「インパール作戦の成功は、今や疑いなし」 牟田口軍司令官が訓示に見せた“陶酔”

「インパール作戦の成功は、今や疑いなし」 牟田口軍司令官が訓示に見せた“陶酔”

  • 文春オンライン
  • 更新日:2020/11/20

“片倉高級参謀を追いだして、インパール作戦を実施する” 牟田口中将が見せた異常な「執念」から続く

第二次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」。NHK連続テレビ小説「エール」では、名作曲家・古関裕而をモデルにした主人公・古山裕一がインパール作戦に従事する様子が描かれ、話題となった。

インパール作戦惨敗の主因は、軍司令官の構想の愚劣と用兵の拙劣にあった。かつて陸軍航空本部映画報道班員として従軍したノンフィクション作家・高木俊朗氏は、戦争の実相を追求し、現代に多くのくみ取るべき教訓を与える執念のインパールシリーズを著した。シリーズ第2弾『抗命 インパール2 (文春文庫)』より、牟田口廉也中将が周囲の反対を押し切り、インパール作戦を決行する様子を描いた「インド進攻」を一部紹介する。(全6回の6回目。#1#2#3#4#5を読む)

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東条大将は、稲田副長の処罰を命令

日本の政府と大本営は『大東亜政略指導大綱』を定めて、アジア諸国を結んで、連合軍にたいする防衛態勢を作りあげようとした。この方針に従って、タイ国にはこの国が前に失った領地を回復させることにした。その地域はマレー半島のペルリス州、ケダー 州、ケランタン州、トレンガヌ州であった。

東条首相兼陸相はこの年、昭和18年7月4日、タイ国のピブン首相を訪問して、失地回復の約束をした。そのあと、シンガポールの南方軍総司令部にきて、4州の国境線の確定を命じた。

総軍では国境確定委員を出して、タイとマレーの新国境線をきめた。すると、東条大将がおこって、責任者の処罰を要求してきた。東条大将がピブン首相と約束した線とは違うというのである。

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この新国境線をきめたのは高橋総参謀副長であった。防衛上の必要から、応急臨時の国境を作り、戦闘終了後に確定することにした。ところが東条大将は、稲田副長の処罰を命じてきた。外交文書に調印したのが稲田副長であったからだ。

のちになってわかったことであるが、これは、稲田副長を追い出すための工作であった。富永次官が東条大将をそそのかしたのである。理由は、稲田副長が南方軍に行ってから、中央のいうことをきかないで、勝手なことをするというのであった。東条、富永の個人感情が強く左右した人事であった。

出張中の不意打ち人事

昭和18年10月1日、稲田副長は総軍司令部付となり、すぐに第19軍司令部付に転出した。後任は、大本営の第1(作戦)部長の綾部少将であった。

稲田前副長は事務引継ぎの時、綾部新副長にインパール作戦計画について、慎重に扱うように注意をした。とくに牟田口軍司令官の暴走を押えることを、言葉をつくしてたのんだ。

引継ぎを終って、酒席の雑談になった時に、新副長は意外なことをいった。それは、こんどの異動命令が出張中にきた、ということであった。南太平洋のニューブリテン島ラバウルを視察している間のことであった。出発前には予告もなかった。

綾部新副長は憤慨していた。出張中に不意打ちにするような異動は、乱暴であり非礼だというのだ。

片倉高級参謀も、急変

稲田前副長は、この異動も東条、富永の人事だと思った。このふたりの気にいらないというだけで、要職にある者までを、簡単に異動させるのは、専横のきわみであった。

こうした人事の弊害は、すでに軍の統帥に悪影響をおよぼしてきている。これが大きな禍根になると思った。

ふたりは酒に酔い、東条と富永とを痛罵した。この時に予想したような大事が、この異動のあとに、まもなくおこった。

総軍から稲田副長がいなくなると、インパール作戦を抑制する者がなくなった。総軍の幕僚は、前副長の考えをよく知っているはずだった。それがいつのまにか、第15軍の計画を支持するように変った。また、大本営が稲田副長に約束した兵力をもらわなくても、作戦はできるというようになった。これは前副長が最も強くいましめていたことであった。

寺内総軍司令官も、早くやれといいだすようになった。もともと、景気のよい話の好きな人であった。このように空気が変ってくると、新任の綾部副長では押えきれなくなってしまった。

ビルマ方面軍のなかでも、大きな変化が起った。あれほど強烈に反対をつづけていた片倉高級参謀が、作戦の実施に賛成するようになった。方面軍司令部を恐怖させたほどの片倉高級参謀も、急変してしまった。

