奥寺康彦が語るドイツでの日本人評価の現状「活躍できると見られていない」

奥寺康彦が語るドイツでの日本人評価の現状「活躍できると見られていない」

  • Sportiva
  • 更新日:2020/11/20

ブンデスリーガ初の日本人選手
奥寺康彦インタビュー 後編

◆ドイツ移籍の経緯を語った前編はこちら>>

◆【写真】異次元の美しさ! 海外サッカートップ選手の華麗なるパートナー17人

43年前。日本人で初めて、ヨーロッパのトップクラブでプレーした奥寺康彦氏。1977年から、当時世界最高峰と言われたドイツ・ブンデスリーガで9シーズンプレーし、そのクレバーな活躍ぶりは、現地で「東洋のコンピューター」と賞賛された。そんな奥寺氏に、当時のブンデスリーガの様子や、また、現在ヨーロッパでプレーする日本人選手たちの活躍をどう思っているのかを聞いた。

◆ ◆ ◆

No image

1977年からブンデスリーガで9シーズンプレーした奥寺康彦氏

<1シーズン目で2冠を経験>

――ドイツで日本人として、アジア人としてプレーする難しさを感じることはありましたか?

「それは別に感じなかったですね。相手がどうこうは関係ない。スタメンの時もあれば、途中出場の時もありましたけど、ヘネス・バイスバイラー監督は常に試合で使ってくれました。そうやって我慢して使ってくれたおかげで、1年目でも後半戦は活躍することができた。対戦相手にはアジア人を馬鹿にしたやつもいましたけど、僕はとくに気にならなかったですよ」

――1年目にリーグとポカール(カップ戦)の2冠を経験されましたね。

「リーグ優勝を決めたのはアウェイ試合で、相手はザンクトパウリという最下位のチームでした。そこで僕は2ゴール決めたんですよ。2点目は今でも映像がありますけど、ダイビングヘッドで決めました。やっぱりあのゴールは印象深いですね」

――優勝はかなり熾烈な争いでしたね。

「ずっとボルシアMGと勝ち点が一緒で、得失点差で優勝を争っていました。これもなにかの因縁なのか、ボルシアMGの最終戦の相手がドルトムントで、その時の監督がのちにお世話になるオットー・レーハーゲルでした。でも得失点差は10点開いていて、ケルンが優位だったんですね。

ところが、ボルシアMGが12-0という信じられないスコアで勝ったんですよ。ただ、僕らも5-0で勝ったので、得失点3差で優勝できました。あそこで僕が2点取れたのは大きかったと思いますね」

――優勝した時のケルンの街はどんな雰囲気でした?

「それはもうお祭り状態でしたよ。市庁舎からオープンカーにみんなで乗ってパレードしました。メイン通りを通ってクラブハウスまで行くんですけど、沿道にはもうすごい人だかりで。あんなにサポーターが喜んでくれる姿を見るのが初めてだったので、本当にびっくりしましたね。

日本も野球ではそういう光景があったかもしれないけど、サッカーでこんな光景あり得なかった。僕らはこの人たちの代表として戦っているんだなと実感できた瞬間でしたね」

――シャーレも掲げました?

「もちろん掲げましたよ。市庁舎のバルコニーに選手たちが上がって、下の広場には赤い旗 (ケルンのクラブカラー)を振っているサポーターがぎっしりと集まっているんですよ。そのサポーターの前で掲げさせてもらいました」

<ウイングからサイドバックへコンバート>

――そして3シーズン目が終わる間際に、バイスバイラー監督がニューヨーク・コスモス(アメリカ)に引き抜かれました。次のカールハインツ・ヘダゴット監督が就任してから出場機会がなくなってしまいましたね。

「当時外国人枠は2つしかなくて、今のEU圏というのもなかったので、構想外になりました。僕はそれまでレギュラーでそれなりに結果も出していたんですけど、ヘダゴット監督は別の選手を使いましたね」

