福嶋亮大の大江健三郎 評:《弟》の複眼――大江健三郎の戦後性

福嶋亮大の大江健三郎 評:《弟》の複眼――大江健三郎の戦後性

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  • 更新日:2023/03/20
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大江健三郎の小説を特徴づけるのは、何よりもその異様な文体である。ときに暗く低いうめき声をあげながら、うごめき、とぐろをまき、立ち止まり、また動き始めるミステリアスな生き物のような文体は、こちらを当惑させるほどに粘っこい。大江の小説は、ある事柄を高所から鮮明にするというよりは、その粘っこい運動のなかで、過去の記憶や未来のサインを手探りするようにして進む。それでいて、彼の文体はぼやけた不正確なものではなく、暗い欲動をしぶとく引っ張り続けるような独特の力をもつ。分析することではなく持続させること――それが大江の文体が志向するものである。

参考:福嶋亮大 × 樋口恭介が語る、ネットワーク社会における批評家のあり方 「宇宙人とか天使のような視点から書く必要がある」

この異様なスタイルはどこから生まれたのだろうか。大江は《戦後》の時空間から出てきた作家であり、本人も戦後文学の系譜を強く意識していた。大江の小説は戦後日本のコンテクストに根ざすことによって、かえってその特殊なコンテクストを突き抜けた普遍性を得たと言えるだろう。一般には、大江に先行する文学者たち――大岡昇平、埴谷雄高、野間宏、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、三島由紀夫ら――が「戦後文学者」の名称でくくられるけれども、彼らの知的活動はおおむねすでに戦前・戦中に始まっていた。それに対して、一九五七年にデビューした大江は石原慎太郎とともに、戦後を知的な出発点とする最初の作家である。その意味では、大江にこそ《戦後性》が濃縮されていると言ってよい。

では、大江はどういう態度で戦後に取り組んだのか。それを考えるには、今挙げた先行する戦後文学者たちと比較するのがよい。彼らの特徴は〈1〉国家と戦争というきわめてハードな問題に直面し〈2〉その強いショックへの反応として、死者の声をも包含するような形而上学的なヴィジョンを象りながら〈3〉その固有の体験をしばしば戦後の空虚さとのギャップにおいて位置づけたところにあった。個々の意志を吹き飛ばすような強烈な力にさらされた彼らは、そこに神に似た何ものかを重ねる。しかし、そのような「神的なもの」への感染者は、戦後日本においてはもはや居場所がない。ある強制力のもとで何かを見てしまった人間は、まさにそのことによって世界に所属できなくなるのだ。

戦争文学の金字塔である大岡昇平の『野火』(一九五二年)は、これらのテーマを巧みに織り込んでいる。フィリピンの戦場で六本の芋を渡されて、部隊から追放された田村を語り手としながら、大岡はその極限状態から厳密さへの志向を引き出している。「この六という数字には、恐るべき数学的な正確さがあった」。人間の世界から切り離された田村は、人肉を食べるか食べないかというボーダーをさまよい、やがて神的なヴィジョンに感染するが、死の一歩手前のところで奇蹟的に生還する。にもかかわらず、田村にとって、戦後社会はもはや帰還できる場所ではあり得なかった。彼は精神病院に収容されて「狂人」として生きるが、それは非存在(non-existence)の幽霊になることと同じである。

大岡は自らの戦争体験を精錬して、それまでの日本文学にはなかったような硬質の「思想」を作り出した。大岡を筆頭に、戦争によって日本の「外」に接触し、それを思想として伝達しようとした作家たちが、戦後文学のパイオニアになったのである。ただし、その思想は戦後を本質的に受け入れないし、戦後もまたその思想を受け入れない。つまり、戦後文学の根底には、戦後との深刻なギャップがある。

彼らがいわば兄だとしたら、大江は《弟》のポジションにあったと言えるだろう。『野火』の田村は戦後を拒んで狂人となったが、《弟》はそうではない。しかし、《弟》のポジションにも兄とは別種の困難がある。『野火』の五年後に出た大江の短編小説『他人の足』(一九五七年)の冒頭に、鍵となる文章がある。

