「師匠の考え方は古いと思います」反発心を隠そうとしなかった増田康宏六段が目頭を拭った“師匠の言葉”

「師匠の考え方は古いと思います」反発心を隠そうとしなかった増田康宏六段が目頭を拭った“師匠の言葉”

  • 文春オンライン
  • 更新日:2022/01/15

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将棋界における師匠と弟子の関係性が注目を集めている。スポットライトが当たったのは、のちに将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞した『師弟~棋士たち 魂の伝承~』(野澤亘伸著/光文社)の存在が大きかっただろうか。

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現在、ABEMA将棋チャンネルでは「第1回ABEMA師弟トーナメント」が放送されている。そこで、同トーナメントにも出場している森下卓九段と増田康宏六段について、『師弟』から一部を抜粋して紹介する。

6歳の天才との衝撃の出会い

2007年、10月も中旬だというのに、季節外れの台風が朝から激しい雨を降らせていた。その日、棋士・森下卓は、東京・八王子市の将棋クラブを訪れる約束があった。昼前に道場の席主・八木下征男からは、「天候が悪いので日を改めましょうか」と連絡があったが、森下は予定通り夕刻に訪ねることを伝えた。

この数日前に森下の許に、八木下から手紙が送られてきていた。封の中には、八木下の丁寧な字で書かれた推薦状と将棋の3局分の棋譜が入っていた。子どもの指した将棋だった。

駅の改札に八木下が迎えにきていた。雨の中、駅前の通りを将棋クラブのあるビルまで歩く。午後5時に閉められた教室には母親と小学生の男の子が待っていた。互いに丁寧な礼を交わす。4年生にしてはすらりとして背が高い。眼鏡をかけた口数の少ない男の子だった。

少年の名前は増田康宏といった。森下は改めて彼を見つめた。

「この子が、あの将棋を指したのか」

送られてきた棋譜を見たときの衝撃は忘れられない。目の前にいる少年に、どれだけの可能性が秘められているのか。森下は胸が高鳴るのを抑え切れなかった。

八木下の道場を増田が初めて訪れたのは、2004年2月。まだ幼稚園に通う6歳の子どもだったが、道場四段の小学6年生にいきなり連勝してしまう。このとき増田は将棋のルールを覚えてまだ1年しか経っていなかった。

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森下卓九段(右)と増田康宏六段(左)

小学校に入学した増田は、秋から八王子将棋教室に定期的に通うようになる。初段からスタートし、ひと月後には三段、半年後には四段になった。幼稚園でルールを覚えてから、アマ四段になるまで2年しかかかっていない。八木下が将棋教室を始めて30年、それまでの昇段や大会優勝の最年少記録を次々と塗り替えていく。そして増田は9歳で小学生の全国大会倉敷王将戦・高学年の部で優勝する。八木下は言う。「あまりの強さに驚くしかなかった。私もたくさんの子どもを見てきましたし、プロになった子も何人もいます。しかし、これだけの才能を見せられたのは、羽生さん(善治九段)以来でした」。

「君は羽生さんを超えるんだよ」

八木下から森下に連絡があったのは久しぶりのことだった。住所がわからなかったため、手紙は連盟宛に届いた。弟子入りの依頼であることは予想がついたが、正直あまり乗り気ではなかった。森下はそれまで3人の弟子をとったことがあるが、いずれもプロになることはできなかった。10代のかけがえのない時間を将棋だけに賭けて、夢破れていった子たちを思うと、もう弟子を取るつもりはなかった。

同封された棋譜を見た。プロ棋士は文字で記された100手以上の将棋を、30秒足らずで頭の中の将棋盤で再生できる。森下の目が棋譜に釘づけになった。3局とも何度も見返した。