――ただ、そのヘダゴット監督もシーズン途中に解任されて、次がオランダ代表の監督としても有名なリヌス・ミケルスが就任しました。

「オランダが1974年のワールドカップで準優勝した時の監督ですね。これが厳しい人でした。監督が変わって僕にもチャンスが来るかなと思ったんだけど、余計に僕のことは使わなかったですね。そこで僕もプロなので、監督に自分は必要なのか聞きに行きましたよ。そこであんまりいい返事をもらえなかったので、クラブに移籍を申し出ました。それで当時2部のヘルタ・ベルリンが呼んでくれたんです」

――奥寺さんはそれまで、ずっとウイングで活躍されていましたけど、サイドバックにコンバートされたのは?

「それがヘルタ・ベルリン時代です。ある日、右サイドバックの選手が病気で出られなくなったと。それで、試合当日ですよ。監督に右サイドバックをやってくれと言われて、さすがにやったことがないからできませんと言ったんだけど、監督は『チームを見たらやれそうなのがお前しかいない』って言うんですよ」

――それで仕方なくやったわけですね。

「そう。でも仕方なくやったら、これがめちゃくちゃ面白かった。もう前にスペースがあって、そこへガンガン攻めて行けたので、ドリブルで上がっていってセンタリングをあげたり、中へ切り込んでシュートしたり」

――果敢に攻撃参加するモダンなサイドバックだったんですね。

「新たな自分を発見しましたね。その右サイドバックでのプレーを見て、ブレーメンで監督をしていたレーハーゲルが僕を呼んだんですよ。最初に『お前はどこのポジションがやりたい?』と聞かれたので、僕は『MFがやりたいです』と言ったんですけどね。それで移籍して『お前をここで使いたい』と言われたのが右サイドバックでした」

――最初から右サイドバックとして評価されていたわけですね。

「うれしかったのが『なんでお前はゾーンディフェンスができるんだ?』と聞かれたんです。ドイツは当時マンツーマンが主流でしたから。『なんでお前はマンツーマンで相手についていかないんだ。そんな守備どこで教わったんだ?』と聞くわけですよ。僕は『昔から感覚でやってましたよ』と。

それでレーハーゲルは『じつはそういうことをチームでやりたいんだ。だから右サイドバックをやってほしい』と言われて、ブレーメンでも右サイドバックをやるようになったんです。その後は、FWからDFまでいろんなポジションをやらされて、重宝がられましたね」

――レーハーゲル監督も名将ですが、どんな人物でしたか?

「彼は弱小チームを強くする才能がありましたね。当時のブレーメンもまさにそうで、エレベーターチームと言われて1部に上がってはすぐ2部に落ちるようなチームでした。それをレーハーゲルが2部から1部に引き上げたんですね」

※オットー・レーハーゲル...80年代後半から90年代に、ブレーメンやカイザースラウテルンをブンデスリーガ制覇に導いた名将。04年にはギリシャ代表を率いてユーロ2004で初優勝し、世界中を驚かせた。

――弱小チームを強くするとは、どんなところでとくに能力を発揮していたんでしょう?

「レーハーゲルも、必要な選手を見る眼が非常に優れていました。ブレーメンは当時お金がないクラブでしたけど、僕は外国人で移籍金も安かったんですよ。ほかにも年齢が高くて干されてしまうような選手とかを連れてきて、つぎはぎだらけのチームでした。でも、そういうチームをまとめるのが本当にうまかった」

No image

ブレーメン時代の奥寺氏。様々なポジションを務めて、チームから重宝がられた

――実際に2部から上がってすぐに5位となって、それからも上位を争うようなチームでしたね。

「5位が2回、2位が3回で、結局(在籍時に)リーグ優勝はできなかったんです(その後2度優勝)。なかでも最後のシーズンがいちばん悔しかったですね。ホームの最終戦がバイエルンと直接対決で、終了間際のこのPKを決めれば優勝という展開だったんです。でも残念ながらチームメイトのミヒャエル・クツォップがポストに当ててしまって。それで最後のアウェイで負けて、バイエルンに勝ち点で並ばれて、結局、得失点差で優勝を逃してしまいました。あれは悔しかった」

――ドイツでは9シーズンにわたってプレーされましたが、いちばん印象に残っているのはどんなシーンでしょう?

