人間国宝・中村歌六「歌舞伎役者としてのお稽古ごとの一環で、劇団四季の養成所に2年。歌やバレエのレッスンも。伝統文化門閥制の意味」

人間国宝・中村歌六「歌舞伎役者としてのお稽古ごとの一環で、劇団四季の養成所に2年。歌やバレエのレッスンも。伝統文化門閥制の意味」

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  • 更新日:2023/11/21
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「吉右衛門兄さん亡き後は、微力ながら、「播磨屋」を僕と弟でしっかり守っていかなきゃいけないな、と」(撮影:岡本隆史)

演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第22回は2023年、重要無形文化財「歌舞伎脇役」の保持者として各個認定された(人間国宝)、歌舞伎役者の中村歌六さん。還暦を迎えた時、屋号を「播磨屋」に戻し、自分と弟でしっかり守っていくことを決意したそうで――(撮影:岡本隆史)

【写真】祖父の三世中村時蔵と幼少期の歌六さん

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<前編よりつづく

「播磨屋」を守っていかねば

歌舞伎役者にはそれぞれ屋号があるが、歌六さんには「播磨屋」から一時「萬屋」となり、平成22年9月、また「播磨屋」に戻るという経緯があった。

――2つ目の転機はその播磨屋に戻ったことかなっていう気がします。2年前に亡くなった吉右衛門兄さんとはそこから密度が断然濃くなりましたから。

三代目歌六という僕の曽祖父の本名は波野ですが、その奥さんの小川かめは芝居茶屋を経営していた萬屋吉右衛門の一人娘。結婚すると小川の家が途絶えてしまうことから、長男の初代吉右衛門には波野姓、次男の三代目時蔵には小川姓を名乗らせたんですね。その小川家一門が昭和46年に屋号を播磨屋から萬屋に変えたことで、僕も萬屋に。

その後、平成22年に僕が還暦を迎えた時に、生まれながらの屋号の播磨屋に戻そうかなという気になって、弟の又五郎と一緒に戻りました。吉右衛門兄さん亡き後は、微力ながら、「播磨屋」を僕と弟でしっかり守っていかなきゃいけないな、と。「萬屋」のほうは時蔵さん、錦之助くん、獅童くんたちがちゃんと守ってくれています。

播磨屋復帰以後、吉右衛門・歌六ががっぷり四つに組んだ名舞台が続く。まず『伊賀越道中双六』「沼津」では呉服屋十兵衛と人足(にんそく)の平作。同「岡崎」では唐木政右衛門と山田幸兵衛。これなどは二人が同格の主役と言える。

――まぁそうですね。「沼津」は前に巡業で吉右衛門兄さんとやってますが、播磨屋に復した時に、心新たに9月の秀山祭で演じました。秀山は初代吉右衛門さんの俳名で、そのすぐれた芸を顕彰する興行なんです。

ですから、人間国宝に認定されて迎えた今年9月の秀山祭の「金閣寺」の大膳役も新たな出発の気持ちで心してつとめましたので、第3の転機と思うでしょうけど、まだ僕は発展途上中。この先にどう変わるか、可能性を残しておきたいので、第2.5くらいにしておいていただきたい。(笑)

しかしまぁ、吉右衛門兄さんとはこの十年ばかりの間、よくご一緒しました。『松浦の太鼓』ならあちらが松浦の殿様で、僕が俳諧師の宝井其角(きかく)。『石切梶原』なら、あちらが梶原で僕は六郎太夫。『ひらかな盛衰記』「逆櫓(さかろ)」ならあちらは樋口で僕は舅の権四郎。僕のほうが年下なのに、いつも兄さんが若いほうの役。

一番心に残っている舞台は、『鬼平犯科帳』の「大川の隠居」ですね。新橋演舞場で、下座(黒御簾音楽)が入って歌舞伎仕立てですよ。僕が年寄りの盗人で、最後に鬼平と二人で酒飲みながらしみじみと語り合う。印象深い芝居でしたね。

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筆者の関容子さん(左)と

大変な世界に身を置いている

ところで、近頃の長男・米吉さんの活躍はめざましく、今年の1月、池袋の芸術劇場でタイトルロールを演じた『オンディーヌ』(ジロドゥ作)の妖精的な美しさには目を瞠った。

――まぁ本人に言わせると、こんな顔で、肩も小さいし、これで立役やったらおかしいでしょ、って(笑)。それで吉右衛門のお兄さんに相談に行かせたら、「楽(らく)までに女で歩けるようになって来い」って。

すぐに藤間のご宗家(勘祖師)に歩き方からお稽古してもらって、いよいよ楽の日に歩く試験。「まだまだだけど、まぁ勉強しなさいよ」って一応許可を得たんですよ。

『オンディーヌ』のことだけど、僕も高校を卒業して、大学へ行ったつもりで劇団四季の養成所に2年ほど通ったことがあるんです。浅利慶太さんも「どうせお前は歌舞伎に帰るんだから、ここで拾えるものだけ拾ってけ」って。だからこれ要するに歌舞伎役者としてのお稽古ごとの一環ですね。義太夫、日本舞踊、鳴物の稽古と並んで、歌やバレエのレッスンを受けました。

四季では『さよならTYO!』というミュージカルで、ちょっとした役ですけど日生劇場の舞台に立って、歌ったり踊ったりしましたよ(笑)。倅の『オンディーヌ』を観に行って、その頃をなつかしく思い出しましたね。

ここでつくづく思うのは、歌舞伎の家に生まれた子が、遊びたいのを我慢してさまざまな稽古事に通い、長じて後輩を厳しく指導し、その恩を感じたその後輩がのちに先輩の子の指導に当たる。これが伝統文化の真髄と言えるだろう。

――門閥制がどうのとかよく言われるけど、やっぱり生まれた時から楽屋の空気を吸って育った者と、高校を卒業してから役者を志す者とでは、ハンデがあって然るべきだと思うんですね。別に役者のDNAがなくっても、たとえば玉三郎さんも子役の時から僕たちとずっと一緒でしたからね。

錦之介の叔父は若い時に歌舞伎を離れて映画の大スターになった。歌舞伎の役々のことも熟知してました。しかし、「もう歌舞伎には戻れない。俺の身体から歌舞伎の匂いが消えてるから」って言ってました。つくづく大変な世界に身を置いてる、と思いますね。

伝統芸能の世界ではこの研鑽の積み重ねが「重要無形文化財」なのだろう。「保持者」に認定されて本当によかったですね。

中村歌六,関容子

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