5.2%―。それは、日本国内で“妻の方が稼ぐ”世帯の割合。
「妻には、仕事を頑張ってもっと輝いてほしい」
笑顔でそう言いながら腹の底では妻を格下に見て、本人も自覚せぬまま「俺の方が稼いでいる」というプライドを捨てきれない男は少なくない。
そんな男が、気づかぬうちに“5.2%側”になっていたら…?
男のプライドが脅かされ、自らの存在意義を探し始めたとき、夫はどんな決断をするのだろうか。
◆これまでのあらすじ
どうにか離婚を回避しようと、姑息な手段で妻を説得する新太(あらた)。そんな夫の申し出に、頭を悩ませる伊織だったが…?
▶前回:妻を格下に見ていたはずの、モラハラ夫が…。いきなり優しくなった恐ろしすぎる理由

「新太、相当参ってるみたいだけど…。本当に離婚するつもりなの?」
「…うん」
ホテルのベッドに寝転がりながら友人・エマと電話をしていた伊織は、彼女の言葉に力強くうなずいた。
元々新太のことを紹介してくれたのは彼女だ。別れることになったらきちんと報告しようと思っていたが、どうやら夫の方から、すでに相談がいっているらしい。
「あんなに動揺してるの、初めて見たよ。いつも理路整然とクールに話すのに、オロオロしちゃってさ。何があったか知らないけど、ねえ本当に後悔しない?」
―新太、オロオロしてたんだ。
彼女の言葉に、伊織は小さな喜びを覚える。ようやく夫の感情を揺さぶることができたのだと。
『色々考えたけど、やっぱり離婚してください』
彼にメッセージを送ったのは、3日前。仮面夫婦を提案されたことで少しだけ心が動いたが、以前書いた日記を見返していたら決心がついたのだ。
それは、1年前に参加した離活セミナーでのこと。
「夫と離婚したいと思ったきっかけは何ですか?」
初めに尋ねられたときにびっしりと書き出した、自分の気持ち。そこに答えが載っていたのだから。
日記に書き込まれていた、ドロドロとした気持ち。それを見た伊織は…?
エリート夫の弊害
「どうして離婚しようと思ったんですか?」
そんな質問から始まる、伊織の日記。それを読み返してみると、これまで新太に抱えてきた不満が鮮明によみがえってきたのだ。
◆
【12月30日】
「webデザインの技能検定、受かったんだ!」
少しでも仕事に役立てようと勉強した資格。嬉しくて新太に報告すると、こう言われた。
「へえ、合格率ってどんなもんなの?」
…まず、おめでとうじゃないんだ。少し落胆したけど、心の声をグッと堪えて明るく答えた。
「40%くらいかな?」
「結構受かるもんだな」
そこで会話は終わった。結局「おめでとう」とお祝いすることも「頑張ったな」の一言すらないまま。
超難関の公認会計士資格を持っている新太からすれば、webの資格なんて屁でもないのだろう。
だけど、自分なりに頑張った。それを褒めてくれたって良いじゃないか。
偏差値教育の賜物。偏差値や難易度でしか判断できないんだと分かって、失望した。
【3月15日】
「今期、かなり評価してもらえたみたい。お給料もちょっと上がりそう」
「いくら?」
…また、おめでとうの一言もなく聞いてきた。
「金額は大したことないけど、月2万円ちょっとかな」
自分は大きな会社で働いているわけじゃない。だから給与体系や評価制度もあやふやなところがあるし、それを理由に退職していく人もいる。
年功序列型で、自動的に上がっていくわけでもない会社。だから月2万も基本給が上がるなんて、滅多にないこと。それだけ評価してもらえたことが嬉しかったのに。
だけど新太は、またしても冷たく言い放った。
「そんなもんなんだ」
昇格とともに大幅に給与も上がる新太から見れば、大した金額ではないんだろう。
金額の大小や年収でしか判断できない人なんだと、また落ち込んだ。