僕らは、粘液質の厚い壁の中に、おとなしく暮らしていた。僕らの生活は、外部から完全に遮断されており、不思議な監禁状態にいたのに、決して僕らは、脱走を企てたり、外部の情報を聞きこむことに熱中したりしなかった。僕らには外部がなかったのだといっていい。壁の中で、充実して、陽気に暮らしていた。(以下、大江の小説の引用はすべて岩波文庫の『大江健三郎自選短篇』に拠る)

兄たちが強制的に「外部」に連行されたとすれば、弟である「僕ら」にはむしろ外部がない。しかも、それは自ら選択したものではない。それは大江が、この「粘液質の厚い壁の中」を「強制収容所」のメタファーで呼んでいることからもわかる。戦争は強制力だが、戦後にもまた別種の強制が働く――しかも、それは戦争と違ってマイルドな力であるだけに、より「あいまい」で捉えがたいものなのだ。大江の「あいまいな日本の私」というノーベル賞講演はよく知られるが「あいまいな日本」とは「戦後日本」のアレゴリー(寓意)にほかならない。

大岡にとっては、強烈な「外」の体験を明晰かつ厳密に捉えることが「思想」であった。逆に、大江にとっては、そのような明晰さや厳密さをむしばむ「不思議な監禁状態」こそが、戦後性の核にある。しかも、このような外部性を欠いた監禁というテーマは、その後村上春樹の小説、さらには押井守や庵野秀明のアニメでもたびたび反復されてきた。子どもっぽい陽気さにあふれた強制収容所――それは戦後日本の一つの肖像であり、大江はそれを最も早い段階で捉えた作家なのである。

二〇代の頃から日本文学の若きトップランナーと見なされてきたにもかかわらず、大江健三郎が自らを「遅れてきた」作家として自己規定していたのは、その《弟》的な性格と深く結びついている。大江にとって戦後とは、まさに決定的な事件の「後」に続くことを宿命づけられた時代であり、その遅れやズレが明晰判明なリアリズムではなく、ねばつく異様な文体を生み出すのだ。「粘液質の厚い壁の中」はそれにふさわしい文章でなければ捉えられないからである。

大岡昇平や三島由紀夫の視覚的な文体とは違って、大江の触覚的な文体はものごとの解析には向いていない――というより、ものを見るにしても、大江は『野火』とは違う「眼」を得ようとする。この点で『空の怪物アグイー』(一九六四年)の冒頭には、たいへん興味深い文章がある。

ぼくは自分の部屋に独りでいるとき、マンガ的だが黒い布で右眼にマスクをかけている。それは、ぼくの右側の眼が、外観はともかく実はほとんど見えないからだ。といって、まったく見えないのではない。したがって、ふたつの眼でこの世界を見ようとすると、明るく輝いて、くっきりとしたひとつの世界に、もうひとつの、ほの暗く翳って、あいまいな世界が、ぴったりとかさなってあらわれるのである。

戦争の前線に立って、明晰な眼で戦争の現実と狂気を捉えようとした戦後文学者たちと違って、大江ははじめからいわば二重の眼をもつことを強いられていた(この点で、大江のトレードマークが眼鏡であることは象徴的である)。大江の語り手はそのつぶれた片眼によって「もうひとつの、ほの暗く翳って、あいまいな世界」に執念深くアクセスしようとする。大江は文字通り「複眼的」であろうとした作家であった。そのような《弟》の眼は大岡昇平や三島由紀夫のような《兄》にはないし、中上健次、村上春樹、村上龍のような戦後社会の《息子》にもない(※)。それは、出来事をそのすぐ「後ろ」で――いわばバックヤード(裏庭)で――体験した人間だけが得られるような眼である。

