
反ユダヤ主義と批判され撤去された作品「民衆の正義」(Thomas Lohne/Getty Images News)
ドイツ中部カッセルで6月に開幕した世界的な美術展「ドクメンタ」で、反ユダヤ的だと批判される出品作を撤去する騒動が起きた。主催者は当初、作品に黒い幕をかけることで「表現の自由」についての問題提起とすることを模索したが、結局は撤去に追い込まれたという。
著書『犠牲者意識ナショナリズム』で、犠牲者民族だという記憶を振りかざす韓国、イスラエル、日本、ドイツ、ポーランドの攻撃的なナショナリズムを批判した韓国・西江大の林志弦(イム・ジヒョン)教授は、「ホロコーストに関するドイツの記憶コンプレックスが背景にある」と指摘する。ドイツに滞在している林教授に話を聞いた。
世界的な美術展で起きた作品撤去
澤田克己(以下、澤田):5年に一度開かれるドクメンタは、現代美術の先端を行く作品を集めた世界的な展覧会ですね。インドネシアのアーティスト集団が制作した高さ18メートルという大きな垂れ幕に描かれた「民衆の正義」という作品が問題視されました。

林志弦(以下、林):イスラエルの情報機関モサドのヘルメットをかぶったブタが他国情報機関のブタと並んでいたり、もみ上げをクルクルと伸ばした正統派のユダヤ人がナチ親衛隊マークの帽子をかぶったりという姿が描かれていた。ユダヤ人に対するステレオタイプに基づく描写だという批判は免れない。
澤田:この集団はこれまで、他国での戦争や暴力と現代のインドネシアを関連付ける作品を制作してきたそうですね。問題とされた作品も、インドネシアを1990年代後半まで支配したスハルト政権の暴力を考察するというのが主題とされていました。
林:この絵がユダヤ人への憎悪を引き起こすとか、好戦的な反ユダヤ主義の意図を込めたものだというドイツでの批判は行きすぎの感がある。その背景には、ホロコーストに関するドイツの記憶コンプレックスがある。20世紀の欧州における最悪の犯罪(ホロコースト)の加害者であることを記憶しなければならないというドイツ人の強迫観念を、ただとがめるのは難しい。そうした強迫観念を日本人に見出せればいいのに、と考えもする。だが、そこまでだ。
イスラエルはすでに、パレスチナやヨルダン、シリアなど隣人の土地を征服する植民地主義的な国家となって久しい。イスラエルという国家に対する批判を反ユダヤ主義と同一視するドイツの記憶文化は、ドイツ人が自分たちを良心的だと見せるためのジェスチャーとなっている。それは結果的に、イスラエルの植民地主義を擁護するという深刻な問題を抱えている。「犠牲者意識ナショナリズム」の弊害が端的にうかがえるものだ。
なぜ表現の自由の批判が出ないのか
澤田:作品撤去には、「表現の自由」という観点からの批判が出ても不思議ではありません。でも、ドイツでは問題にならなかったようですね。
林:表現と思想の自由をどこまで認めるかという社会的なコンセンサスは国ごとに違う。その点を理解しておくことが必要だ。ドイツをはじめとする大部分の大陸欧州の国はホロコースト否定論を法律で処罰対象にしているが、イギリスやアメリカは学問的自由の領域に任せている。
ホロコースト否定論者として有名なイギリスのデイヴィッド・アーヴィングが2005年にオーストリアで逮捕された時の反応は、その典型だろう。アメリカ歴史学会はこのとき、ホロコースト否定論については学問的討論の場に任せるべきだとして釈放を求める声明を発表した。アーヴィングを否定論者だと批判し、逆に名誉毀損で訴えられて苦労した経験を持つアメリカのホロコースト研究者デボラ・リップシュタットも、その声明に署名している。
アメリカとイギリスはナチ支配を経験していないという歴史的な違いもあるだろうが、それよりも学問と思想、表現の自由により大きな価値を与える英米法の伝統が背景にあるのだろう。
ルール・トリエンナーレの騒動
澤田:ドイツの展覧会では最近、こうした騒ぎが多いようですね。
林:今回の本『犠牲者意識ナショナリズム』でも取り上げたが、2020年の総合芸術祭「ルール・トリエンナーレ」を挙げられる。
アフリカの代表的な脱植民主義の理論家アキレ・ムベンベに開幕スピーチを依頼したが、ドイツ国内で反ユダヤ的な人物だという非難が出た。ドイツ連邦政府の反ユダヤ主義対策担当官とドイツ自民党所属の地元政治家が組織委員会に政治的な圧力をかけたことで、招待は取り消された。
ムベンベが、イスラエルという国家と南アフリカのアパルトヘイトを同一視することによって、ホロコーストを絶対的なものではないと論じる「相対化」を図ったという非難だった。植民地主義的な暴力をホロコーストと比較することなど許さないという欧州中心的な記憶文化の問題がよく出ていた。
