『鬼滅の刃』で最もサイコパスな鬼・魘夢 人の“弱み”に付け込む鬼が超えられなかった“人の強さ”

『鬼滅の刃』で最もサイコパスな鬼・魘夢 人の“弱み”に付け込む鬼が超えられなかった“人の強さ”

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  • 更新日:2021/09/25
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「下弦の壱」の鬼・魘夢(画像は「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」公式パンフレットより)

【※ネタバレ注意】以下の内容には、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』および既刊のコミックスのネタバレが含まれます。

25日に地上波で初放送された『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』では、敵側のメインキャラクターである魘夢のサイコパスな言動や“異能”の力が不気味さを際立たせた。魘夢は人の“弱み”につけこむ卑劣な鬼だが、魘夢との戦闘によって浮かび上がったのは、炭次郎たち人間の“心の強さ”だった。『無限列車編』の地上波初放送にともない、魘夢のサイコパスな特性を考察した2021年5月5日のAERA dot.の記事を再配信する。

【写真】「上弦の鬼」のなかで最も悲しい過去を持つ鬼はこちら*  *  *

■惨殺された「下弦の鬼」たち

『鬼滅の刃』では、鬼の始祖・鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)が、彼の配下でとくに実力があると認めた者を「上弦・下弦の鬼」と呼んでいる。

しかし、主人公・竈門炭治郎(かまど・たんじろう)は、その仲間・我妻善逸(あがつま・ぜんいつ)と嘴平伊之助(はしびら・いのすけ)とともに、那田蜘蛛山で「下弦の鬼」累(るい)たちを撃破した。鬼殺隊「柱」冨岡義勇(とみおか・ぎゆう)・胡蝶しのぶ(こちょう・しのぶ)の援護は要したが、経験の浅い炭治郎たちが「下弦の鬼」を退けたのは、めざましい躍進だった。

この「累・敗北」の報を受けた鬼舞辻無惨の怒りは想像以上にすさまじく、「弱さ」を理由に、下弦の弐(2)・参(3)・肆(4)・陸(6)を惨殺する。アニメ視聴者から「パワハラ会議」とすら呼ばれた、この残酷なシーンは大きなインパクトを残した。だがその中で「下弦の壱」魘夢(えんむ)だけは、唯一、生き延びることに成功する。

■魘夢が無惨に殺害されなかった理由

<私は夢見心地で御座います 貴方様直々に 手を下して戴けること 他の鬼たちの断末魔を聞けて楽しかった 幸せでした 人の不幸や苦しみを見るのが大好きなので 夢に見る程好きなので>(魘夢/6巻・第52話「冷酷無情」)

ほかの「下弦」たちの言葉をことごとく遮り、手を下した無惨が、魘夢の言葉だけは終わりまで耳を貸した。無惨が喜んだのは、魘夢が示す「苦痛への陶酔性」だった。人が不幸になり、悲痛な表情をして苦しむほどに喜びを感じるという、ゆがんだ性格をしている。

一見、小ぎれいで中性的なルックスからは想像もできないほど、魘夢はその内面におぞましい狂気をかかえる。そこが無惨に「生かしておいても面白い」存在だと認められたのだろう。

■魘夢が体現する「悪の魅力」

どんな鬼たちもひれ伏させる無惨のカリスマ性は、以下の3つの要素に集約される。ひとつめは、死すべき運命に翻弄される人間に、「不老不死」に限りなく近い肉体を与えること。ふたつめは、無惨の絶対的なパワーが、彼に対する「恐怖心」と「畏れ(おそれ)」をかき立てること。そして最後は、人間の心の奥底にある、他者を傷つけたいという「加虐性(サディズム)」と、傷つけれらたい「被虐性(マゾヒズム)」の両方を刺激し、鬼として実行させることだ。

暴力、苦痛、犠牲、服従、血、そして「美」が、退廃的な「悪」の世界観を構築する。このようなサイコパスな気質は、「上弦の鬼」である童磨や玉壺にも通じるものがあり、いずれも「美」に関するキーワードとともにエピソードが挿入される。

『鬼滅の刃・公式ファンブック2』には、魘夢が初めて無惨と遭遇した際に、生きたまま「はらわた」を喰われたにもかかわらず、魘夢が無惨を賛美した話が紹介されており、いかにも悪魔的だ。

■魘夢の特殊能力

鬼が使う異能の力は「血鬼術」(けっきじゅつ)と呼ばれる。魘夢の血鬼術は、自在に相手に「夢」を見せ、混乱している間に「精神の核」を破壊するというものだ。

<どんなに強い鬼狩りだって関係ない 人間の原動力は 心だ精神だ “精神の核”を破壊すればいいんだよ そうすれば生きる屍だ 殺すのも簡単>(魘夢/7巻・第55話「無限夢列車」)

