最初の玉砕、スタンレー作戦 元将校が記す「ニューギニア戦記」

最初の玉砕、スタンレー作戦 元将校が記す「ニューギニア戦記」

  • 西日本新聞
  • 更新日:2020/09/16
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「ニューギニア戦記」(河出書房)

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ニューギニアの地図

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古処誠二さん

ニューギニア戦記を追う<1>

随筆「ビルマ戦記を追う」を昨年書いた。これが予想に反して好評だったそうで「ビルマとは別の戦地で十作ほど紹介できないか」との依頼をこのたび頂いた。素直にアンコールと解釈し、ありがたく思っているしだいである。とはいえフィクションを書く者にとってノンフィクションを語ることは怖くもあり、東部ニューギニアでいこうとの決心に至るまでは少し時間がかかった。背中を押してくれたのは「主要な地名すら知られていない彼の地は今なお悲劇にある」との認識だった。

東部ニューギニアなら戦況や戦域の推移を追う形での紹介も意義深かろうと思った瞬間、最初に取り上げる本は決まった。南海支隊に属していた金本林造氏の「ニューギニア戦記」である。ニューギニアにおける陸軍の事実上の緒戦「スタンレー作戦」が本書には記されている。

南海支隊は対米開戦にあたって海軍と協同すべく編成された戦力である。グアム島とラバウルの占領を経てニューギニア本島に上陸している。目的は連合軍の要衝ポートモレスビーを占領することにあった。ラエ・サラモアの占領、珊瑚海海戦、大本営参謀の関与といった経緯は文字数の関係上省かせてもらう。昭和十七年(一九四二)七月下旬、南海支隊から派遣された先遣隊が本島北岸のブナ地区バサブアに上陸したのが悲劇の始まりである。

金本氏は輜重(しちょう)兵の将校だった。それも手伝い、本書には兵站(へいたん)や補給の厳しさが詳しく記述されている。険しいオーウェン・スタンレー山系を越えねばならない作戦は開始から無理を伴っており、七月三十日に先遣隊を追う形で上陸したとき金本氏の胸には「このニューギニアが私の死に場所だ」との直感が迫ったという。作戦は節食を前提としている有様(ありさま)で、上陸が記された直後の小見出しが「飢餓」とつけられているほどである。そこに語られる輸送難と食糧難は読んでいて苦しい。オーストラリア軍の抵抗を排除しつつ南下を続けた南海支隊は、増えていく傷病兵の担送と食糧不足に体力を落としていく。その前進はポートモレスビーまで直線距離五十キロの地点で止まり、逆に連合軍が南海支隊の上陸地点ブナ地区に迫る事態となる。

のちに太平洋の島々で繰り返される悲劇が昭和十七年の時点で現出したのが東部ニューギニアだった。自決者を出す過酷な撤退行の後、南海支隊は体力回復の暇もなく絶望的な防衛戦に突入する。飢えと病にさいなまれながらも将兵は降伏せず、先遣隊が第一歩を記したバサブアなどは守備隊の全滅に至る。当時は言葉こそ使われていなかったものの、これは紛れもなくあの戦争における玉砕の最初である。

太平洋戦争の終結から、75年目の夏を迎えました。年を追うごとに戦争体験者数は先細り、語り継ぐ難しさは増しています。そんな中、元兵士たちによる戦記には、過酷な戦地での経験が書き残されています。これまで2千冊を読み込み、戦争をリアルに描いてきた作家の古処誠二さん=福岡県久留米市=が、ニューギニアでの戦記を読み解きます。

スタンレー作戦 1942年3月にラエ、サラモアを攻略した日本軍が、バサブアから約100キロ離れたポートモレスビーの支配を連合軍と争った戦闘。同年5月、海上からの攻略を目指し空母同士が史上初めて激突した珊瑚海海戦では、両軍ともに空母1隻が沈没。海路を諦め、最高峰は4000メートル級のオーウェン・スタンレー山系を越える作戦を立てた。ポートモレスビーは現在、パプアニューギニアの首都。ポートモレスビー作戦ともいう。

古処誠二(こどころ・せいじ) 作家。1970年生まれ。福岡県久留米市在住。高校卒業後、自衛隊勤務などを経て、2000年にメフィスト賞を受けデビュー。10年に「わたくし、つまりNobody賞」、17年に「いくさの底」で毎日出版文化賞、翌年日本推理作家協会賞。近著に「ビルマに見た夢」。これまでに3度の直木賞候補。

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