
ペロシ米下院議長の台湾訪問を契機に、東アジアの緊張が高まっている。中国は台湾を封鎖するかのように台湾周辺を対象とした大規模な軍事演習を実施しているほか、新型コロナウイルス検出を理由に台湾からの海産物の通関差し止めを通達するなど経済報復にも手を広げている。台湾海峡の緊張は日本など周辺国を巻き込む国際問題となっているが、その一方で見すごせないファクターが中国国内〝世論〟だ。
ペロシ下院議長の訪台に対する中国国内の反発は強まっている(AP/アフロ)
中国共産党が頻発する「人民の感情」カード
ペロシ議長の台湾訪問は直前まで日程は正式発表されていなかった。バイデン政権も賛意を示していなかったこともあり、中国政府は訪問阻止をターゲットに強烈な圧力をかけた。外交ルートでの申し入れ、政府当局及び官製メディアの発表に加えて動員されたのが世論であった。
7月末以後、中国のネット世論はペロシ問題で沸き返っていた。「台湾を訪問すれば、人民解放軍は座視することはない」といった記事のコメント欄には「やってしまえ」「思い上がった台湾に制裁を加えるべき」といった過激な書き込みが並ぶ。蔡英文総統が勝利した2016年の台湾総統選でも中国ネット世論は過熱したが、その時と比べても今回のほうが圧倒的に過熱しているように感じられる。
ある知人からは「ペロシは本当に台湾に訪問するのか?」「戦争になったら日本は台湾に味方するのか」とチャットが飛んできた。随分長いこと没交渉だった相手で、前回の連絡といえば、「この日本製サプリメントを買おうかと思ってるんだけど、ニセモノじゃないかと気になって」という問い合わせであった。ちなみに日本では見たことがないエセ日本ブランドであった。
中国共産党が「人民の感情」をカードに使うことは珍しくはない。怒った人民が自発的にボイコット運動や抗議デモを起こすもので、12年の日本政府による尖閣諸島国有化の際には、人民の自発的な抗議運動、打ち壊しが起きたことは、多くの日本人にとって忘れられない記憶ではないか。
「中国人民の感情を傷つけた(傷害中國人民的感情)」という決まり文句があり、なんとウィキペディアにも項目が作られている。
香港大学中国メディアプロジェクトのDavid Bandurski氏によると、1959年から2015年にかけて、中国共産党の機関紙「人民日報」には143回にわたり、この文言が使われている。「人民の感情」カードを一番乱発するトピックは台湾で、28回を数えるという。
盛り上がった世論は止まらない
またまた「人民の感情」ですか、新鮮味がないですね……と当初は感じたのだが、予想以上のボルテージの上げ方には驚かされた。
秋に中国共産党党大会を控えており、習近平総書記にとってはなんとしてでも失点は避けたいタイミングであること、ペロシ議長の台湾訪問が公表されておらず圧力を高めれば中止に追い込めると中国側が判断したことなどが背景にあるが、中国人民のテンションをここまで上げてしまって大丈夫なのか。「ペロシ議長が台湾に到着した瞬間に戦争が始まる」と素直に信じていた中国人民も少なくないはずだ。
8月2日夜、ペロシ議長が台湾を訪問する直前にはいったいこれから何が起きるのだろうと、ネットに貼りついている中国人ユーザーが続出。大手ソーシャルメディアのウェイボーがアクセス数に耐えきれずダウンしたことも報じられた。
報道されているとおり、中国はかつてない大規模な軍事演習という報復措置を行った。日本や米国ではこうした動きに不安を感じる声が上がっているが、一方の中国人民はというと肩透かしを感じている人が多いようだ。
中国官製メディアは、軍事演習によって台湾の経済活動が阻害されている、台湾東部への弾道ミサイル着弾はミサイル防衛網をかいくぐって精密攻撃を加える能力があることを証明し、台湾への威嚇効果は大きく、報復がいかに効果的であるかを必死に説明している。しかし、テンションが上がりすぎた人民にその説明が届いているかははなはだ疑問だ。
8月3日の中国外交部定例記者会見では、ロイター通信の記者から「中国がペロシ議長台湾訪問阻止のために、より多くのアクションを取らなかったことを一部の中国ネットユーザーは失望している。今後、彼らネットユーザーがより理性的に米中関係の発展を見るよう、誘導するのか?」という、なんともいやらしい質問が浴びせられた。
華春瑩報道局長は「中国人民は理性的な愛国者である。自国が、自分たちの政府が、国家主権と領土の完全性を守る力があると信頼している」と反論してみせたが、痛いところを突かれたのではないか。
「愛国者」熱のはけ口は?
習近平体制成立から10年、中国共産党は強力なネット世論誘導能力を身につけてきた。胡錦濤体制下では政権の無能や政治の腐敗への批判がネット世論の中心的なトピックであったが、今ではそうした声が広がることはほとんどなくなった。
新型コロナウイルスへの対応でも、現行のゼロコロナ対策ではオミクロン株への対応は難しいことは明らかだが、中国国内では海外に比べれば中国政府はよくやっていると支持するムードがいまだに大勢を占めているようだ。
ならば、燃え上がらせたネット世論も簡単に鎮火できるのだろうか? テンションを上げるのも、理性的愛国者に戻すのも自由自在なのだろうか?
そこまでの統制はできていないのが現状だろう。むしろ、盛り上がりすぎた世論に押されて当局が譲歩せざるを得ないポピュリズム的な事例は少なくない。
昨年8月には遼寧省大連市にテーマタウン「盛唐・小京都」がオープンした。古代中国の都である長安や日本の京都に似せた街並みの商業施設が売り文句。地元政府肝いりの大型プロジェクトだったが、「満州国の一部だった大連市で日本風の街並みとは言語道断」といった批判を受け、オープン後まもなく休止に追いやられてしまった。
反政府分子の摘発はお手のものでも、〝正しい愛国者〟による「もっと愛国を」という中国版ポリティカル・コレクトネスには政府もなかなかノーを言えないというわけだ。
さすがに脳天気なネット世論に押されて戦争勃発とまでは考えづらいが、排外ムードの高まりが外資招致など経済問題に影響することは十分考えられる。そもそも、近年の米中関係の緊張やウクライナの戦争もあって、中国のリスクを再評価しようという機運が高まっているタイミングである。
ここに台湾侵攻に向けてテンション爆上げの中国ネット世論は、中国事業の未来を憂いている企業担当者、外資招致のためにがんばっている地方政府担当者からすると、気が重くなる話であろう。
ペロシ議長台湾訪問という燃料を得て、ますます燃え上がる中国版ポリティカル・コレクトネス。このファクターが中国の政治、経済にもたらす影響は注視する必要がある。
高口康太