対立理念示した新立憲。「自己責任から支え合いへ」が意味すること

対立理念示した新立憲。「自己責任から支え合いへ」が意味すること

  • ハーバービジネスオンライン
  • 更新日:2020/09/17
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時事通信フォト

2020年9月15日、立憲民主党と国民民主党および野党系無所属議員が結集した新党、新・立憲民主党が誕生した。党代表は10日の国会議員投票で、枝野幸男旧・立憲民主党代表に決まった。

原発ゼロの綱領に反発した連合系の産別議員らは玉木国民民主党代表を中心に新・国民民主党を結成するなど、完全な合流とはいかなかったが、ともあれ民進党崩壊以後に分裂した諸勢力はほぼひとつに結集し、2012年の政権交代以来、久々に衆議院で100人を越える野党勢力が誕生した。

◆新・立憲民主党の意義

新・立憲民主党が誕生した意義は何か。ひとつには、分裂していた小勢力がまとまることで、与党と小選挙区を戦いやすくなったということだ。単純小選挙区制においては、一つの選挙区で複数の政党が政策を競い合うというのは現実的ではない。

もう一つの意義は、ジャーナリストの尾中香尚里氏が指摘するように、立憲民主党が与党自民党の理念における「対立軸」となったことである。

「自己責任から支え合いへ」のスローガンからも分かるように、同党は新自由主義からの脱却をはっきりと明言している。従来の民主党系政党が持っていた「改革競争」路線に一定の終止符が打たれたかたちだ。それに伴い枝野新代表は、かつて公務員削減を唱えたことは間違っていたと民放の番組で述べている。

「自己責任から支え合いへ」は、7月の東京都知事選で、宇都宮健児候補も唱えていた。宇都宮健児氏を立憲民主党が支援できた事実は大きかった。反原発を明確に唱え、左派的な政策が目立つ宇都宮候補を、かつての民主党勢力が支援することは難しかった。7月の都知事選で支援が可能になったのは、民進党分裂の際、東京都選出の右派議員は立憲民主党に結集していなかったこともあるだろう。

新・立憲民主党は、単にこれまで分裂していたメンバーが合流したというわけではなく、希望の党騒動がもたらした「逆」淘汰により、リベラルな方向に軸足を置きやすいパワーバランスになっている。新執行部こそ幹事長の福山哲郎、政調会長の泉健太、国対委員長の安住淳と保守系議員が並ぶが、この党の軸足は、当面動きはしないだろう。

◆自助・共助・公助

9月14日に誕生した菅自民党新総裁は、スローガンとして自助・共助・公助を掲げる。まず自助で努力して、次に家族・地域などの共助があり、最後に公助というものだ。

自助・共助・公助は、もともとは災害時において守るべき順番であるとされている。地震が起きて津波が来襲する可能性がある場合、まずは自分自身が助かるよう避難するしかない。場合によっては周囲の人の助力もあって安全を確保し、最終的に行政の救助が入る。これは確かにもっともなプロセスである。

しかし、これを一般的な政治プロセスとして採用した場合、自己責任を理由に無限に自助努力を押しつける(お前が苦しい立場にあるのは自助努力が足りないからだ)新自由主義思想と相性がよくなる。立憲民主党の枝野幸男代表は、政治は公助であり、自助を強調するのは無責任であると批判した。

ところで、実は2009年に誕生した民主党政権においても、自助・共助・公助のスローガンは用いられていた。そのことから、今になってこのスローガンを批判した枝野に対して矛盾を指摘する声もある。

だが、これについては2つの点から反駁することができる。一つ目は、先に述べたように、枝野幸男はかつての民主党の新自由主義への傾斜を批判し、それとの決別を宣言しているということである。二つ目は、民主党政権における自助・共助・公助は民主党が掲げていた「新しい公共」論において理解されるべきものだからだ。

◆民主党が掲げていた「新しい公共」とは

「新しい公共」の内実については、その議論が成熟しないうちに民主党政権がレームダック化してしまったため、宙吊りのまま置かれている。だが当時の議論を思い起こしてみると、市民社会論との関係で語られることが多かったと思う。

