火村英生に続く、異才の探偵。ミステリの名手が贈る心霊探偵小説! 有栖川有栖『濱地健三郎の呪える事件簿』「リモート怪異」試し読み#1

火村英生に続く、異才の探偵。ミステリの名手が贈る心霊探偵小説! 有栖川有栖『濱地健三郎の呪える事件簿』「リモート怪異」試し読み#1

  • カドブン
  • 更新日:2023/09/19
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残暑を吹き飛ばす「心霊の謎」、読んでいきませんか?
「怪と幽」で絶賛連載中の、有栖川有栖さんによる「濱地健三郎シリーズ」。その最新刊の『濱地健三郎の呪える事件簿』から期間限定で「リモート怪異」「呪わしい波」の2話を配信いたします!

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リモート怪異(前編)

とんでもないことになってきた。
テレビの画面を通して大規模なテロや地震・津波は目の当たりにしたが、二十五年近く生きてきて、こんな事態に直面したのは初めてだ。しかも、ただ目撃しただけではなく、わが身も巻き込まれてしまっている。
心霊現象を専門に扱う探偵事務所の昼下がり。志摩ユリエの嘆息を受けて濱地健三郎は──。
「わたしだって初めての経験だよ。厄介なことになった」
三十代前半なのか五十代に手が届いているかも判らない年齢不詳のボスは、窓際のデスクでコーヒーを飲みながら応えた。いつもながらの穏やかな口調で、時折、オールバックの髪を撫でつける。
彼にとっても初めての経験。それはそうだろう。スペイン風邪とやらが世界中で猛威をふるったのは第一次世界大戦の頃だというから、濱地が想像をはるかに超えて高齢だったとしても生まれているはずがない。
政府は四月七日に緊急事態宣言を出し東京都を含む七都府県に外出自粛を要請した。期間は一ヵ月ということだが、延長される可能性もある。その時点で国内の感染者は三千八百人超、死亡者八十人。医療体制が持続できるか懸念されだしていた。
「緊急事態宣言だなんて、戦争が始まったみたいですね。中国やヨーロッパでやっているロックダウン。都市封鎖でしたっけ? そんな威圧的な言葉も初耳です。疫病だなんて歴史の本の中だけの話だと思っていたのは迂闊でした」
ユリエは、ふだんは緊張の面持ちで依頼者が座るソファに腰掛けてマスクを取り、ボスにお付き合いしてコーヒーを飲んだ。ここに勤めるようになってコーヒーを口にする回数がめっきり多くなった。
本日の書類仕事はすべて片づき、このブレイクが終わったら退所するだけ。外出を自粛するようにとのお達しを政府が発したため、明日からは在宅勤務となる。探偵事務所のリモートワークがどういう形のものになるのか、うまくイメージできないのだが。
「新型のウイルスというのは、いつどこから出てくるか予測がつかない。人類は常に脅威にさらされているわけだが、そんなことを常に気にしていたら心安らかに生きていけないから、志摩君に落ち度はないよ。──それで、カミュの『ペスト』はどうだった?」
中国・武漢で発生し、COVID-19 と名付けられた新型コロナウイルス感染症が世界各国に広がりをみせるようになる中、アルベール・カミュの『ペスト』がベストセラーになっているというのを聞いて読みだしたことをボスに話していた。まさに昨夜読み終えたという絶妙のタイミングで感想を求められる。霊能力やら推理力が卓越しているだけでなく、相変わらず勘も鋭い。
「肺炎を引き起こす新型の感染症とペストは致死率が段違いだし、医学の水準がずっと低かった七十年以上前に書かれた小説ですけれど、街に伝染病が蔓延していく怖さはすごく伝わってきました。感染が広がる前、鼠の死骸が目立ちだすところなんか、パニック小説のオープニングみたいで」
いちいち濱地に報告していなかったが、致死性のウイルスのせいで人類が滅亡の危機に瀕する小松左京のSF『復活の日』も読んでいた。さすがに人類滅亡は小説の世界の出来事よねぇ、と思いながらページをめくったのだが、作中に〈たかがインフルエンザで〉という表現が繰り返し出てきたのには驚いた。今回のパンデミックが始まった当初、安心したい市民はもとより文化人の看板を掲げている訳知り顔の者の中にも「たかが風邪で騒ぎすぎ」という声があったことを思うと、一流の知性はやはり想像力の強靭さが違うな、と感心せずにはいられなかった。
「これから古典や歴史の本を読む時、疫病のことが出てきたら感じ方が変わると思います。昔の人は大変だったねぇ、と他人事じゃなくなりました」
「未知の伝染病が登場したら、薬がないのだから昔も今も同じだ。人間はいつの時代もウイルスの顔色を窺いながら危ない橋を渡っている」
「人類が克服した感染症って、天然痘だけなんですね。江戸時代で言う疱瘡。テレビで言ってました」
「どんな人間が生き延びるかはウイルスが決めている。われわれは目に視えないものに支配されているわけだ」
