青山敏弘にとって「夢のまた夢」だったW杯 “アクセント”を目指したブラジル大会の舞台裏

青山敏弘にとって「夢のまた夢」だったW杯 “アクセント”を目指したブラジル大会の舞台裏

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  • 更新日:2022/11/25
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2014年のブラジルW杯で自身初の舞台に立った青山敏弘【写真:Getty Images】

【2014年ブラジルW杯戦記|青山敏弘】11年のA代表初招集では「全くついていけず」

カタール・ワールドカップ(W杯)は11月20日に開幕し、森保一監督率いる日本代表はグループリーグでドイツ代表、コスタリカ代表、スペイン代表と同居する過酷な状況のなか、史上初の大会ベスト8入りを目指す。

7大会連続となる世界の大舞台。これまで多くの代表選手が涙を流し、苦しみから這い上がり、笑顔を掴み取って懸命に築き上げてきた日本の歴史だ。「FOOTBALL ZONE」では、カタール大会に向けて不定期企画「W杯戦記」を展開し、これまでの舞台を経験した人物たちにそれぞれの大会を振り返ってもらう。2014年のブラジルW杯で自身初の舞台に立った青山敏弘(サンフレッチェ広島)が、8年前の記憶を紐解く。(取材・文=中野和也/全2回の1回目)

◇   ◇   ◇

2010年6月24日、南アフリカW杯でグループリーグ第3節日本対デンマーク戦が行われた日、青山敏弘はオーストリアの首都ウイーンにいた。サンフレッチェ広島の夏季キャンプに参加するためだ。

この年、彼は前年に続いて2度目となる左膝内側半月板損傷の手術を受け、戦列を離脱。6月21日にようやくチーム練習に合流した状況で、日本代表のことを考える余裕はなかった。自分のプレーを取り戻せるか、彼の意識にはそこしかなかった。

岡田武史監督が率いる代表チームには、彼と同じ北京五輪世代の選手たちが中心となって活躍していた。デンマーク戦では長友佑都(現FC東京)と本田圭佑が先発し、サブには岡崎慎司(現シント=トロイデン)や内田篤人、森本貴幸(現台中Futuro)がいた。だが、彼らに対して青山が何かを思ったり、感じることもなく、純粋に代表チームを応援していた。

この日はミハイロ・ペトロヴィッチ監督(当時)の計らいで、選手・スタッフ・報道陣も含めて、レストランで夕食をとりながら日本対デンマーク戦を観戦していた。本田の強烈な無回転フリーキック(FK)に驚愕し、遠藤保仁(現ジュビロ磐田)のテクニカルなFKに歓喜し、そして岡崎慎司のゴールで勝利を確定させた日本代表に全員で大きな拍手を贈った。その中に、満面の笑みを浮かべた青山は、確かにいた。

3年前の2007年、北京五輪出場を懸けたアジア最終予選の対サウジアラビア戦、相手の決定的なシュートをライン上で防いだ青山は、間違いなくヒーローだった。だが、その試合の終盤に右足の指を骨折。中盤の要を失った広島はその年の入れ替え戦で京都サンガF.C.に敗れ、J2に降格した。そして2008年、青山は北京五輪の代表から外された。

J2を無双状態で駆け抜け、2009年はJ1で4位。絶好調の広島を牽引していた紫の背番号6だったが、このタイミングで2度にわたる左膝内側半月板の手術。当時の彼に、代表を意識しろというほうが無理だ。2010年秋、アルベルト・ザッケローニが日本代表監督に就任。2011年8月の日本代表候補合宿に初めて招集された時も「自分の実力はまだまだ」と実感したという。

「この時のトレーニング、僕は全くついていけなかった。チーム戦術面でもそうだし、個人の能力にしてもそう。もっと力をつけないと、代表では闘えないと思ったんです」

2013年の東アジア選手権で初めてW杯を意識

2012年、森保一監督(現・日本代表監督)の下で広島は初優勝を飾る。青山は全34試合に先発し、2得点6アシストと活躍。初めてJリーグベストイレブンにも選ばれた。そして翌年7月、青山は東アジアカップ(現E-1選手権)の代表に選出される。この大会の日本代表は国内組だけで構成されていたが、翌年のW杯メンバーに選出される選手が7人も含まれており(柴﨑岳は体調不良のためこの大会を離脱)、ザッケローニ監督にとっては人材を発掘できた大会だったと言える。

