大橋秀行はなぜ「150年に一人の逸材」と呼ばれたのか?本人が振り返る現役時代の苦労と栄光【名チャンピオン秘話】

大橋秀行はなぜ「150年に一人の逸材」と呼ばれたのか?本人が振り返る現役時代の苦労と栄光【名チャンピオン秘話】

  • ココカラネクスト
  • 更新日:2022/08/06
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大橋会長が自身の現役時代について語ってくれた。(C)CoCoKARAnext

WBAスーパー&WBC&IBF統一世界バンタム級王者の座に鎮座し、日本人初となる『THE RING』誌のパウンド・フォー・パウンド1位にも輝いた井上尚弥。この”モンスター”の鮮烈な活躍もあり、いま日本のボクシング界は世界から注目を浴びている。ただ、過去にも偉大な日本人世界チャンピオンは、数多く存在した。今回はそうした歴代王者のなかから、”井上尚哉を育てた”大橋ボクシングジムの大橋秀行会長をピックアップ。1990年代にWBC&WBA世界ミニマム級チャンピオンに輝いた同会長に、当時を振り返ってもらった。

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私のプロデビューは1985年でした。ヨネクラジムの米倉健司会長に「150年に一人の逸材」というキャッチフレーズをもらいましてね。具志堅用高(元WBA世界ライトフライ級王者)さんが「100年に一人」と言われていたから、「お前は150年に一人だ」と、ノリでつけてくれたんです。ただ、自分ではそうは思っていませんでした。私はキャリアで5敗もしましたからね。「150年に一人の逸材」が、そんなに負けるわけがありません(笑)。

でも、毎日言われると「あれ、もしかしてそうなのかな」と勘違いするところは、少しありました。言葉の魔法じゃないけど、何度も何度も言われると自分もその気になってくるんです。会長は、毎朝毎朝ロードワークに1日も休まず来てくれましたし、そういった積み重ねの大切さも教えてもらいました。

自分で分析するのは難しいですが、当時の私は”異質なボクサー”だったかもしれません。軽量級なのに足を使わないし、手数も少ないし、カウンターを狙っている場面も多い。世界チャンピオンになるために、いろいろと考えて、あのスタイルに行き着きました。

私がチャンピオンになった1990年当時は、日本ボクシング界は冬の時代。日本人選手の世界挑戦が21人連続で失敗していて、私が22人目だったんです。だから、「日本ボクシング界最後の切り札」なんて期待されましてね。自分としては「こんなチャンスはない」と思っていましたし、実際に崔漸煥(チェ・ジョムファン)にKO勝ちして、世界挑戦の連続失敗記録を止めることができました。日本ボクシング界としては、1年3か月ぶりの世界王者誕生でしたから、試合後のインタビューで「自分が勝ったことよりも連続失敗記録にストップを掛けられたことが嬉しい」と言ったくらいです。

ただ、一番印象に残っている試合は、引退直前の最後にチャナ・ポーパオインに負けた試合ですね。減量がきつくて、ちょっと意識がないような状態でした。試合内容も、あまり覚えていません。私の性格かもしれませんが、勝った試合より、負けた試合の方が印象に残っているんです。後楽園ホールで金奉準(キム・ボンジュン)に負け、韓国と日本で張正九(チャン・ジョングン)に2回負け、さらにリカルド・ロペスにも負けた。今でもすっと言えるぐらいです。

減量は、正直きつかったですね。中学の頃から1日1食。世界一を目指すなら軽量級が一番有利だと思ったし、うちの家族はみんな太っているから自分も太る体質だとわかっていました。中学3年から、ボクシングを辞める28歳まで、ずっと1日1食。皆さんから「1日1食はスゴイ」とよく言われますが、慣れるとその方が楽になって、逆に食べるほうがつらかったくらいです。

ただ、私はあまり減量が苦しい素振りを見せていなかったので、みんな「減量は楽なんだろう?」と勘違いしていたようです。当時は当日計量だし、1日1食で絞っている状態からの減量だから、本当にきつかった。サウナスーツを着て練習していても10グラムも落ちないこともありました。

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ヨネクラジムの教えが、井上尚弥にも受け継がれていることだろう。(C)Getty Images

私が現役だった35年くらい前は、練習中に水を飲めなかった。うがいもしてはいけない世界だったから本当に大変でしたよ。水を飲みながらの方が汗が出るので体重が落ちるんですが、水分を取らないで練習するとオーバーヒート状態になるんです。汗もかけないで動いているから、熱が逃げていかない。試合直前にもなると38度5分ぐらいに体温が上がってしまってね。体温が高いと、「大橋、減量苦!」と新聞に書かれるし、それを見ると嫌になってしまうので、いつも脇を濡れタオルで冷やしてから体温を測って「36度です」と言っていました(笑)。

それに当時は計量が終わってから、血の滴るようなステーキなどを食べるのが主流だったんです。でも、気持ちが悪くて食べられない。胃が受け付けないんです。その頃から、アメリカあたりだとスパゲッティだったり、炭水化物を摂っていたので、それで私も「スパゲッティとかにしてください」と米倉会長に頼んだんですが、「そんなもので力が出るわけはねえだろ」と言われてね(笑)。それでも試合に勝って無理やりお願いしたら、会長も聞いてくれました。ヨネクラジムの伝統がそこで変わり、毎回おかゆとか雑炊になりました。30年以上も前ですから、最先端ですよね。私はサプリメントもアメリカから輸入して使っていたし、いろいろと自分で試行錯誤していましたね。

ヨネクラ会長に車の隣に乗せられて、交渉の席にも一緒に行っていました。選手としては珍しかったと思います。だから裏のことも全部知っていました。お金の動きだったり、マスコミの人や後援会の対応の仕方だったり。米倉会長は、私の将来を予見していたのかもしれません。いろいろなところに連れていってくれたので、全てをこの目で見られたし、大事な考え方に気づけました。米倉会長は、後援会の方たちに「応援させてやる」という態度ではなく、どんな人にも「ありがとうございます」と頭を下げていた。もし私が「応援させてやる」という姿勢が正解だと勘違いしていたら、今の大橋ジムはなかったと思います。

ヨネクラジムは難しいことをやっていたわけではなく、当たり前のことを当たり前に、シンプルに続けていました。結局、継続が大事。諦めないことが一番なんです。米倉会長からは「一生のうちに大きな波が3回くるから、それに乗り遅れるな」「ダメなやつは波が来てもチャンスを逃してしまう。一番ダメなやつは、波が来てるのに気付かない。人生は常に準備しておくことが大事」と常々言われていました。やっぱり、そういうことですよね。今でも私は、その教えを大切にしています。こうした話は八重樫(東)だったり、(井上)尚弥にもしますが、みんな理解していると思います。

大橋ジムは世界チャンピオンが3人も生まれているし、パウンド・フォー・パウンドの100年近い歴史のなかで、日本人として初めて1位が生まれた。これはやっぱり、ヨネクラジムの真似をしてきたからだと実感しています。それだけ米倉会長はすごかった。そのいいところを継承して改善してきたから、これは必然の結果なんだろうなと感じています。

[文/構成:ココカラネクスト編集部]

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