約8ヵ月ロシアに占領されていたウクライナの村には、至る所に不発弾が。父はウクライナ人、母はロシア人、戦争は生い立ちや人生も引き裂いて

約8ヵ月ロシアに占領されていたウクライナの村には、至る所に不発弾が。父はウクライナ人、母はロシア人、戦争は生い立ちや人生も引き裂いて

  • 婦人公論.jp
  • 更新日:2023/11/21
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バフムトの前線で戦死したオレグ隊長の葬儀で棺を運ぶ兵士たち(ミコライウ/撮影◎筆者)

戦火の止まぬウクライナ。ロシア軍の攻撃が相次ぐなか、今も戦闘地域の町や村にとどまる高齢者がいる。危険や不安と隣り合わせの過酷な日々。人々の苦悩の声を現地で聞いた

【写真】亡くなった同級生の遺影を見つめる子どもたち

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<前編よりつづく

4キロ先から次々と砲弾が

ウクライナ南部の都市、ヘルソン。約8ヵ月にわたりロシア軍はこの一帯を占領した。昨夏、私はウクライナ軍が前線拠点としていたヘルソン西方のノバ・ゾリャ村を取材した。

当時はこの村のすぐ近くまでロシア軍が部隊を展開し、緊張が続いていた。4キロ先から次々と砲弾が撃ち込まれてくる。ひっきりなしの砲撃にこわばりながら村に入った私を迎えてくれたのが、ウクライナ軍のオレグ隊長(51歳)だった。

「こんな危険な前線までよく来てくれたね」と、分厚い手でぎゅっと力強く握手をしてくれた。がっちりした体格に厳めしい口ひげを蓄えているが、笑顔は優しく、人なつっこさを感じさせる。

隊長が率いる小隊の任務は、ロシア軍の動きを偵察することだ。

「ロシア軍は1日400発の砲弾を撃ち込んでくるが、こちらは40発撃ち返せるかどうか。武器も弾薬も足りない。とてつもなく過酷な戦いだ」

隊長は険しい顔つきで言う。そして、ウクライナが置かれた状況をこう例えた。

「今、銃を持ったやつらが私たちの家に押し入って、家族を殺し始めたのに、『これで何とかして』と近所の人たちが差し出したのは野球のバットだ。各国が外交ゲームを繰り返している間にも、市民と兵士が犠牲になっている」

砲撃のあまりの激しさに、住民はすべて別の町に避難。村は無人となっていた。兵士とともに誰もいなくなった家に入ると、台所には食べ残したパンや洗いかけの食器がそのままになっていた。急いで避難した様子が窺える。住人はどんな思いで、この村をあとにしたのか。無事なのだろうか。ずっと気がかりだった。

その後、ロシア軍はヘルソン西部から撤退し、村を含む地域はウクライナ軍が奪還。今年6月、私は再びノバ・ゾリャ村に向かった。

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へルソンの前線拠点の村を守っていたオレグ隊長(左)。右は筆者(22年8月、ノバ・ゾリャ村/撮影◎坂本卓)

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砲弾の直撃で壁が崩れ落ちた家。戦闘が収束しても家屋が修復できず、帰還できない住民も多い(以上、ノバ・ゾリャ村/撮影◎筆者)

変わり果てた村の姿に……

でこぼこの農道が、車を大きく揺さぶる。家々の屋根はことごとく抜け落ち、壁は崩れたままだった。車を降りてしばらく歩くと、見覚えのある家があった。昨夏、私が兵士と一緒に入った、あの家だ。ドアをノックすると、白髪の女性が出てきた。

私がようやく出会うことができたのは、ナターシャさん(72歳)という女性だった。避難していた町から2週間前に戻ったばかりとのことだった。ここを脱出したのは、昨年4月下旬。砲撃が日増しに激しくなり、村を離れることを決めた。雨が降るなか、隣人の車に乗せてもらい、町に向かった。慌ただしい脱出。持ち出せる荷物は何もなかった。

