナリストが書いた本の主張の多くは、子どもの学力の低下を問題視し、「こうなったのは先生が悪い」「文科省が悪い」「家庭でのしつけが悪い」と、その責任を一方的に決めつけるものばかりです。あるいは、教育実践者や子育てに〝成功〞したと自負している親による著書の多くは、自分が実践したことや体験したことを普遍化して証拠や検証を示すことなく、「自分がやったことが一番だ」という主張をくり返すばかりです。
けれども、犯人探しや自慢話には意味がありません。大切なのは、自分が何をするか、です。高校生なら自分のために、保護者や先生なら子どものために何をすべきなのかを徹底的に考えることです。
オーナーシップとパーパスの欠如が問題
親が「子どものためにいい学校に入れさせたい」と思い、子どもたちも将来のために「あの学校、あの大学に入りたい」と思うのは当然のことです。しかし、その根底には、「あの学校に入れば大丈夫」「あの会社に入れば大丈夫」という思いがあるはずです。つまり、〝人任せ〞です。有名な大学に合格したり、有名大学に合格者を数多く出している中学や高校に入学したり、予備校や進学塾のカリスマ講師を信じて勉強していれば、明るい未来が開けると勘違いしている「思考停止」状態です。日本の教育が悪くなったのは、そういった「人任せ」の「お客様意識」がはびこっているからです。私が、生徒たちに口うるさく言っている言葉を使うと、オーナーシップとパーパスの欠如です。それらの欠如は先生や教育関係者にもいえることです。
最後に、ここまでの話を整理しておきましょう。ひと言でいえば、日本の社会が求める人材とそのための学校は、世界のそれとは大きなちがいがあるということです。
日本人や日本社会が優れているのは、人々の能力が均質化しているところです。日本では読み書きや計算ができない人はほとんどいません。また、人々のモラルが高いのも誇れることです。しかし、自由はあまりありません。いまの日本の学校では、模擬試験の成績のよい生徒は育てられますが、リサーチやクリティカルシンキングの力を身につけさせる教育はできません。生徒は議論もあまりできないし主体性もありません。そのような学校には多様性(ダイバーシティ)もありません。
なにより、いまの学校は生徒に失敗をさせてくれません。会社も同じではないでしょうか。若い人にとって失敗は非常に貴重な経験です。人は失敗から多くを学びます。生徒が将来社会に出たとき、円滑な人間関係を築けるようになるためにも、あるいは、組織の運営や意思決定に携わる立場になったときに力を発揮できるようになるためにも、失敗は、本来、若いうちに経験しておくべきことなのです。
そもそも学校で身につけるべきなのは知識だけではありません。知識、スキル、マインドセットの3点セットです。学校、教育というと「なんとか力」とよばれるような知識やスキルが中心と思われがちですが、そうではありません。その証拠に、海外の大学の試験では知識を問うペーパーテストは減る傾向にあります。
日本の学校はいまだに、自己主張や主体性がなく従順で均質化した、平均的な能力をもつ人材を育てようとしています。つまり、知識やスキル、偏差値の重視です。しかし、世界はちがいます。世界が求めるのは、主体性があり、自由でクリティカルシンキングができ、多様性があり、それを受け入れられるオープンマインドをもつ人材です。世界の学校は、そのような人材を育てようとしています。マインドセットを重視しているのです。そしてなにより、世界の学校では生徒や学生に、「自分は何者か」に気づかせようとします。
もう一つ、日本の学校に欠けているのは、生徒や先生の主体性とそれを育むための対話、対話を可能とする生徒と先生の人としての対等な関係、他者に大きな迷惑をかけないという前提の上で、生徒が「学校でなら、何に挑戦しても大丈夫」と思える心理的安全性です。
日本と世界のいいとこ取りが最適解
求められるのは、知識やスキルとともに、自主性、主体性といったマインドセットも重視し、生徒が安心してさまざまなことに挑戦できる学校です。つまり、日本と世界の「いいとこ取り」をするのが最適解なのです。

にもかかわらず、日本の学校は、日本の社会でしか生きていけない人材をつくろうとしています。いまだに多くの親たちは「東大に行ったら将来安泰」「あそこに就職したら大丈夫」といった時代錯誤の思考停止状態に陥ったままで、その価値観を子どもたちに押しつけようとしています。受験に何がどのくらい必要であるかも理解せず、子どもに受験勉強を強いる大人が大勢います。有名な大学に入れさえすればあとは大丈夫と思っていてはダメなのです。そんな〝常識〞は親からの呪い以外の何ものでもありません。
それが、私が「学校はオワコンだ」と声を張り上げている理由です。
(日野田 直彦:千代田国際中学校校長)
日野田 直彦