第15軍の構想のままに作戦実施を決意

昭和18年12月23日から、ビルマのメイミョウの第15軍司令部で参謀長会同が開かれた。そのあとで、インパール作戦の総仕上げのための兵棋演習が行われた。方面軍からは中参謀長と不破博作戦主任参謀が出席した。総軍からは綾部副長、山田作戦主任参謀、今岡兵站主任参謀が列席した。総軍としては、この演習を見て作戦決行をきめる予定であった。

牟田口軍司令官は、わが事なれりといった自信まんまんの態度で主宰者の席にいた。その結果は、牟田口軍司令官が予期した通りになった。

今度の兵棋演習は、第15軍の構想のままにおこなわれた。その内容は、それまでの牟田口計画と変っていなかった。

しかし、列席したビルマ方面軍の中参謀長も、南方軍の綾部総参謀副長も、反論もしないで承認してしまった。きのうの反対者は、きょうは賛同者となって推進につとめている。さらに、この演習の結果を見て、南方軍はインパール作戦の実施を決意した。

南方軍の寺内総軍司令官は、この計画を決裁して、大本営に正式の意見具申書を提出した。さらに、大本営の認可をうながすために、綾部副長を東京に送った。かつて大本営から計画の禁止を伝えに行った綾部副長が、半年後には、計画の実施をうながす使者となった。

綾部副長は大本営での説明の時に、この計画の実施に確算がある、と答えたという。稲田前副長と計画の阻止を約束したことも、全く反対な結果になった。

『皇国の興廃この一戦にあり』

各担当者の考えが、いつのまにか、変ってしまった。奇妙なことであった。この間に、終始変らないのは、牟田口軍司令官の計画と自信であった。

大本営がウ号作戦を認可したのは、年の改まった昭和19年1月7日であった。大本営陸軍部指示により、つぎのように伝えられた。

〈大陸指第1776号
南方軍司令官はビルマ防衛のため、適時当面の敵を撃破して、インパール付近、東北部インドの要域を占領確保することを得〉

このようにしてインパール作戦が実施されることにきまった。

牟田口軍司令官は12月の兵棋演習が終った時は、得意満面であった。インパール攻略のわくはあるにしても、インドのアッサム州に進攻する機会と可能性は、そのなかにじゅうぶんに残されていた。牟田口軍司令官の生涯の念願は、実現させることができるのだ。

演習のあとで、牟田口軍司令官は訓辞をした。そのなかで『皇国の興廃この一戦にあり』と、日露戦争のゼット旗信号の字句を呼号し、さらに次のようにのべたという。

《予は軍職にあること、まさに30年。この間いろいろの作戦を体験したが、いまだかつて、かかる必勝の信念をもって、作戦準備をしたことはない。インパール作戦の成功は、今や疑いなしである。諸官はいよいよ必勝の信念を堅持し、あらゆる困難を克服し、ひたすらその任務に邁進せよ》

牟田口軍司令官の胸中にあふれた、自信と得意と喜びのほどを知ることができる。これほどにインド進攻を熱望するようになった動機はどのようなものであったろうか。

死なせてくれんか

昭和18年5月、稲田副長をメイミョウに迎えた牟田口軍司令官は、会談中に、満州にいた当時の話を持ちだした。

「あの時、お前にたのんだことがある」

蘆溝橋事件の2年後のことで、関東軍の第4軍の参謀長だった牟田口少将は、大本営から派遣された、北満視察途上の稲田作戦課長にたのんだ。

「結果がよい悪いは別として、おれは蘆溝橋で第1発をうった時の連隊長として、責任を感じている。どうしても、だれかを殺さなければならない作戦があれば、おれを使ってくれ、とたのんだのをおぼえているだろう」といってから、態度を改めて、

「おれの気持ちは、あの時と同じだ。ベンガル州にやって、死なせてくれんか」

8期も後輩の稲田副長に、これほどにたのむのは、本心に違いないと思われた。しかし稲田副長は遠慮のない答えをした。

「インドに行って死ねば、牟田口閣下はお気がすむかも知れませんが、日本がひっくりかえってはなんにもなりませんよ」

インパール作戦が実現しても、牟田口軍司令官はインドで死ななかったが、日本は崩壊してしまった。死を口にするはたやすいが、死を実行することはむずかしい。

(高木 俊朗/文春文庫)

高木 俊朗

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