「これを小学4年生が指したというのか。信じられない」

それほどまでに、増田の将棋には非凡なものがあった。「すでに、プロの感覚を持っている」。森下はすぐに八木下に電話を入れると、自ら会いに行くことを告げた。

増田が棋士の養成機関である奨励会に入会すると、森下は自宅での研究会に呼び指導対局を重ねた。将棋界では伝統的に師が弟子に教えることは少ない。職人の世界のように“技は黙って盗む”という考え方がある。しかし、森下は自らの経験を弟子に伝えることを惜しまなかった。

研究会の日、昼食をともにしながら、将棋一本に打ち込まねばダメだと言い聞かせた。修行時代に気持ちが他のものに向くと“心に空洞”ができる。それは後からでは埋めることができない。トップ棋士になるためには、空洞は許されない。

森下は言った。「君は羽生さんを超えるんだよ」。増田は「はい」と頷いた。

天才が初めて当たった壁

増田は順調に昇級・昇段を重ね、14歳で三段リーグに入る。1期目にチャンスを迎え、史上5人目の中学生棋士誕生が期待されたが、リーグ最終日に敗れて四段昇段を逃した。

三段リーグで1期目の昇段を逃した後、増田は将棋に迷いが生じる。

「師匠や周りの人から期待されているのは感じていました。でもかなり不安はありました。入会から3年半で三段になれたときは、このまますぐに四段になれるのかと思ったのですが、最初よりも途中で成績が落ちてしまって、自分が弱くなっているんじゃないかと。将棋は負けが混んでくると、自分の指し手が信じられなくなるんです。こう指せば勝てるという手が見えているのに、それが指せなくなる。その頃は対局が近づいてくると何かに追いかけられているような夢をよく見ました」

天才が初めて当たった壁だった。

森下は増田が三段に上がると、一緒の研究会を終わりにした。「技術面で私が教えることはなくなりました。もっと強い人と指すべきだと思ったのです」。ただ、増田の勝負所での気持ちの弱さが気になった。

森下はこの頃、増田に記録係をやることを勧めた。

「将棋の勉強というだけでなく、記録係は集中力、忍耐力を養う特効薬なんです。長い対局は12時間以上かかります。ずっと正座して、盤から目を離さずにいるというのは、かなり辛い。それを奨励会時代にしっかりやっておけば、プロになってからどんな長時間の対局でも乗り切れる根性が身につくのです」

しかし、増田は一度も記録係を申し出ることはしなかった。

増田が森下の指導に従わなかったのは、ただ反発していたというわけではない。それまで経験したことのない壁に当たり、不安の中で自分なりに打開する道を探っていた。

「師匠にはよく記録係をやるように言われました。精神的に鍛えられるからやりなさいと。でも、どうして必要なのか、わからなかったのです。勉強という意味では、今は棋譜をデータで調べられますし、対局も中継で観ることができます。それに精神修行をしているよりも、目の前の対局に勝つために、研究する時間の方が欲しかった」

精神修行か技術習得か

確かに増田の意見は理にかなっている。一方で、森下が伝えたい精神論もわかる。技術の習得には、コンピュータを使った合理的な方法が有効だ。だが将棋を指すのは人間であり、体力や感情、思考力といった総合的な能力が求められる。「体で鍛えた将棋」という言葉があるが、“将棋ではなく勝負”という部分において、心身の鍛錬が大きいことを森下は伝えたかったのだろう。

ただ、才能と若さを持った増田には、今は精神的鍛錬よりも、技術的強さを求める気持ちの方が強い。

「記録係を断っていたので、師匠からは根性がないと思われていたようです。深浦康市九段(森下の弟弟子で、熱血漢の棋士)と比較して『増田に深浦の根性の10分の1でもあれば、タイトルを獲れる』と師匠が話しているのを、三段時代から人伝に聞いていたので、納得いかないものがありました。僕は読みの深さで勝負する自信があるので、時間の長い将棋は歓迎なんです。正直、記録係の件に関しては、師匠の考え方は古いと思います」

棋士は誰しも積み上げてきた自分の将棋への誇りがある。増田も身につけた技術はもちろん、将棋にかける思いも誰にも負けないつもりだ。師の発言は、弟子の発奮を促すつもりだったのだろう。しかし、若い増田のプライドは傷ついた。