この時、代わって村に入ってきたのが、オレグ隊長の部隊だった。22年11月にロシア軍がこの一帯から撤退するまで、彼らが村を守り抜いた。

戻ってきた村の変わり果てた姿は、ナターシャさんの目にどう映ったのか。

「人生を懸けて、努力してこの家を建てましたから、胸がえぐられるようです。なぜこんなことが……」

水道とガスはまだ復旧しておらず、給水車が水を供給する。住民の帰還が進まないのには、ほかにも理由があった。村の至る所に不発弾が残っているのだ。家や庭で不発弾が見つかると、爆発物処理班が撤去してくれるが、広大な畑までは手が回らない。農家の生活再建には、まだほど遠い状況だった。

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避難先から2週間前に戻ったというナターシャさん。庭にはロシア軍が撃ち込んだロケット弾の破片が刺さったまま(ノバ・ゾリャ村/撮影◎筆者)

足の不自由なナターシャさんは、松葉杖をつきながら庭先を案内してくれた。ロシア軍が撃ち込んだロケット弾の一部が、地面に4つ、刺さったままだ。これは爆発しない部分だと処理班に説明されたが、触らずそのままにしているという。

隣国のロシアとウクライナが戦争になってしまったことをどう感じているか、私は尋ねてみた。すると彼女は、沈黙のあと深いため息をついた。

「とても難しい質問です。私の父はウクライナ人、母はロシア人です。ロシアには親戚もいます。親戚どうしが争い、殺しあうなんて、複雑な思いです」

そう言って彼女はうつむいた。この戦争が、村や家を壊しただけでなく、自身の生い立ちや人生までも引き裂いてしまったかのようだった。

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地図製作◎アジアプレス

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隊長の葬儀には、ドイツに避難していた妻も駆け付け、体を震わせ涙を浮かべていた(ミコライウ/撮影◎筆者)

ナターシャさんと出会えた一方、私にとって悲しみの「再会」となった人がいる。この村を守ったオレグ隊長が戦死した知らせが届いたのだ。

オレグ隊長はノバ・ゾリャ村での戦闘ののち、東部の激戦地バフムトに移り、負傷兵や戦死者を搬送する任務についていた。5月11日、前線の塹壕にいたところにロシア軍の砲弾が命中。部下の兵士6人とともに命を落とした。

遺体はバフムトから戻り、ミコライウで葬儀が行われた。隊長を慕っていた兵士たちが、棺を担いだ。私は小さな赤い花を棺に添えた。こんな形で「再会」するなんて……。

昨年、前線の村でともに戦っていた中尉は、無念だと語った。

「彼はサムライだった。いつも仲間のことを第一に考えていた。真の戦士だ」

隊長の妻は避難先のドイツから駆け付け、棺を見送った。涙を流しながら体を震わせていた姿が忘れられない。これが、ウクライナで続いている戦争の現実だ。他方で、この戦争に動員されて死んでいったロシア兵の側にも家族がいて、つらい思いをしているだろう。

「戦争は人間の悲しみそのもの」

私はこれまで、ミサイル攻撃で市民が亡くなった現場を各地で取材してきた。そのどれもが、悲しみと憤りに満ちていた。今年4月、中部の町・ウマニでは、集合住宅に炸裂したミサイルで23人が犠牲となった。そのうち6人が子どもだった。

破壊された住宅の脇に設けられた慰霊台には、同級生がぬいぐるみや花を手向けに訪れていた。亡くなった友達の遺影を前に、5年生の少女が言った。

「まさかこんなことが起きるなんて。第二次大戦の時代に生きているようです。どの国にも戦争をしてほしくない。戦争は人間の悲しみそのものだから」

ミサイルが断ち切った、たくさんの命とひとりひとりの未来。いったいどれほどの犠牲が出なければならないのか。戦争で苦しむのは、高齢者や子ども、力なき市民だ。

プーチン大統領とロシア政府の責任は当然問われるべきだ。だが、この非道を止められない国際社会も重い責任を負っている。私たちは、子どもたちに、これがあたりまえの大人の世界だなどと思わせてはならない。

玉本英子

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