「この時初めて、W杯を意識しましたね」と青山は振り返る。

「ただその“意識”は絶対的なものではなく、まずは目の前のこと。この大会で勝ちたい。勝って、監督に認められたいという想いが強かったですね」

2年ぶりに日本代表に招集されて感じたことは、「やれる」という自信だった。

「戦術も理解できていたし、自分の力が評価されていることも分かった。次からは、代表は明確な目標になった」

2013年8月のウルグアイ戦で招集されたあとは招集がなかったなか、14年3月のニュージーランド戦で先発出場。ハーフタイムでの交代となったが、前半だけで4得点という圧巻のパフォーマンスの中心となり、「23人枠」の可能性が出てきたと評価された。

「あの時の試合も、自分の中では手応えがあった。合宿でもやれていたし、いけるんじゃないかという感覚もあった」

14年5月13日夕方、オーストラリア・シドニーのホテル。インターネットの回線レベルが悪く何度も映像が止まるなかで、日本代表メンバー発表会見をチーム全体が見守った。

「青山」

確かに名前を呼ばれた。ロビーに集まっていた広島の選手たちは歓喜の叫びを上げた。しばらくして、エレベーターが開いた。青山が、そこにいた。拍手が鳴り止まない。選手たちは次々と青山に駆け寄り、そして抱きしめた。広島にとっては駒野友一以来2人目となるW杯日本代表が誕生した瞬間だった。

「自分にとってW杯、夢のまた夢だった。特別だった。本当に嬉しかったですね。監督の戦術についてもそうだし、自分にとってはいいタイミングだったと思う」

主力組の「プランAの完成度は本当に高かった」

14年6月2日、日本代表はアメリカでコスタリカと対戦。W杯出場国との戦いとなったこの試合に青山は先発する。ハーフタイムで交代したが、「ずっとフィーリングが良くて、本田圭佑に出したラストパスもすごく良かった」と、自身のプレーに対してさらに自信をつけていた。

続く6月6日のザンビア戦。2点を先に取られたが逆転し、このまま勝利かと思った後半44分、同点に追いつかれた。その直後、ザッケローニ監督は遠藤保仁(現ジュビロ磐田)に代えて青山を投入する。

キックオフ。ボールを受けた青山は自陣から一気に裏へとロングパス。鋭いボールに反応した大久保嘉人が見事なシュートを決めて日本代表は4-3と勝利を掴んだ。

ただ、青山に手応えはなかった。自分のプレーに対してというよりは、チームについてだ。

「コスタリカ戦もザンビア戦も、攻撃的なサッカーはできていたけれど、チームとしてはバタバタしている感じでした。2試合とも失点していますからね」

ただ、ブラジルに入ったあともチームには決してネガティブな雰囲気はなかったという。

「みんな自信を持っていましたからね。前年のヨーロッパ遠征では(オランダやベルギーと戦って)結果を出していた。直前2試合も、失点したとはいえ、勝っていたから」

もちろん、W杯直前ということで「主力」と「サブ」は明確に分かれていた。そして青山はサブ組。その立ち位置も彼は分かっていた。

「コアというか、今までの主力組が先発でいって、(サブ組である)自分たちがアクセントになればいいとは思っていました。まあ、微妙と言えば微妙な立ち位置でしたけど、僕らには僕らの武器があるし、プラスアルファの色を出せるように準備はしていましたから。実際、戦術的にはしっかりと確立されていましたし、それをより高いレベルで表現できる選手が試合には出ていた。いわゆる『Aプラン』の完成度は、本当に高かった」

(文中敬称略)

(後編に続く)

[プロフィール]
青山敏弘(あおやま・としひろ)/1986年2月22日生まれ、岡山県出身。作陽高―広島。J1通算436試合20得点、J2通算36試合4得点、日本代表通算12試合1得点。広島一筋19年を誇るハート&ソウルにして、卓越したパスセンスと闘争心を併せ持つ熟練のボランチ。ファンサービスの神対応も広く知られ、同僚から絶大な信頼を得るとともに、多くの人々から愛される。ワールドカップには2014年のブラジル大会に出場した。(中野和也 / Kazuya Nakano)

中野和也

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