「大学駅」って、学校名が変わるとどうなる?目黒駅が品川区にあるのははぜ?駅名は時代の空気を反映する

「大学駅」って、学校名が変わるとどうなる?目黒駅が品川区にあるのははぜ?駅名は時代の空気を反映する

  • 婦人公論.jp
  • 更新日:2023/09/19
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今尾さん「『駅は都市の中心に作られるもの』という誤解がある」(写真:本社写真部)

初めて訪れる場所や旅行、災害時に地図は欠かせません。現代ではGoogleマップが主流ですが、「地図」と一口に言っても、さまざまな種類があります。小学生の頃に地図に魅了されて以降、半世紀をかけて古今東西の地図や時刻表、旅行ガイドブックなどを集めてきた地図研究家の今尾恵介さん。その今尾さんは「『駅は都市の中心に作られるもの』という誤解がある」と言っていて――。

【図】相模大野駅はかつて通信学校駅、相武台前駅は士官学校前駅だった

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「鉄道忌避伝説」は証拠もなく疑わしいものがほとんど

山手線の目黒駅は目黒区ではなくて品川区、品川駅は品川区ではなくて港区にある。

最近ではかなり知られるようになったが、これをもって地元が鉄道の建設に反対したという「伝説」が巷間に広まるのは困ったものだ。

目黒の方は「目黒駅追上事件」と呼ばれ、汽車の煙や振動が農作物に悪影響を及ぼすと住民が反対し、現在地へ追いやったという。

この手の「鉄道忌避伝説」は全国各地に見られるのだが、証拠もなく疑わしいものがほとんどだ。

反対運動が証明されているものは、たとえば線路の築堤が川の氾濫の際に水を滞留させて困るなど具体的な理由からで、当時の人もそれほど非科学的なことは主張していない。

「駅は都市の中心に作られるもの」という誤解

後付けでこのような忌避伝説が生まれる背景を考えてみると、「駅は都市の中心に作られるもの」という誤解があるようだ。

日本の主要幹線が敷設された明治期といえば、日常的に汽車を利用する人はあまりいない。

駅の機能からしても現在と違い、乗客の他に貨物も扱うから広い用地が必要で、かつ地盤が良好で構内が水平であることが求められる。

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『地図バカ-地図好きの地図好きによる地図好きのための本』(著:今尾恵介/中央公論新社)

そもそも当時は旅客を奪い合うべき自家用車など存在しない。

誰が好んで密集地の家屋を立ち退かせ、駅を市街地のまん中になど作るだろうか。

国鉄のライバルとなる私鉄がより利便性の高い場所に駅を作るケースだってあると言われそうだが、それはだいたい昭和に入ってからの「電車の時代」の話である。

明治22(1889)年に全通した当時の東海道本線でも、藤枝駅(静岡県)は青島(あおじま)村、豊橋駅(愛知県)は花田村、彦根駅(滋賀県)は青波(あおなみ)村、大阪駅でさえ曽根崎村にあり、いずれも同名の市や町、村にはなかった。

今ではいずれも駅と同名の市内に含まれているが、品川駅や目黒駅のケースはたまたま「隣村」との境界が今に至っているだけである。

なぜ駅名は変わるのか

山手線の駅で変わり種なのが恵比寿駅だ。

周知のようにビールの商品名そのもので、日本麦酒醸造会社の貨物専用駅が後に旅客も扱うようになった際、駅名をそのまま使ったのである。

駅名になればやがてそれが「通称地名」となり、正式な町名に成長していく。

今では既存の地名はすべて駆逐されて恵比寿、恵比寿西、恵比寿南という「商品由来の駅名にちなむ町名」が広いエリアを占めている。

私鉄会社が乗客誘致のために命名した駅も地名化した。

たとえば東京府北多摩郡小平村(現・小平市)大字野中新田与右衛門組(のなかしんでんよえもんぐみ)に設置された西武新宿線の駅は、「小金井のお花見にはこの駅が便利です」というメッセージを込めて花小金井駅と命名されたが、これも昭和37(1962)年には正式町名に採用されている。

他にも山手線関係では新宿区高田馬場、豊島区目白、北大塚、南大塚などがそれぞれ駅名に合わせたもので、京王線の桜上水駅に合わせた世田谷区桜上水、目黒区祐天寺と横浜市港北区大倉山(いずれも東急東横線)、世田谷区豪徳寺(小田急小田原線)など枚挙にいとまがない。

駅名変更の状況に注目するのも興味深い。わざわざ手間と費用をかけて変更するからにはそれなりの事情が存在する。たとえば観光振興。

古い事例では和歌山県を走る紀和鉄道(現・JR和歌山線)が名倉(なくら)駅を明治36(1903)年に「高野山の入口」をアピールすべく高野口駅に改めたことだ。

ついでながら所在地の名倉村も町制施行の際に駅名と同じ高野口町に変えてしまったほどだ。町当局の力の入れ方がうかがえる。

駅名は時代の空気を反映する

戦時体制下ならではの改称もあった。これは軍の施設を名乗る駅を「防諜」を理由に地元の地名に差し替えるもので、昭和13(1938)年頃から徐々に全国で実施されていった。

たとえば陸軍通信学校の最寄り駅であった小田急線の通信学校駅が、昭和15(1940)年に相模大野(当時は高座郡大野村、現・相模原市南区)と改められたし、その二つ先の士官学校前駅も相武台前になった。

「前」のつく駅は神社仏閣や遊園地、大学などの最寄り駅として集客に威力を発揮するが、弱点と言えばそれらの施設が変わる度に改称しなければならないことだ。

たとえば東京横浜電鉄(現・東急東横線)は碑文谷(ひもんや)駅近くに青山師範学校を誘致して青山師範駅と改めるのだが、後に学校名が第一師範学校に変わったのに伴い第一師範駅となり、さらに新制大学が発足して東京学芸大学に変わると学芸大学駅に3度目の改称を行った。

大学を駅名にすることで地域の付加価値アップを狙う私鉄や地元自治体の意向に加え、18歳人口の減少に直面する大学の危機感もあいまってか、今世紀になって「大学駅」は急速に増えている。

拙著『駅名学入門』(中公新書ラクレ)の執筆にあたって全国の「大学関連駅」を探してみたが、これほど急増しているとは思わなかった。

印象的なのは令和元(2019)年10月1日付で京阪電鉄が深草駅(京都市)を龍谷大前深草、阪神電鉄が鳴尾駅(西宮市)を鳴尾・武庫川女子大前、阪急電鉄が石橋駅(池田市)を石橋阪大前にそれぞれ改称したことだ。

駅名は時代の空気を反映する。

※本稿は、『地図バカ-地図好きの地図好きによる地図好きのための本』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

今尾恵介

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