実際には新型コロナウイルスの世界的な感染拡大によってトリエンナーレ自体がキャンセルとなったので、ムベンベの件はそれ以上の騒ぎにはならなかった。しかし、この騒動を契機にホロコーストについてのドイツの記憶が機械的に適用されるタブーになっているのではないかという疑念が生まれた。ホロコーストの記憶が、ドイツの植民地主義への批判的記憶から目をそらさせる「目隠し記憶」になっているという自省の声は段々と大きくなっている。
澤田:ドイツ社会での激しいムベンベ批判については、著書でも「アパルトヘイトや奴隷制、植民地主義ジェノサイドという非欧州の記憶によるホロコーストの地位への挑戦を許さないという意思表示だ」と指摘していますね。ドイツについては、ホロコーストと植民地主義ジェノサイドで態度を使い分けてきたという批判もされています。
林:イスラエルに対して謝罪と賠償を繰り返してきたドイツは、旧植民地での虐殺にはまったく違う態度を見せてきた。20世紀初頭に植民地支配していたナミビアでのナマとヘレロという2つの民族に対するジェノサイドに、公式な謝罪ではなく「遺憾」を表明したのは昨年のことだ。このときに支払うと発表した11億ユーロも、「賠償」ではなく開発支援金としてだった。
ナミビアでの死者は20万人で、ホロコーストの600万人との差は大きい。しかし、「強制収容所」や「ドイツ民族の生活空間」「絶滅戦争」などホロコーストを支えた植民地主義的ジェノサイドの概念は、ほぼすべてがナミビアでの虐殺に端を発している。
芸術作品や思想を拒む集団的感性は危うい
澤田:今回のドイツでの騒ぎは、2019年の「あいちトリエンナーレ」で起きた企画展「表現の不自由展・その後」を思い起こさせます。昭和天皇の肖像を燃やすシーンのある映像作品や慰安婦を象徴する少女像を展示して抗議が殺到し、企画展は一時中止に追い込まれました。日本とドイツで起きたことは何が違い、何が同じなのでしょうか。
林:ドイツでの2つの騒動で反発の政治的主体となったのは、保守派政党であるドイツ自民党だ。日本で起きた政治的検閲とも言える騒動の主体が右翼民族主義グループであることと、一定の共通性がうかがえる。
何が正しいかとは別の問題として、自分たちが慣れ親しんできた支配的な記憶体制にそぐわない芸術作品や思想を拒む集団的感性は危うい。異なる考えに対するこうした不寛容は、「反ドイツ主義」の書物を焼いたナチの焚書とそれほど変わらない。複数の歴史、複数の記憶が衝突するのは避けられないことであり、力で解決できるようなものではない。
少女像の撤去をめぐる論争によって、ヘイトスピーチや人身売買、女性の人権への蹂躙といった行為への問題意識がかすんでしまうことは問題だ。ホロコーストの記憶が植民地主義的暴力の記憶から目をそらさせる「目隠し記憶」として働くように、少女像を巡る論争がヘイトスピーチなどの問題から目をそらさせるなら、何かが間違っているという思いを禁じえない。
人々は自分に都合よく過去を記憶する
澤田:韓国では最近、日本大使館前で毎週水曜日昼に開かれてきた慰安婦支援団体の集会に対抗し、こうした団体を批判する保守派団体の集会が同時刻に開かれるようになりました。ベルリンに建つ少女像を撤去するよう現地で集会を開いた韓国の団体もあるそうです。こうした動きが出てきた背景には何があるのでしょうか。
林:記憶政治という観点から見るなら、過去は、単なる過去にとどまらず、未来になってしまうから問題なのだ。
元慰安婦を支援する「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連、旧挺対協)」と、少女像の撤去を主張する「慰安婦詐欺清算連帯」のどちらにとっても、重要なのは元慰安婦の痛みや彼女たちに加えられた暴力ではない。自分たちの解釈する「過去」こそ重要なのであり、自分たちが信じる過去が絶対の真実だと主張して韓国と東アジアの未来を構想する。
慰安婦の政治的象徴性が問題になるのは、まさにこうした文脈でのことだ。彼らは、韓国の民族主義におけるヘゲモニー(覇権)を激しく争う、互いに異なる路線の民族主義者と言えるのではないか。
元慰安婦の人権問題を民族主義的に独占する正義連の問題は広く知られるようになった。一方で、慰安婦詐欺清算連帯が、日本の歴史修正主義者やウルトラナショナリストと連帯する姿も興味深い。東アジアで展開されている民族主義の敵対的共生という観点からは、韓国と日本のこうした連帯はとても憂慮されるものだ。
澤田:私たちは一連の騒動から、どのような教訓をくむべきなのでしょうか。
林:第2次大戦後に地球規模で繰り広げられた「記憶の戦争」を検討してみれば、1つの点が明らかになる。人々は、過去から教訓を得ようとなどしないということだ。過去から教訓を得るよりも、自分に都合よく過去を記憶したがるのだ。そうした流れに逆らうきっかけを作っていくことが、歴史家であり、記憶活動家(メモリー・アクティヴィスト)である私の役割だと考えている。
(澤田 克己:毎日新聞論説委員)
澤田 克己