少年たちが原っぱで野球を楽しんでいた時代......。寺田ヒロオ『背番号0』の聖地をたどる

少年たちが原っぱで野球を楽しんでいた時代......。寺田ヒロオ『背番号0』の聖地をたどる

  • ハーバービジネスオンライン
  • 更新日:2020/10/16

◆野球少年たちの日常を描いた「明朗野球マンガ」

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日本の野球マンガがいつから始まったのかというと、戦後まもなく創刊された『漫画少年』に連載された井上一雄の『バット君』からだとされています。

1947年に『漫画少年』創刊とともに連載が開始され、井上が1949年に亡くなったため終了を余儀なくされます。その後、福井英一が引く続くことになります。呉智英は、著作である『現代マンガの全体像』(双葉文庫・1990年)のなかで、野球技術や試合の勝敗よりも少年たちの日常における友情や誠意をユーモラスに描いた作品として、この作品を「明朗野球マンガ」と呼んでいます。

この作品に影響を受けてマンガ家を志したのが、寺田ヒロオでした。彼は藤子不二雄Ⓐの『まんが道』や映画化された『トキワ荘の青春』などでは、面倒見のよい先輩として描かれています。高校時代から野球に熱中し、都市対抗野球にも出場した経験を持っていました。代表的な作品は『スポーツマン金太郎』、『背番号0』などの野球マンガですが、ここでは後者をたどっていきましょう。

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『背番号0』〔野球少年版前編〕【上】(マンガショップ)

『背番号0』は1956(昭和31)年に『野球少年』で連載が開始され、以降『少年サンデー』『小学館学年誌』『ボーイズライフ』と掲載誌を替えながら、9年簡にわたる長期連載作品となりました。

主人公はごく普通の野球少年で、彼が所属する椎ノ木町のZチームのメンバーとの交流が日常目線で描かれている。野球の試合や学校、家庭生活、町内会でのできごとを通じて、友情やチームワークの大切さをテーマにした子供向けの作品です。

◆多くのマンガ家たちの思い出がつまった「トキワ荘通り」

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トキワ荘ゆかりの地散策マップ(豊島区)

昭和30年代初頭、日本は戦後の復興期を経て、高度経済成長期へと突入していきます。現在とは違った家族のあり方、町内会のコミュニティの存在と古き良き時代を示唆してくれます。椎の木町は、トキワ荘のあった椎名町がモデルになっているという話が定説です。

2020年に豊島区によってもうすでに取り壊された「トキワ荘」が区立南長崎花咲公園にミュージアムとして復元されました。「トキワ荘」は手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子不二雄、赤塚不二夫などのマンガ家が住んだアパートとして知られています。手塚を除いては皆、新進のマンガ家でした。

さてもともとの「トキワ荘」があった場所は、西武池袋線の椎名町駅から南西に徒歩5分ほどの場所です。現在は「トキワ荘跡地モニュメント」が設置されています。そこから少し歩くと、トキワ荘通りに出ます。ここには「豊島区トキワ荘通りお休み処」や当時、彼らが通った「第一マーケット」跡、「鶴の湯」跡などが近隣にあります。跡地に関しては説明プレートがあるので、とてもわかりやすくなっています。

また1950年頃に開店した「中華料理 松葉」が現在も営業しています。「トキワ荘」のマンガ家たちが当時、1杯40円のラーメンの出前をよく取っていた、「トキワ荘」関係のマンガなどにも登場する店です。マンガ家の色紙も店内に飾られてもいます。

この「トキワ荘通り」が寺田ヒロオの作品にも出てくる商店街のモデルのような気もしますが、ただ店も随分さま変わりをしているはずですし、マンガの中のような賑わいは残念ながら昔日のものになってしまったのかもしれません。

◆『背番号0』の野球場のモデルになった公園の入口にはモニュメントが

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『背番号0』モニュメント

そして先に紹介した「豊島区トキワ荘ミュージアム」では、2階に各マンガ家の部屋が再現されていて、まさに昭和30年代の雰囲気が醸し出されています。また1階には企画展、常設展のスペースもあります。

実際の「トキワ荘」は1982年に解体されましたが、このアパートに住んでいたマンガ家たちが、現在にいたる商業マンガの本流を作ったことは紛れもない事実です。だからこそ伝説のアパートとして、多くのマンガファンの人々に知られているのでしょう。

そういう意味で、「トキワ荘」の文化的、歴史的価値はとても高く、東京都豊島区が2020年にまちづくりの一環として、「マンガの聖地としま」の発信拠点となるマンガ、アニメをテーマとする、トキワ荘を復元したミュージアムが開設されることになったようです。

ミュージアムを左手に見て真っすぐ歩いていくと、南長崎スポーツ公園があります。ここは以前、東京海上火災保険のグラウンドだったところです。多目的広場がその時代の名残なのかもしれません。

当時の空撮写真を見るとグラウンドは四角形をしていて、野球グラウンドのようにも見えます。『背番号0』の野球場のモデルはここだったらしく、南長崎スポーツ公園の入り口には「背番号ゼロ」のモニュメントが設置されています。

◆今よりも野球が少年たちの身近にあった時代のノスタルジー

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昭和30年代というと今から約60年前になります。全国至るところのグラウンドや空き地で、日が暮れるまで白いボールを追いかけていく少年たちの姿を目にした時代です。筆者も同時代の生まれですから、微かな記憶として頭の片隅に残っています。

川本三郎が著作の中で何度も高度成長期の住宅地の開発による「原っぱ」の消滅について言及していますが、いわゆる草野球は「原っぱ」を舞台にして行われていた時代です。少年たちにとって今よりももっと野球が身近にあった時代ともいえるでしょう。

さて、一貫して正統派の児童マンガだけを描き続ける寺田ヒロオの作品は、時流から次第に取り残されていきます。当時、台頭してきた劇画批判を繰り広げるようになり、次第に執筆のペースも落ちていきました。1964年の『暗闇五段』の終了を機に週刊誌の連載から撤退、活動の場は小学館の学習月刊雑誌に限定されるようになります。そして1973年には絶筆の運びとなるのです。

ただ他の「トキワ荘」の面々もそうですが、寺田ヒロオの描いた作品は当時の少年たちから幅広く支持されました。また野球マンガの黎明期を作ったマンガ家のひとりといっても過言ではないでしょう。

現在も復刻版で『背番号0』は入手できます。昭和30年代へのノスタルジーを踏まえながら読んでみることをお勧めします。そして寺田ヒロオを始めとした「トキワ荘」というマンガの聖地探訪も、また楽しいひとときを与えてくれると思います。

もうほとんど当時の面影の残っていない界隈になっていますが、その現在の風景の向こうに透けて見える昔日の椎名町界隈が、幻のように目の前に広がっていくに違いありません。

【野球マンガの聖地を巡る旅 第1回】

<文・写真/増淵敏之>

【増淵敏之】

法政大学大学院政策創造研究科教授。専門は文化地理学、経済地理学。著書に『ローカルコンテンツと地域再生』(水曜社)、『湘南の誕生』(リットーミュージック)、『伝説の「サロン」はいかにして生まれたのか』(イースト・プレス)など多数。

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