大江の初期の短篇小説を読むだけでも、彼がいわば左眼で人間を見ながら、右眼ではそこに犬を、羊を、死体を、樹木をアレゴリー的に重ねあわせていたことがわかるだろう。大江は家庭内では三人の子をもつ父であり、政治的には戦後民主主義と平和憲法を擁護してきた一方、その小説にはたえず「明るく輝いて、くっきりとしたひとつの世界」には所属できないもの、壊れやすいもの、暴力的なものがオーヴァーラップしてくる。人間の顔をした犬や羊は、戦後のヒューマニズムが覆い隠す《暴力の受容体》として機能する。ゆえに、大江は一方では良心的なヒューマニストに見えるし、他方では凶暴なアンチヒューマニストに見えるのである。

なかでも『空の怪物アグイー』は大江の想像力の雛型と呼ぶべき重要な作品である。語り手の「ぼく」は、つぶてを受けて片眼をつぶされたために(ここには当然、六〇年安保闘争の痕跡が読み取れる)、世界が二重に見える。その一方、子どもをなくして精神に変調をきたした年長の音楽家は、アグイーという怪物を自らに憑依させ、この世界から次第に外れてゆき、ついには交通事故死を遂げる。この二人組のモデルは後に、『万延元年のフットボール』(一九六七年)の自閉的な蜜三郎と行動的な鷹四の兄弟として再現されることになるだろう。

暗く激しく行き場のない情念を感じさせる『万延元年のフットボール』の主人公たちは、まさに満身創痍である。右眼を失明した蜜三郎は、もはや夢を見ることもないほどにアルコールに溺れている。そして、安保闘争で傷ついた鷹四は、四国の森の「御霊」を背負って進みながら、過去の恥辱を兄にあばかれて自殺する。鷹四が政治的な行動に出ようとすればするほど、彼はかえって世界から外れた「非存在」に近づいてゆくのだ。二人組の《兄弟》を単位とする大江は、単一の声ではなく、あくまで分裂を孕んだまま物語を推進してゆく――しかも、その兄弟のあいだにもギャップや敵対性があるため、大江の「あいまいさ」はいっそうその度合いを増すことになる。

(※)参考までに言えば、大江自身はエッセイで次のように述べている。「戦後文学者たちの、いかにも戦後文学らしい創作活動は、一九四六年の野間宏『暗い絵』や埴谷雄高『死霊』にはじまり、一九六九年に書き終えられた大岡昇平『レイテ戦記』と、おなじ年に書き起こされた武田泰淳『富士』で、大きい流れをしめくくる、というのが僕の考える時代区分です」(「戦後文学から今日の窮境まで」『「最後の小説」』所収)。大江はこのおよそ二〇年強の戦後文学の運動を経て、一九八〇年代の村上春樹がその思想運動を「能動性から受動性へ」という形でちょうど反転させたと指摘しているが、奇妙なことに自分自身のことは棚上げしている。ただ、それは大江のポジションが両者のあいだにあったことを示唆するだろう。

もとより、どんな社会の基底にも「呪われた部分」(バタイユ)がある。大江が「粘液質の厚い壁」に囲まれた戦後社会にかかった「あいまい」な呪いに、筆一本で(しばしばドン・キホーテ的に)立ち向かっていたことは疑い得ない。彼の複眼に映る世界は、一言で言えば荒廃している。しかも、特にその初期作品は、どんな希望も抱けそうにないくらいに徹底して荒廃しているのだ。幸せであるとはどういうことなのか、もはや想像できないし、そもそも考えもしないような人間たち――それが大江の初期作品を満たしている。

文芸誌でのデビュー作『死者の奢り』(一九五七年)には、すでに疲労の色がすみずみまで染み込んでいる。アルコール漬けにされた水槽の死体たちに同一化する主人公は「そうとも、俺たちは《物》だ。しかも、かなり精巧にできた完全な《物》だ」と語る。他方、彼とペアになった女子学生は妊娠してはいるものの、お腹の胎児が水槽の死体と近しいというオブセッションに心を鷲掴みにされている。もとより、戦争を生き延びた日本人の多くは、死体を見慣れていただろう。しかし、敗戦国の作家の誰もがこのような死体への同一化を感じるわけではない。