「やっぱりケルンで優勝した時ですよね。最初の年でいきなりあんなシーズンを経験できたのは、言ってみればすごく幸運でしたよ」

<目標をしっかり持って、海外にチャレンジしてほしい>

――今のブンデスリーガにおける日本人選手の状況は、どう感じていらっしゃいますか?

「少し前は香川真司や内田篤人とか、いっぱいいましたよね。日本人の評価は高かったし、重宝されてもいました。そこからしばらく経って、その数は減りましたよね。今はドイツに行って、すぐにレギュラーになれる日本人選手がなかなか出てきていない。活躍できる選手はいると思いますけど、それだけ今の日本人はドイツからあまり(使えると)見られていないということだと思います」

◆ブンデスリーガ日本人の市場価格トップ10>>

――日本人選手がこれまで活躍できた大きな要因は、どんなところだと思いますか?

「日本人選手の献身性は、他の国の選手とは違うところですよね。監督の指示にちゃんと従うし、そのなかで自分のプレーもする。監督としては計算ができるので重宝されると思います。メンタル面では少し弱いところもあるかもしれないけど、本当に一生懸命プレーして惜しみなくチームに尽くすところが、ブンデスリーガで多くの日本人が活躍できてきた理由だと思います」

――そこはドイツ人のメンタリティに近いところがあるんでしょうか?

「いや。ドイツ人のメンタリティは自分本位。ドイツ人は『俺はすごいんだ』って思って、プレーしている選手が多いんです。日本人はそう思っていても、まずはチームを優先して考えるところがありますよね。ドイツ人もそういうのを持っていないわけではないけど、日本人ほどではない。そこをわかってくれれば、監督は重宝してくれると思いますよ。長谷部誠がいい例ですよね」

――これからの日本人選手に期待するところはありますか?

「もう海外でプレーするのは当たり前の時代なので、チャンスがあればトライしてほしいと思います。ただ、安易には行ってほしくない。今は情報もいっぱいあるし、ある程度の目標をしっかりと持って、チャレンジしてほしいですね。甘い世界ではないし、ヨーロッパには世界中からいろんな選手が集まってくるので、何も知らずに行くと試合に出られないなんてケースはざらにありますよ」

――これからヨーロッパでプレーする日本人はさらに増えていきますよね。

「間違いなく増えますね。今の若い子たちは国内も見ていると思いますけど、やっぱりヨーロッパを見ていて、将来はヨーロッパでプレーすることが頭にあると思います。ただ、Jリーグで活躍できなければ向こうで活躍なんて難しい。だからこそ、まずはJリーグで力を証明して、海外に旅立ってもらいたいですね」
(おわり)

◆前編はこちら>>

奥寺康彦
おくでら・やすひこ/1952年3月12日生まれ。秋田県出身。古河電工(現・ジェフユナイテッド千葉)や日本代表でも活躍したのち、77年にドイツ・ブンデスリーガのケルンへ移籍。その後ヘルタ・ベルリン、ブレーメンでもプレーし、9シーズンで通算234試合出場26得点を記録。得点は14年に岡崎慎司に、出場記録は17年に長谷部誠に抜かれるまで、日本人の最多記録だった。古河電工復帰後、88年に引退。その後ジェフユナイテッド市原や横浜FCのGM、監督を務め、現在は横浜FCの会長兼スポーツダイレクターを務める。

篠 幸彦●取材・文 text by Shino Yukihiko

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加