「みんな圭佑にボールを集めていた」豊田陽平が代表に定着できなかった理由【2020年度人気記事】

「みんな圭佑にボールを集めていた」豊田陽平が代表に定着できなかった理由【2020年度人気記事】

  • Sportiva
  • 更新日:2021/05/04

2020年度下半期(20年10月?21年3月)にて、スポルティーバで反響の大きかった人気記事を再公開します(1月27日配信)。

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北京五輪で日本唯一の得点を決め、日本代表では8試合に出場している豊田陽平(サガン鳥栖)

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代表チームは、世界を敵に回して勝利するため、戦い方を確立させようとする。プレースタイルとも言い換えられる。スタイルに沿った選手選考になるのは、必然だろう。

逆説的に言えば、漏れた選手は「タイプじゃない」と切り捨てられる。

スペイン人ストライカー、アリツ・アドゥリスはそのキャリアの中でコンスタントにゴールを記録していたが、代表とは縁遠かった。

同年代に活躍したスペイン代表には、ダビド・ビジャ、フェルナンド・トーレスという"不可侵"のゴールゲッターがいた。中盤にはボールプレーヤーが多く、「ティキタカ」と称された美しいパスサッカーを志向。センターフォワードを使わず、ゼロトップの採用もしばしばだった。

アドゥリスはマジョルカ、バレンシア、アスレティック・ビルバオなど所属したクラブで、絶対的な空中戦の強さを誇っていた。クロスボールを呼び込み、ゴールに放り込む。長いボールを蹴り込むチームで、ストライカーとして輝いていた。相手ディフェンスを挑発する駆け引きも含めて、実に泥臭いスタイルだ。

「代表ではプレースタイルが合わない」

アドゥリスはそう言われていたが、2015-16シーズン、35歳でリーガ・エスパニョーラ20得点を記録し、2010年以来となる2度目の招集を受けている。EURO2016に出場し、ゴールも記録した。ただ、チームは勝ち上がれなかった――。

サガン鳥栖で11シーズン目となるFW豊田陽平は、クロスボールをゴールに叩き込み続けてきた。J1通算98得点は、堂々たる数字だ。

2011年シーズン、J2で得点王になってチームを昇格させて以来、ゴールゲッターとして道を切り開いてきた。2012年から4シーズン連続で15得点以上と、三浦知良の偉大な記録に並んでいる。単独最多記録となる5シーズン連続は13得点で惜しくも逃したが、ストライカーとしての経歴は出色だ。

しかし、代表では2013年の東アジア選手権でデビューを飾ったものの、8試合しか出場はない。それも、ほとんどが終盤の交代出場。先発は初陣のオーストラリア戦のみだ。

2010年から日本代表を率いたアルベルト・ザッケローニ監督は、自分たちがボールを動かす能動的なスタイルを推し進めていた。それを目指すだけの選手がいたと言える。本田圭佑、香川真司、遠藤保仁は、世界に伍するボールプレーヤーだった。サイドバックの内田篤人、長友佑都も高い位置を取り、コンビネーションを使って崩し切る。当時、世界を席巻していたスペインのティキタカにも似た戦いを模索していた。

しかし、ザックジャパンは満を持した2014年ブラジルワールドカップで、一敗地にまみれた。「自分たちらしさ」と気取ったパスワークは通用しなかった。他の戦い方のオプションがなく、相手の交代策に屈し、なす術なく敗退した。

豊田は予備登録メンバーには入ったが、大会にはいなかった。

最後の代表戦となった2015年1月、アジアカップのUAE戦。豊田は途中出場したが、ハビエル・アギーレが率いたチームは1-1から延長PK戦の末に敗れている。

「結局のところ、自分は国内の選手で。海外でプレーする選手に自分の良さを伝えられていなかったんだと思います」

かつて豊田はそう言って、大会を淡々と話していた。

「鳥栖では、自分中心のチームづくりをしてもらい、得点を取れていました。代表では、自分をどう生かしてもらえるか、という着地点が見つけられなかったですね。どう生き残るか、になってしまい、良さがデメリットになっていました。自分としてはクロスをゴールして代表に選ばれていたから、例えばファーで決めるのが得意なのにニアで潰れる、というのは違う気がして」

豊田の長所は一瞬でマークを外し、クロスや裏へのパスを呼び込むところにあった。しかし動き出してもボールは出てこない。当時の代表は頑なにショートパスで攻め続けた。

「良し悪しではなく、みんなが圭佑(本田)にボールを集めるというチームでした」

大会後のインタビューで、豊田は冷静に振り返っていた。

「圭佑もボールを要求するし、たしかにあいつは本当にうまいんですよ。圭佑としては、"つないで攻めたい"という気持ちはあったんでしょう。(1-1で迎えたUAE戦終盤も)わざわざショートコーナーにするくらいでしたからね。"アジアレベルならそのやり方で勝たないといけないし、勝てるはず、負けるはずはない"という彼なりの自信があったんだと思います」

しかし、それはブラジルワールドカップの二の舞だった。

「(代表に定着できなかったのは)実力だったな、とは思いますよ」

豊田は静かに言う。

「ただ、ブラジルワールドカップの時も、僕を選んでくれたら......たとえピッチに立てなくても、対ドログバ(初戦コートジボワールのエース)の練習台だってやっていました。スタッフが要求した通りの動きを。それが日本のためになると思っていましたから」

彼のような選手を取り込むことができたら、と思うのは幻想か。

スペインは欧州、世界王者になったが、その実像はティキタカに酔ったものではない。闘将カルレス・プジョルが立ちはだかり、守護神のイケル・カシージャスがスーパーセーブを見せた。ロマ族で「詩人」とも言われた変わり者FWダニエル・グイサや高さを誇ったフェルナンド・ジョレンテのオプションもあった。アドゥリスはいなかったが、全員一丸で泥臭く戦って手にした栄光だったのだ。

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小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki

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