さらに、このような荒廃の呪いは、大江の小説からほとんど固有名が排除されていることにも現れている。それは、太宰治ふうの「みっともなさ」とは違って、実存的な「みじめさ」とつながっている。

例えば、アメリカによる占領体験を寓話化した『人間の羊』(一九五八年)では、若いフランス語の家庭教師ら日本人たちが、バスの車内で外国兵に「羊」のような恰好をさせられ凌辱される。三島由紀夫の『仮面の告白』(一九四九年)がホモセクシュアルのテーマを美学的なアイデンティティ形成に差し向けたのに対して、大江はそれを政治的な占領のアレゴリーとして用いた。興味深いことに、フランス語の家庭教師も含めて、そこには一切の固有名が出てこない。この無名性は大江の小説の常だが、『人間の羊』ではそれが作品のテーマそのものとして扱われ、人間は無名の動物に置き換えられている。

重要なのは、大江がこの作品で名づけと権力を結びつけたことである。バス内で凌辱の様子を目撃した教員は、警察に届け出ようとするが、羊たちは「不意の唖」となって黙りこくり、名前すら名乗ることがない。教員は「どうしても名前を隠すつもりなんだな」と激高し、本来は被害者であるはずのフランス語家庭教師を脅迫する。

お前の名前も、お前の受けた屈辱もみんな明るみに出してやる。そして兵隊にもお前たちにも、死ぬほど恥をかかせてやる。お前の名前をつきとめるまで、俺は決してお前から離れないぞ。

いつまで名無しの荒廃のなかで甘えているのか、早くまともな名前と顔をもった市民になれ、と恫喝するこの教員こそが、戦後社会の権力者である。しかし、大江はあくまで名前と言葉を失った屈辱にこだわり、人間の壊れやすさや暴力性を《戦後》の時空に召喚しようとする――彼自身の言葉を借りれば、模型のような「しずくの中の別世界」(『私という小説家の作り方』参照)に、この危うい世界を浮かび上がらせようとするのだ。繰り返せば、このしずくのなかの荒廃を持続させる力こそが、大江の文体を特徴づけている。

もし大江がいなければ、中上健次も村上春樹も村上龍も出てこなかっただろう(※)。彼らの初期作品はいずれもそのアモラルな荒廃ぶりにおいて、大江の初期作品とよく似ている。それが意味するのは、大江が戦後日本の想像力の「原風景」になっているということである。われわれは表面上、平和を謳歌していたとしても、一歩足を踏み違えればいつでも底なしの荒廃に差し戻される――そのことを全力で引き受けようとする人間が、戦後日本では小説家になってきたと言えるだろう。

ゆえに、一九八〇年代後半以降、日本人の《戦後》のリアリティがいよいよ希薄化するのに伴って、大江が「最後の小説」という言葉をほとんど濫用し始めたことは偶然ではない。ノーベル文学賞受賞という快挙はあったとはいえ、平成以降の大江はつねに作家的苦境のなかにあったように思える。正直に言えば、私が大江の小説から、私的な妄想の閉域をひたすら堂々巡りしているだけではないかという印象を受けたことも、一度や二度ではない。だが、そのような弱点も含めて、大江を抜きにして《戦後》とは何かを考えることはできない。私はあえてここで「あいまいさ」なしに、そう断言しておきたいと思う。

(※)特に、村上春樹がその初期作品において「僕」と「鼠」の二人組を登場させたことには、明らかに大江との共通性が見られる――もっとも、このカップルの語りは徐々に希薄化してゆくのだが。ついでに言えば、村上が多くのアメリカ小説を翻訳し、翻訳者と小説家の両輪で仕事を続けてきたのに対して、大江はフランス文学を中心に外国文学に誰よりも深く親しみながら、小説の翻訳を手掛けなかった。ある言語を別の言語に変換するよりも、言語と言語のあいだのボーダーランド(紛争地)にあり続けること――それが大江のポジションであったのだろう。

福嶋亮大

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