
メキシコで生まれた闘龍門が日本逆上陸を果たしたのは1999年1月31日。この日は誰でも一度は名前を聞いたことがあるであろうジャイアント馬場さんの命日でもある。そんなプロレス界にとって大きすぎる出来事があった日に後楽園大会を開催した闘龍門は、若い女性ファンを中心に一躍脚光を浴びることとなる。
闘龍門からDRAGONGATEへと名称変更こそあったが、望月成晃は初期の頃から出場。最初は所属ではなくフリー扱いだった。初参戦は2月3日。そのため、逆上陸の日に試合はおこなっていないが、会場で観戦した。「黒船来航」ぐらいの衝撃を受けた。
マグナムTOKYO、CIMAという2大看板を中心に、日本ではまだ無名に近かった選手のみの純血メンバーでひとつの興行を成り立たせていた闘龍門。そこにフリーとして望月も参戦するようになる。時期としては新日本プロレスのスーパージュニア出場直後。メインストーリーにこそ交わらなくとも、スーパージュニアに参戦したという自負もある。ほかのメンバーに負ける気などサラサラなかった。それでも参戦すればするほど、蚊帳の外…。ジャパニーズ・ルチャを標ぼうとする闘龍門と、その真逆とも言えるスタイルの望月。そこに対抗しようにも敵うはずがなかった。そんな時、ウルティモ・ドラゴン校長からも痛烈なダメ出しを受けることとなる。
「モッチー、プロレスがしょっぱ過ぎるよ。新日本でそこそこ評価をもらったかもしれないけど、それは相手がよかったからだよ。勘違いしたらダメだよ」
ショックは計り知れず、その後も自問自答の日々。それでも開き直ってファイトすることで校長からの評価も一変。あらためてこの団体でトップを目指すことを決意した。闘龍門に参戦するようになって、プロレスは結果がすべてでないことにも気づき、あえてマグナムやCIMAとは対極の闘いで対抗していった。
それからしばらくし、誕生したのがM2K。初めてのヒール経験となった。これをきっかけに単独で初めてのメキシコ行きも体験。帰国後には正規軍、クレイジーMAXとの抗争に割って入り、闘龍門ファンがドン引きするほどの嫌われよう。闘龍門のシングルナンバーワン決定戦・第1回「エル・ヌメロ・ウノ」では優勝をかっさらった。さらに2001年のラストにはCIMAとのカベジェラ・コントラ・カベジェラ(敗者髪切りマッチ)を闘い、敗れて丸坊主に。「不思議と潔く受け入れられました」。
現在では世にも稀な同時現役親子レスラーとして話題を振りまく中で、初の自伝「親子でプロレスをやる覚悟。」も発売。今では息子がデビューするまでになったが、若かりし日の望月にもさまざまな苦悩があったというわけだ。
週刊プロレス編集部