その最大公約数的なものを多少図式的に説明すれば、従来「公」(行政)と「私」(民間)は厳然たる分離のもとに思考されてきたが、それらを包摂する新たな公共概念を創造し、そのもとで社会政策を立案しようということだ。

あらゆる社会政策を、それが公的に必要なことであれ、全てを行政が担うのはあまりにも効率が悪い。また、市民が何でも行政任せにするのではなく、市民個人や市民団体を通して、主体的なアクターとして公共の課題に取り組む事例や、取り組みたいという要望も出てきている。

さらに、企業も「私」企業だからといってやりたい放題やって良いわけでもなく、その企業の規模や影響力に応じた社会的責任がある。そこで、行政的な意味に限定されていた「公」を拡張させた公共概念を採用することによって、それぞれの役割分担を柔軟に考えることができる。

こうした考え方の新自由主義との違いは、新自由主義は単に「公」のものを「私」に流すだけで、公共性という思考がないということだ。新自由主義にとって、たとえば待機児童の問題は市場が解決する問題であり、そのための規制緩和を行う。安いが劣悪なサービスを利用して児童が事故にあったとしても自己責任である。

一方で、新しい公共においては、保育サービスが誰でも安全に利用できるようにするための責任は、なお国家にある。従って、新しい公共概念の支持者は、行政の役割は縮小したとしても、公共的領域はむしろ広がっていると主張する。

◆第三の道、あるいはAll for All

このような拡張された公共概念は、アンソニー・ギデンズの思想に基づく「第三の道」路線と結びつく。「第三の道」は、1990年代、従来の福祉国家路線からの転換を迫られたヨーロッパの中道左派政党によってよく採用された。そうした政党は政権を獲得した後、新自由主義にあまりにも妥協しすぎたため支持層の離反を招き、最終的には党勢の衰退を導いた。

2010年に退場した民主党菅内閣は、「第三の道」としての「最小不幸社会」をスローガンとしたが、直後の参議院選挙の敗北によりレームダック化した。一方、民主党は一貫して「第三の道」を掲げてきていたわけではなく、むしろその本質は保守系議員との妥協による「民主中道」であった。

2017年、民進党の前原誠司代表は、All for Allをスローガンとしていた。前原誠司に関しては、その後の希望の党騒動や野党共闘に消極的だったことも含め評判が悪く、そのブレーンたる経済学者井出英策の議論への賛否もあり、All for Allのスローガンもまた評判はよくなかった。

しかし、社会福祉をすべての人々の支え合いとみなすAll for Allは、むしろ立憲民主党の「自己責任から支え合いへ」との連続性のうちにあるものとして考えられるべきだろう。それは中身次第では十分格差解消のスローガンとなりえたはずなのだが、公共性の議論が浸透していなかったために、実質以上に嫌われ、また民進党自身も結局自ら崩壊してしまった。

◆「支え合い」は共助ではない

「自己責任から支え合いへ」のスローガンにおける「支え合い」は、自助・共助・公助の「共助」の延長線にあるものとして捉えるべきではない。新自由主義的な「支え合い」は、無責任な市場を補完するため、伝統的な家族や地域社会を必要とし、「共助」をそこに押し付ける。

かつての民主党政権も、「新しい公共」を提唱していたにも関わらず、その理解については新自由主義的なものだった。「小さな政府」という呪いに取りつかれ、大胆な積極財政に打ってさえいれば可能だったはずの目玉政策を自ら捨てることになった。

しかし、本来の市民的公共性を前提とした「支え合い」は、「公助」を定礎としたうえでの配分の問題である。新・立憲民主党は、新自由主義からの脱却をはっきりと打ち出している。その意味でも、自民党的な共助論とは区別してよい。

自民党的な公助は、「公=お上」からの施しである。従って、ギリギリまで自助を続けなければその「お慈悲」にはあずかれないのである。だが「公」とはけして「お上」ではない。むしろそれは我々自身に関係する。公正な税制のもとで行われた再分配政策の恩恵に預かることは施しではなく、極限まで自助を行うという謙虚さを持つ必要もない。市民社会における美徳は、公共性への関心であって勤勉さではない。その意味で、ベーシック・サービスという公助を拡大する社会を「支え合う社会」と表現することはけして間違ってはいない。

