そのカプチーノを最初に飲んだのは、ケープタウンで迎える、1日目の朝だった。

目の前にカプチーノが置かれたとき、一瞬、これはなんだろう……? と思った。
ラテアートでハートを作りたかった、ということはわかる。
でも、上手くハートを描けなかったのか、つぶれた桃のような形になっている。
この春、僕は南アフリカを巡る旅のラストに、港町ケープタウンを訪れていた。
そのホテルのレストランで、朝食のときに差し出されたのが、この不思議なカプチーノだったのだ。
淹れてくれたのは、まだ年若い、男性のウェイター兼バリスタだった。
彼が明るさを湛えた笑顔で、聞いてきたのだ。
「カプチーノは飲みますか?」
そうしてサーブされたのが、この奇妙なラテアートが施された、カプチーノだった。
しかし、飲んでみると、これがすごく美味しい。
甘すぎず、濃すぎず、絶妙に飲み心地の良い、朝にぴったりのカプチーノだった。
そうだ、ラテアートなんてものは、飲んでしまえば関係ないのだ。
僕が綺麗に飲み干すと、それに気づいた彼が近づいてきて、言った。
「カプチーノをもう1杯、いかがですか?」
せっかくなので、貰うことにした。
そして、しばらくして差し出されたカプチーノを見て、僕はびっくりした。

1杯目とは比べものにならないくらい、ラテアートのハートが美しくなっていたのだ。
まだ少しいびつさはあるけれど、そこが独創的な味わいを感じさせて、なかなか悪くない。
今回の2杯目は、ハート作りが上手くいったのかもしれない。
「かわいい……!」
僕が思わず叫ぶと、彼はどこかホッとしたような、嬉しそうな顔になった。
ケープタウンには、3泊の滞在だった。
だから、また明日と明後日、このカプチーノを飲めるのかもしれない。
このケープタウンで、毎朝のささやかな楽しみができた気がして、僕も嬉しかった。
*
2日目の朝は、ちょっと忙しかった。
この日、喜望峰へ行くバスツアーに参加するというのに、少し朝寝坊してしまったせいで、バスの出発時刻が迫っていたのだ。
僕はオレンジジュースを飲みながら、朝食を忙しなく食べていた。
すると、昨日カプチーノを淹れてくれた彼がテーブルに来て、言った。
「今日もカプチーノを飲みますか?」
僕はありがたく貰うことにした。
あまり時間の余裕はなかったけれど、あの美味しいカプチーノをまた飲みたかった。
それに、彼が今日はどんなハートを作ってくれるのか、それも見てみたかった。
もしかすると、今日はもっと美しいハートを描いてくれるかもしれない。
そんなことを思っていたら、意外に早く、目の前にカプチーノが差し出された。

どうやら、僕は少し期待しすぎてしまったらしく、今日のハートはちょっと退化してしまったようだった。
ハートには見えるけれど、全体的にゆがんでいて、どうにもパッとしない。
そのカプチーノに口をつけながら、あるいは……と思い至った。
僕が忙しそうに朝食を食べているのを見て、彼も急いでカプチーノを淹れてくれたのだろうか?
ハートの形はともあれ、この朝のカプチーノも、味わい深くて美味しかった。
飲み終える頃、感想を聞きに来た彼に、僕は言った。
「あなたの淹れるカプチーノが、僕は好きだと思う」
それを聞くと、彼は弾けるような笑顔になって、喜んだ。
お世辞ではなく、素直な気持ちだった。
美味しいだけでなく、彼の淹れるカプチーノは、不思議と心安らぐのだ。
自由で、気取らず、軽やかで、優しい……。
「ケープタウンには、いつまでいるのですか?」
彼に聞かれ、僕は答えた。
「明日の朝まで」
そのとき、ふっと、旅の終わりの寂しさに包まれていくのを感じた。
*
ケープタウン3日目、旅の最後の朝だった。
あとは空港へ向かい、飛行機に乗って、日本へと帰るだけだ。
その朝、僕は早めに起きると、ゆっくり朝食をとりながら、旅のあれこれをひとり思い出していた。
すると、彼がいつものように僕のところへ来て、言った。
「カプチーノを淹れましょうか?」
どこかしんみりした気持ちで、カプチーノの到着を待った。
そして、やがて目の前に置かれたカプチーノを見て、僕は思わず感激した。

そのカプチーノには、今までで1番美しいハートが描かれていたからだ。
繊細で、形も整っていて、飲むのがもったいないくらいに綺麗だった。
感嘆の声をあげると、彼も自信に溢れたような表情で喜んだ。
そんな美しいカプチーノを飲んでいると、まるで新しい波が打ち寄せるみたいに、清々しい気持ちに満たされていく自分を感じた。
昨日からずっと、旅が終わる寂しさに包まれていたはずなのに、不思議と、すごく前向きな気持ちになれている自分がいた。
……きっとこの街には、またいつか来ることができる。
温かいカプチーノを飲んでいるうちに、そんな予感がしてきたからかもしれない。
このカプチーノを飲むために、またケープタウンを訪れるのもいいかもしれないな、と思った。
もちろん、その頃にはもう彼はホテルにいないかもしれないし、同じカプチーノは飲めないかもしれない。
でも、たった1杯のカプチーノという、忘れられない思い出を作れたこと。
その小さな記憶が、僕を再びこの街へと、連れてきてくれそうな気もした。
ぼんやりと感慨に耽っていると、彼がテーブルに来て、言った。
「もう1杯、いかがですか?」
僕は答えた。
「最後のカプチーノをください」
そうして差し出されたのが、このカプチーノだった。

なんだか心が和むような、ホッとした気持ちになった。
さっきはあんなに繊細なハートを描けていたのに、今度はどこか豪快な、激しいようなハートが描かれている。
もしかしたら、最後の1杯ということで、万感の思いを込めてハートを作ってくれたのかもしれない。
いや、実際はそんなこともなく、ただその度にハートの形が変わってしまうだけなのかもしれない。
たぶん、僕が彼のカプチーノを好きなのも、完璧を求めることなく、ゆるさを素直に受け入れているような、その気楽さなのだ。
立ち去る彼の背中に、僕は声を掛けた。
「美味しいカプチーノをありがとう」
彼は振り返り、満面の笑顔を浮かべると、すぐに去っていった。
きっと彼にとって、僕はたくさんいる客の一人に過ぎないだろう。
でも、僕にとっての彼は、心惹かれるカプチーノを淹れてくれた「彼」として、ずっと忘れられない存在になっていく。
美しかったりゆがんでいたり、淹れる度に形が変わっていく、不思議なハートを描いてくれる「彼」として。
旅はいつでも、そうなのだ。
思いがけず、どうでもよくて、ほんの何気ない、そんなささやかな出会いが、まるで永遠の宝石のように、心の中で輝き続ける……。
最後のカプチーノを飲み干し、コーヒーカップをソーサーに置くと、かちゃりという音がした。
その瞬間、僕のケープタウンの旅が、静かに終わりを告げた気がした。
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旅行ライター。旅の“素敵”を伝えたい。ここではないどこかへ、ときどき旅立ちます。旅エッセイ『最果ての旅で、見た夢は。』も→https://www.amazon.co.jp/dp/B078FXJPFD お仕事のご依頼は hirotaka.journey@gmail.com まで。
手塚 大貴