箱根駅伝V&区間賞後に生じた異変 元五輪代表・尾方剛、どん底を味わった全身脱毛症との闘い

箱根駅伝V&区間賞後に生じた異変 元五輪代表・尾方剛、どん底を味わった全身脱毛症との闘い

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  • 更新日:2023/09/19
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山梨学院大で箱根駅伝優勝を経験した尾方剛氏。大学卒業後は中国電力に入社しランナーとして輝きを放った【写真:築田純/アフロスポーツ】

広島経済大学陸上競技部・尾方剛監督インタビュー第2回

箱根駅伝は来年1月に第100回の記念大会を迎える。今回は10月14日の予選会に全国の大学が参加可能となっており、関東以外の大学チームの活動にも例年以上に注目が集まっている。昨年11月に行われた中国四国学生駅伝で2年ぶり20回目の優勝を果たした広島経済大学陸上競技部を率いるのは、2005年ヘルシンキ世界陸上の男子マラソンで銅メダルを獲得し、08年北京五輪にも出場した尾方剛監督だ。日本のトップランナーとして一時代を築いた尾方氏の勝利への哲学や指導論に迫るインタビュー。今回は、その名を轟かせた大学2年時の箱根駅伝と、頂点に立ったことで心身のバランスを崩し、全身脱毛症にも苦しんだ日々を振り返った。(取材・文=佐藤 俊)

◇ ◇ ◇

山梨学院大学の1年目、尾方剛は故障が多く、箱根駅伝には絡めなかった。同学年の選手やチームの仲間が走る姿を見て、「箱根で自分の力を発揮したい」と強く思った。実は、尾方は山梨学院大に入学するまでは、そこまで箱根駅伝を重視しているわけではなかった。

「高2の時、神奈川大に行った先輩が箱根を走るので先生に連れていってもらったんですけど、こんなに大勢の人の中で走るんだって思ったくらいだったんです。高3の時、入学予定の山梨学院大の学生の人たちと一緒に応援したんですが、その時も凄い大会だなって思ったぐらいで、そこに出たいとか、箱根をメインに考えていたわけじゃなかったんです」

だが大学に入学し、チームが箱根に懸ける熱を感じ、早稲田大の渡辺康幸ら同世代が活躍すると、勝負したいという気持ちがメラメラと燃えてきた。

ところが尾方は、2年目も故障の影響などで満足に走れず、チームの練習に戻ってこられたのは9月だった。そこから巻き返して箱根駅伝のエントリー14名の枠に入った。最終的に10区を言い渡されたのは、出走前夜だった。

「うちは往路で優勝して、早稲田が2分13秒差で2位だったんです。9区に櫛部(静二)さんがいたので、そこで逆転された場合、自分のほうが勝負できるんじゃないかと上田先生が考えて自分を選んでくださったんです。前日の夜に電話がかかってきて、『お前でいく』と言われて、そこで躊躇したらたぶん、当日変更はなかったと思うんですが、僕は『いけます』と即答したので、使ってもらえたんだと思います。正直、9月から3か月しか練習できていないなかでもチャンスはあるなと思っていましたが、まさか10区を走れるとは思っていなかった。本当に運が良かったと思いますね」

尾方は2分50秒のタイム差をもらい、アンカーとしてトップを走り、そのまま区間賞で山梨学院大の総合優勝に貢献した。後続の早稲田大には、最終的に4分29秒という差をつけて史上初の総合タイム10時間台の記録を打ち立てた。

「箱根は、素晴らしい舞台でした。大学に入ってから関東インカレ、出雲駅伝、全日本大学駅伝も走れていなかったんですけど、初の公式戦が箱根駅伝だったんです。しかも勝っているシチュエーションだったので、本当に楽しかったです」

周囲が期待していると「自分で勝手に思い込んでいた」

山梨学院大は前回大会で早稲田大との「早山対決」に敗れ、総合2位に終わっていた。その雪辱を果たしたことで地元は大いに沸き、新聞の一面に大きく取り上げられ、甲府市内を優勝パレードするなどして、尾方の名前も一気に全国区になった。だが、それまでそういう経験をしたことがなかった尾方の精神に、異変が生じ始めた。

「優勝してからメディアなどで自分のことを取り上げてくれることが増えて、ちょっと天狗になっていたところがありました。まだ、1回しか結果を出していないのに、周囲がすごく期待して、康幸ぐらい走れないといけないとか周囲がそう思っているんじゃないかとか、自分で勝手にそう思い込んでいたんです」

人に見られ、期待されることで過度のプレッシャーを感じるようになった。大学3年になると、そのことで心と体のバランスが崩れた。夏にはそのストレスなどで髪の毛をはじめ全身が脱毛してしまう。

それでも大学の授業は休むわけにはいかない。帽子をかぶって授業に出席するも、事情を知らない先生からは「帽子を脱ぎなさい」と注意された。

「そういう時は本当に嫌で、死ぬほど恥ずかしかった。事情を説明すればいいんですけど、なんか病気みたいな感じで哀れみの視線で見られるのが嫌だったんです。人と会うのが嫌になりましたし、部屋から出るのも練習と授業の時だけで、ずっと引きこもっていました。すごくキツかったですし、なんで自分だけこんな目に遭わないといけないのかって、その状況を受け入れるのにかなり時間がかかりましたね」

その間こんなに苦しむのなら、いっそのこと陸上を辞めてしまおうとは思わなかったのだろうか。

「その時、救いだったのは、まだ多少は走れていたんです」

ストレスやプレッシャーによる全身脱毛は約1年程度続き、尾方が再び箱根駅伝を走ることはなかった。チームは尾方が3年時に総合優勝を果たし、連覇を達成したが、4年時は4区で棄権となりシード権を失った。

「箱根は1回しか走れなかったですけど、その1回の走りがきっかけで中国電力に入れたので僕にとって箱根は良い思い出です。4年間のうち3年間は苦しみましたが、それが実業団での選手時代にすごく生きました。どん底まで落ちたので、これより下はないと思えて、競技に取り組めたのでそういう意味では大学生活はキツかったけど、箱根も含めて自分にとっては大きい4年間でした」

■尾方 剛(おがた・つよし)

1973年5月11日生まれ、広島県出身。熊野高3年時に1万メートルで当時の高校歴代3位の記録をマーク。山梨学院大2年時の箱根駅伝では10区で区間賞の走りを見せ、2度目の総合優勝に貢献した。その後は負傷などに苦しみ、中国電力入社後も低迷していたが復活。マラソンに挑戦し、2001年ベルリンマラソン4位を皮切りに国際大会で結果を残し始め、04年福岡国際マラソンで初優勝を果たす。05年世界陸上ヘルシンキ大会で銅メダル獲得。08年に念願の北京五輪出場を果たすも13位に終わった。12年の現役引退後は広島経済大陸上競技部の監督を務めるとともに、解説者としても活躍する。

(佐藤 俊 / Shun Sato)

佐藤 俊
1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)など大学駅伝をはじめとした陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。

佐藤 俊

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