彼の何気ない一言に傷つく。もう疲れた。
日記の最後には、こう記してあった。
偏差値や年収・合格率など、客観的な数字でしか判断しない。「頑張ったね」ということもできないし、人の気持ちに寄り添わない。
それは出会った頃に気づけなかった、“エリート育ちの夫”と結婚したことによる弊害だった。
新太はいつでも、自分のことを上だと思っている。そんな彼にジワジワと蝕まれていくのが耐えられなくて離婚したくなったことを、伊織は改めて認識したのだ。
話しても埒が明かないと思った伊織は、まさかの行動に出る…。
「メッセージで送った通りよ。離婚してほしいの。あなたに言われて色々考えてもみたけど…。やっぱりもう傷つきたくない」
久しぶりに自宅へと戻った伊織は、新太に淡々と告げた。
「傷つきたくないって、一体どういうことなんだ?俺は伊織のことを傷つけた覚えはない。何が何だか分からないよ」
すると彼は、少しだけ声を荒げた。ただその声は以前と比べれば力なく、動揺しているのがすぐに分かった。
「あなたといると、疲れる。自信を失っていくのよ。これ、1年前から書いていた日記。ここに私の気持ちが全て書いてある」
「えっ、日記?」
混乱している新太に、例の日記を手渡す。
これでもう彼とはおしまいだ。渡すとき、少しだけ手が震えてしまった。
◆

自分は消された存在
意味不明な日記を渡された新太は、パラパラとページをめくってみる。大した内容でもないだろうと流し読みしていたが、あるページで手を止めた。
「彼の何気ない一言に傷つく。もう疲れた」
―おい。これ、どういうことだ?
心臓が、ドクンと大きな音をたてる。
まさかこの日記が、自分への不満をまとめたものだったなんて。新太は急いでページをさかのぼり、最初から読み始めた。
ページが進むにつれて、ドクンドクンと心拍数が速まり、喉もカラカラになっていく。
最後のページに到達する頃には、ゼエゼエと呼吸も苦しかった。全身から汗が噴き出し、頭も首元も変な汗でグシャグシャだ。
悪夢でうなされた後に、ハッと目覚めたときのようだった。
なぜなら、その日記には思い当たることばかり書かれていたからだ。むしろ自分が何気なく放った言葉が、こんなに彼女を苦しめていたなんて考えたこともなかった。
資格に合格したと報告を受けた日。確かにあのとき自分は、3人に1人が受かる資格なんて、会計士試験の比じゃないと思った。
給与の話だって覚えている。あんなに働いてもこの程度の報いなのかと。どんなに頑張っても高給な自分とは違うんだなとさえ思っていたのだ。
―ごめん。悪かったよ、伊織…。
◆
「伊織すごいじゃない!この記事、見た?」
新太が、社食でランチをとっていたときのこと。
エマが突然、スマホ片手にやってきた。画面をのぞき込むと、そこにはとある女性メディアのインタビュー記事が表示されている。
“本業と副業を両立させる”
そんなテーマで数人の一般女性が取り上げられていて、そのうちの1人が伊織らしい。
残念ながら新太は、取材を受けていたなんて知らなかった。それにショックを受けながらも、彼女のスマホを借りて記事に目を通す。
写真の中の伊織は明るく、ハツラツとしている。イキイキとビジョンを語っている様子が伝わってくるようだ。
こんな表情を自分に見せたのは、いつが最後だろう。新太は胸がチクリと痛む。…そのとき、あることに気づいてしまった。
「指輪…」
ポツリと口から漏れてしまった、その一言。
「え、なに?」
幸いにも、エマには何も聞こえていなかったようだ。
「いや、何でも…」
口ではそう言いつつも、新太の心はひどく動揺していた。
…写真の中の伊織は、結婚指輪をしていない。
「一生大事にするね!」と言っていたカルティエの指輪は、彼女からねだられたものだった。どこへ行くにも嬉しそうに着けていたというのに。
―伊織の人生の中に、もう自分は不要なんだ。
そのとき新太は、全てを悟ったのだった。
▶前回:妻を格下に見ていたはずの、モラハラ夫が…。いきなり優しくなった恐ろしすぎる理由
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帰宅した伊織は、テーブルにあるものが置かれているのを発見する。それは一体…?