再考「湾岸トラウマ」 外交文書に見る海部元首相の気概

再考「湾岸トラウマ」 外交文書に見る海部元首相の気概

  • 朝日新聞デジタル
  • 更新日:2022/01/15
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"1991年7月16日、ロンドン・サミットに参加したブッシュ大統領(左)と海部俊樹首相"

海部俊樹氏は、冷戦が終わった1989年から91年までという国際社会の激動期に首相を務めた。イラクがクウェートに侵攻した湾岸危機への「国際貢献」が遅れ、その後の日本外交に影響を与えた「湾岸のトラウマ」を象徴する人物のように言われる。だが、昨年末に外務省が公開した文書からは、海部氏の別の一面が見えてくる。

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湾岸危機が起きた翌月の90年9月、ニューヨークでの日米首脳会談。ブッシュ(父)大統領が石油価格上昇に対応する米国の国家備蓄放出について説明し、日本に同調を求めた。

世界第2の経済大国となり、なお対米貿易黒字を積み増していた日本。米ソ対立の冷戦が終わり、湾岸危機でどんな役割を果たしてくれるのか――。当時の日米関係は「有事」とも言える緊張の下にあった。

だが、海部氏はきっぱりと断った。

「国民の心理的パニックを招くので行わず、石油価格上昇は中東で危機が発生した以上当然のこととして国民を説得していく」

「(湾岸)危機がわが国の石油需給に影響を与えるのは当然で、今後不足が発生すれば別だが、当面は備蓄を取り崩す考えはない」

当時「極秘」扱いとされたやり取りに、言うべきは言うという海部氏の気概を感じた。かたや「平時」の昨年11月に岸田文雄首相が、ガソリン価格引き下げを図るバイデン大統領の国家備蓄放出方針に同調したのと対照的に思えた。

海部氏は自民党で小派閥の河本派に属し、外交経験は乏しかった。リクルート事件などで自民党政権が揺れ、米ソ対立の冷戦が終わる内外の激動期に首相となり、日本の針路を外務省と連携して探っていた。

90年1月に「壁」崩壊から間もないベルリンを訪れ演説した。その2年前に竹下内閣が「平和のための協力」などを柱に掲げた「国際協力構想」を発展させると表明した。90年6月には後のカンボジア和平につながる東京会議を実現させた。

ところが湾岸危機が起きると、ブッシュ氏は海部氏に多国籍軍への自衛隊参加を打診。海部氏は憲法との関係で拒んだが、巨額の財政支援は小出しになって米国での批判は収まらず、自民党でも外務省でも自衛隊派遣論が強まる。これが91年1~2月の湾岸戦争後、戦後初の自衛隊海外派遣となるペルシャ湾への掃海艇派遣へとつながった。

至る所で海部氏がキーパーソンとして登場する今回の公開文書は、湾岸戦争が始まる直前の分までだが、今日への示唆に富む。

冷戦後の日本外交の指針になりかけていた「国際協力構想」はどこへ行ったのか。そうした戦略が根付く前に起きた湾岸危機で、米国の圧力への場当たり的対応を迫られた教訓は、その後の「国際貢献」の基調となる「カネだけでなく人も」に収まる話なのか。

少なくとも、湾岸戦争の10年後に起きた米同時多発テロに始まる「テロとの戦い」で、日米同盟を揺るがすまいと戦時初の自衛隊の海外派遣に踏み切った頃から持ち出されるようになった、「湾岸のトラウマ」に尽きる話ではあるまい。

国際社会の転換期に起きた危機に、日本はどう対応すべきだったのか。政治に問われたリーダーシップの面から、海部氏の思いに反省も含め耳を傾け、「湾岸のトラウマ」を再考するきっかけにしてみたかった。

朝日新聞の外交文書取材班では海部氏にインタビューを申し込んでいたが、先月上旬、秘書からこのような丁重な断りの手紙が届いていた。

「海部の年齢や体調、コロナを取り巻く社会情勢を鑑みて、全ての業務を停止しておりますので今回は見送らせて頂きます。せっかくのご依頼にお答えできず大変恐縮ですが、また再開した際には必ずご連絡致します」

海部氏になお語ろうという意欲があったように思えるだけに、今回の逝去はなおさら残念だ。心から冥福をお祈りする。(編集委員・藤田直央、菊地直己)

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