◆再分配政策をめぐる誤解

新・立憲民主党になる前から、立憲民主党はベーシック・サービスの拡充を掲げてきた。しかし、ネットを中心に立憲民主党の再分配政策は不十分だという声も大きかった。その理由のひとつは、消費税をめぐる意見の違いによる。

枝野幸男は民放の番組に出演した際、コロナ禍における経済政策のひとつとして、時限的な消費税率の引き下げに言及した。しかし、恒久的な消費税率の引き下げについては一貫して消極的である。

それに対して、日本社会には消費税悪玉論が根強くある。それはアベノミクス支持者からリベラル左派にまで浸透している。消費税を増税すると個人消費について大きな影響がある。また、高所得者も低所得者も同じ税率であるのに加え低所得者は消費性向が高いので、累進課税である所得税や法人税と比べて逆進性が大きい税制とされるのも再分配政策と相性が悪いとされる。日本では消費税の導入以降、法人税が下げられ続けてきた。消費税の増税は実質的には法人税減税の穴埋めであり、格差拡大に寄与することになった。

しかし本来的には消費税は租税体系と給付をめぐるバランスにおいて考えられるべき問題である。日本より消費税率の高い欧州諸国では、所得再分配後の格差は日本より縮小している。極論だが、消費意欲への影響を度外視すれば、消費税を5%あげ、その分を日本の人口で均等に配分するとすれば、低所得者は払った以上の金額を手にすることができるはずである。

したがって、消費税の減税なくして再分配政策なしとするような一部の極端な論調には与するべきではない。もちろんコロナ禍における経済政策としての消費税減税については検討する余地があり、行政サービスを向上させるための増税を新たに行う場合、まずは消費税よりも所得税などの累進税率の引き上げを検討するべきだろう。

だが、それでも消費税は租税体系の一部にすぎず、それ自体が新自由主義政策なのではない。むしろ消費税減税やベーシック・インカム導入などのネットでは評価が高い政策ほど、新自由主義に接続する危険性が大きい。そうした「単純な」議論ほど、公共性とその責任の所在をめぐる複雑な議論を避けることができるからだ。

◆市民の監視によって政党を育てる

ここで明言しておくが、筆者は立憲民主党の利害関係者ではなく、その内部で行われている議論について知りうる立場でもない。保守系議員や新自由主義を支持する議員もいる立憲民主党が、スローガン通りに新自由主義と決別することができるのかはいまだ未知数である。また、新自由主義とうまく決別できたとしても、階級闘争という観点を欠いた「第三の道」路線がうまくいくかどうかは検討の余地がある。

さらに問題なのは、歴史認識である。日本軍「慰安婦」問題や徴用工の問題については立憲民主党の立場は安倍政権とほとんど変わることはない。歴史修正主義に加担している議員さえいる。人々が「支え合う社会」に必要なのは人権意識であり、歴史認識はそのリトマス試験紙である。この点については、合流新党のみならず日本のリベラルの課題だろう。

一方で、新・立憲民主党について二大保守政党の改革競争という55年体制以降の傾向にいったん終止符が打たれたことについては評価するべきだろう。「自己責任から支え合いへ」のスローガンは党の憲法である。このスローガンを立憲民主党が貫徹できるかは、市民の監視にかかっている。盲目的に支持するのではなく、かといって短絡的に見放して青い鳥を負うのでもなく、適切な距離を保ちながら理念の実現を求めることが、政党を育てることにつながる。かつての民主党系政党も、左派リベラル的に活用できるような理念を掲げていたのだが、市民がそれらを育てようとはせず、必要以上の警戒と攻撃をしてしまうことによって、それが成熟する前に崩壊するということを繰り返した。

政党は民主主義における戦略的な手段以上のものではない。全面的に信用できる政党は存在しない。政党が有用なものとなるか、無用なものとなるかは、市民の適切な現状認識とその活用にかかっている。

<文/藤崎剛人>

【藤崎剛人】

ふじさきまさと●非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去note:hokusyuTwitter ID:@hokusyu82

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