ウクライナ抑留者の近田明良さん(96) ロシアの侵攻に心痛める

ウクライナ抑留者の近田明良さん(96) ロシアの侵攻に心痛める

  • 毎日新聞
  • 更新日:2022/05/14
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近田明良さん=東京都福生市で2022年4月2日、渡部直樹撮影

「昔と同じだと思いますよ、今の状況は」。太平洋戦争直後、旧ソ連にだまされてウクライナやシベリアに抑留された経験を持つ東京都福生市の近田明良さん(96)は、ロシア軍によるウクライナ侵攻のニュースを見る度、かつて自分が置かれた状況を重ねて、心を痛めている。【渡部直樹】

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1945年8月の終戦当時、旧満州(現中国東北部)の奉天(現瀋陽)で銃器の製造にあたっていた近田さん。侵攻してきたソ連軍により武装解除され、同軍の作業を1カ月ほど手伝わされた後、「よくやった。ダモイ(帰国)だ」と言われ、貨物列車に乗り込んだ。「朝鮮半島を通って九州に帰れるんだ」。そう思い込んでいたが、列車は半島とは反対の北に向かって走り出した。

たどり着いたのは、現在のロシア・ブリヤート共和国にある強制収容所だった。丸木でできた簡素な木造の収容所に入れられ、木の伐採や運搬作業をさせられた。身も凍るような寒さに、「黒パン」と呼ばれる硬いパンや薄いスープが与えられるだけの粗末な食事。飲用や生活に使う水も十分には与えられず、外からバケツで取ってきた雪を暖房で溶かして使っていた。

ある日、作業を終えて部屋で休憩していると、外から「パパーン」と乾いた音を聞いた。外に出ると、先輩の1人が三重の鉄条網のうち、一つを越したところに倒れている。歩哨に銃で撃たれたらしかった。すでに亡くなっており、仲間とともに雪まみれの遺体を部屋の中まで運んだ。遺体のそばには、雪を溶かして水にする際に使っていた鉄製のバケツが落ちていた。「鉄条網の間は、誰も立ち入らないから雪が汚れていない。その雪を取ろうとしたのだと思う。逃げようとしたわけでもないだろうに、どうして……」。先輩はよく「自分の息子だ」と言って、小学生くらいの男の子が写ったボロボロの写真を見せてくれた。「残された家族は、それからどうしただろう」。戦争の悲惨さを身にしみて感じた。

46年の7月ごろ、再び「ダモイだ」と言われた。生き残った仲間同士で喜んで貨車に乗り込んだが、実際にたどり着いたのは、日本とは逆のウクライナだった。同国は当時ソ連の一部で、ザポロジエにある、独ソ戦で破壊された水力発電用のダムの修理が新しい仕事だった。一輪車でレンガやセメントを運ぶ単純労働を強いられた。

ある時、現場監督のウクライナ人男性に言われた。「私の父も日露戦争で捕虜になって収容所に入ったが、日本人に親切に扱われて感謝している。あなたたちもきっと日本に帰れるから、それまで頑張れ」。「日本の捕虜をいたわる言葉に、一体感を感じた」。気力を振り絞って働き、48年11月、生きて日本の土を踏むことができた。

厚生労働省によれば、旧ソ連により抑留された約57万5000人のうち、約5万5000人が死亡した。ロシアがウクライナの住民を自国に強制移住させているとも報じられる中、近田さんは言う。「70年前と同じことを(ロシアは)やっていると思う」「住民をロシアへ連れて行ってどういう結末になるのか。あの男性の親族も悲惨な目にあっているかもしれない。早く争いを終えて、穏やかになってほしい」。ウクライナやシベリアで過ごした日々を思い返しながら、そう願っている。

毎日新聞

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