「僕はずっと自分の考えを信じてやってきました。四段昇段は師匠よりも早かったですし、新人王戦も連覇しました。同じ年齢での勝ち星も自分の方が多いはずです。最近では師匠とお会いしても話すことはめっきり少なくなりました。言っても言うことを聞かないと思われているんじゃないでしょうか」

すべてを将棋のために賭けていると言えるのか

森下は言う。

「将棋ではまず才能というものがあります。そして覚えるのは、できるだけ早い方がいい。健康にも恵まれて、親御さんや周囲の方々の理解があって、良い指導者に恵まれる必要があります。私はそれらを全部含めて『運』だと思うんですね。人生の90%は『運』でできていると思っています。ただ、それだけでは持って生まれた才能は開花しない。そこに、本人の何が何でも勝ちたいという気持ちが不可欠なんです。自分から運命に働きかけられるのは、根性や執念なんです。増田には、頂点に立てるだけの才能があります。ただ、本当にすべてを将棋のために賭けていると言えるのか。心に空洞がなかったと言えるのか。そうでなければ、彼は5年前に今の藤井聡太になっていたはずです」

増田は中学生でのプロデビューは逃したが、16歳で四段昇段を果たした。新人王戦を連覇するなど期待通りの活躍を見せるが、順位戦C級2組では足踏みをする。迎えた3期目、最終日に勝てば昇級の一番に、増田優勢の局面で、ミスから自玉に詰み筋が生じた。しかし秒読みに追われた対戦相手が詰み筋を発見できずに投了。増田の昇級が決まった。森下は言う。

「勝負はまず実力があってですが、ツキというのも極めて重要なことだと思っています。昇級のかかった一番で、命拾いをした。これは増田の持って生まれた天運です」

息子には「そんな世界で生きていけるのか」

森下は心から愛した将棋を自分の子どもには教えなかった。息子・大地は幼少時から研究会で自宅に来る棋士の姿を見ていた。父たちが真剣に盤に向かう姿に憧れ「将棋を教えて欲しい」と言ったが、森下は頑なに拒んだ。

「お父さんは小さい頃に福岡から上京して、将棋一筋で生きてきた。本当に厳しかった。勝負の世界は常に勝ち負けしかない。そんな世界で生きていけるのか」

大地は父と違う俳優という道に進んだ。事務所に入るときに、母親は大学に進学することを条件にしたが、森下は口を挟まなかった。「将棋しかしてこなかったから、それ以外の人生の考え方がわからない」が理由だった。

森下は増田に自らが果たせなかった夢を見た。自分が師・花村から託された思いにあと一歩まで迫りながら、羽生善治という壁に阻まれてきた。

二人の師弟関係を間近で見てきた深浦康市九段は言う。

「森下さんは自分が培ってきたことをすべて増田君に伝えれば、羽生さんを超えられる存在になると思われたのかもしれません。ただ増田君は厳しく縛られるより、自分の考えでやっていく方向を選んだのだと思います」

森下の息子・大地から聞いた話を、最後に私は増田に伝えた。

「父が送られてきた手紙を見ながら、『すごい才能がある子だ。こんな子がいるのか』と興奮していたのを覚えています。自分より1歳上の増田さんに父が将棋の才能を認めているのを聞いても、僕には不思議と嫉妬心が湧かなかった。増田さんは特別な才能の人で、別世界の人のように感じていました」

増田はじっと聞いていた。視線をそらす。眼鏡を外し、そっと目頭を拭った。

写真=野澤亘伸

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森下卓九段と増田康宏六段の物語は、『師弟~棋士たち 魂の伝承~』で全文が読める。また、のちに将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞した同書には、計6組の師弟が登場する。

「そんなところに、佐藤天彦をやれるかよ…」“昭和最後の棋士”中田功が弟子に見ていた夢へ続く

(野澤 亘伸)

野澤 亘伸

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