この魘夢の分析によると、人間の強さとは「精神の強さ」にほかならない。つまり、この無限列車編での戦闘の勝敗は、「精神力」によって決されるということだ。魘夢は、「夢」の力を使って、鬼殺隊隊士たちの心に揺さぶりをかけようとする。

魘夢の「夢」には、あらがいがたい魅力がある。鬼にされた妹・禰豆子(ねずこ)を人間に戻すという、確固とした意思を持っている炭治郎ですら、魘夢が見せた「幸せな夢」に心が揺らぎ、「ここに居たいなぁ ずっと」と涙を流す。炭治郎は、なんとか現実世界に帰ることを決意するが、その決断には、胸をえぐるような悲しみと相当の覚悟を必要とした。

「夢」は心の産物。願いも恐れもすべて、いったん無意識下に沈殿し、「夢」という形になって、われわれの目の前に広がる。現実に存在する「信じたくない事実」から目を背けていると、「夢」はとつぜん膨張し、私たちを飲み込んでしまう。

映画の中で魘夢は、列車本体と融合し、体を大きく膨らませ、無数のうごめく触手を出現させる。「巨大化する魘夢の肉」の映像によって、私たち人間の願いが「グロテスクに肥大化」することが、巧みに表現されている。

■「夢」という虚構を欲しない煉獄杏寿郎

炭治郎以外にも、この「肥大化した夢」にとらわれなかった登場人物がいる。炎柱・煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)だ。魘夢の血鬼術によって彼が見た「夢」は、現実とかけ離れた内容ではなかった。

最初に見たのは、煉獄なら簡単に実現できるような内容だった。それは人を助けること、若き後輩剣士たちを導くことだった。次に見たのは、自分が実際に経験した過去。亡き母からの教え、父からの苦言、父の苦悩を拭い去ることができない自分の無力さへの絶望、幼い弟への愛。これらは決して「心地よい感情」だけを生んでくれるわけではない。

<頑張ろう!頑張って生きて行こう!寂しくとも!>(煉獄杏寿郎/7巻・第55話「無限夢列車」)

煉獄杏寿郎は寂しい。現実の苦しみも悩みもつらさもすべてを胸に抱えたまま、煉獄杏寿郎は戦い続ける。「夢」という虚構には決して負けない。

魘夢は、自分を危険にさらさないために、一般の人間の「弱さ」を利用する卑劣な戦法をとった。それに対して煉獄は、すべての「か弱き人々」を助けるために、最前線に身を起き、傷つくこともいとわない。夢と現実、弱者への対応が、対照的に表現されている。

■魘夢という「鬼」が象徴するもの

この世のことわりを全て受け止めている人間は、どっぷりと「夢」に逃避することはない。炭治郎と煉獄は、魘夢にとっては、極めて相性の悪い敵だった。

「本当は幸せな夢を見せた後で悪夢を見せてやるのが好きなんだ」という魘夢は、人間の願望をのぞき見し、幸せな夢・不幸な夢を作り出す。生きている人間の数だけ、「夢」があり、現実から逃げた者、現実から目を背けた者は、鬼・魘夢の犠牲となる。

「この世」は、苦しみに満ちている。魘夢が利用したのは、「夢」から目覚めたくないと思う、人間の「弱い」心だった。しかし、炭治郎たちは、強い精神力で「夢」への誘惑を完全に断ち切る。そして、彼らは、戦いに「命をかける」理由を、悲しい過去を、美しい覚悟を、具象化する「夢」を通じて、われわれに見せてくれたのだった。

自ら夢に溺れた魘夢は、最後には、現実でやり残したことを、ひとつひとつ後悔し続けた。自分の体を醜く巨大化させることを選択した時点で、魘夢は意識世界と無意識世界を自在にはねまわる「軽やかさ」を失ってしまっていた。魘夢の「虚構の夢」の果てには、いったい何が残ったのだろうか。魘夢との戦いは、はかない生を懸命に生きてこそ、「夢」も真の美しさを取り戻すことを、われわれに教えてくれる。

◎植朗子(うえ・あきこ)
1977年生まれ。現在、神戸大学国際文化学研究推進センター研究員。専門は伝承文学、神話学、比較民俗学。著書に『「ドイツ伝説集」のコスモロジー ―配列・エレメント・モティーフ―』、共著に『「神話」を近現代に問う』、『はじまりが見える世界の神話』がある。

植朗子

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