常人には視えないものを視られる探偵は静かに言った。彼の助手を務めているうちにユリエにもそんな特殊能力が具わるようになったが、まだまだボスの域にはほど遠い。
「あのぉ」と言ってから、少しためらう。「……色んなお店が休業に追い込まれて困っていますけれど、うちは大丈夫でしょうか?」
濱地は落ち着き払ったものだ。
「わが社のことなら心配は無用。こんな状況が一年も二年も続いたら倒れてしまうけれど、当面はやっていける。いや、一年ぐらいは平気かな。質の悪い感染症が広まっても、わたしの依頼人が絶えることはない」
「それは……まあ。コロナウイルスが流行っている間は幽霊も活動を自粛する、ってことはありませんものね。この事務所を訪ねにくくなっても、電話で依頼を受け付けることができるんだし」
心霊探偵のささやかな事務所は千客万来ではなかったが、コンスタントに仕事が舞い込み、場合によってはかなり高額の報酬を得ることもある。今年に入ってから大きな案件が二つあったので、現在の事務所には余裕がありそうだ。
「だから志摩君は安心して。調査にもあまり支障は出ないだろう。われわれが出向く先は、往々にして大勢の人で賑わったりしていない」
「それも……まあ。いざとなれば、先生から依頼人や調査対象の元へ足を運ぶ、ということですね? わたしも自宅を飛び出してお供します」
「必要があればね。それより、資料の整理とデータベース作成を頼んだよ。こんな機会でなければできないことだから」
ここでユリエがあらたまって頭を下げたので、濱地は「どうしたんだい?」と訝しげにする。
「資料の整理。データベース作成。先生がわざわざ作ってくれたお仕事ですよね。わたしを雇い止めにしないで済むように。ありがとうございます」
ボスはまたオールバックの髪を撫で上げ、曖昧に笑った。
「誤解があるようだ。それらの業務は不急のものではあるけれど不要じゃない。以前からまとめたいと思いながら果たせなかったんだ。きみの雇用を守るためにわざわざ作った用事ではないので、出来はしっかりチェックするよ」
そう聞いて、やっとユリエは破顔できた。濱地はさらに言う。
「調査に同行してもらう件だが、大いにあり得るな。むしろこんな状況下だからこそ、依頼は増えるかもしれない」
「だったらうちの事務所は安泰ですね。でも、依頼が減るどころか増えるだなんて、まさか疫病が悪い幽霊を呼び込むんですか?」
「いやいや、そうじゃない。ヨーロッパ各国の首脳や都知事が盛んに言っているだろう。ステイホーム。お家にいましょう、と。そのせいで家庭内暴力や児童虐待が増加するのではないか、と懸念する向きもある。わたしたちが扱う厄介事も、ステイホームの影響で顕在化することが予想されるんだ。在宅の時間が大幅に長くなることによって、これまで気に懸けていなかったものに住人の意識が向いたり、おとなしくしていた何かが環境の変化に反応して目覚めたり──とか」
「えっ。外に出られないのに、そんなことになったら怖すぎます」
「困るだろうね」
思ってもみないことだった。この緊急事態下で、そのような禍を案じている者は彼以外に一人もいないのではないか。もし、ただでさえ心細い時にそんなことが起き、恐怖に直面する人がいるのならば、微力ながら自分もぜひ役に立ちたい、と希わずにいられなかった。
「コーヒー、ごちそうさま。今日はもう帰ってもいいよ。忘れ物をしないように」
「はい。お先に失礼します」と言ってユリエはマスクをつける。
午後四時前に事務所を出て、古びたビルの二階の窓を見上げると、濱地の背中があった。依頼人から報酬としてもらったエミール・ガレのランプスタンドを黙々と布で拭いているようだ。名残りを惜しむわけではないが、しばらく眺めていた。
やがて歩きだし、裏通りから甲州街道に出ると、道行く人の数が数日前と比べて明らかに減っている。新宿駅南口に向かう途中ですれ違う人々は、ほとんど皆がマスク姿だ。街全体が表情を曇らせ、暗色は昨日よりさらに深まっていた。

「どう?」
パソコンに向かって、ユリエはまず問い掛ける。画面の中で進藤叡二はにっこり笑った。
「もう元気ですよ。心配させて、すみませんでした」
漫画研究会で一緒だった大学時代のまま、彼は〈です・ます調〉で応える。現在は恋人の一歩手前ぐらいの親密さで付き合っているというのに、一つ年下だからといって律儀すぎるが、ユリエがことさら先輩風を吹かしているでもなし、彼の性格からくるものだから仕方がない。
「やっぱり新型コロナじゃなくて、ただの風邪だったのね。ああ、よかった」ひとまず胸を撫で下ろす。「時期が時期だけに、そりゃ心配だった。二十代前半だったら重症化しにくいってニュースじゃ言ってるけれど、例外もあるから」
「新型コロナは鼻水が出ないと聞いていたので、当初から違うと思ってました」いったん見切れて、洟をかむ音がする。「失礼しました。まだティッシュの箱が手元から離せません」
「お大事にね」
リモートワークを始めるのをきっかけに、通信アプリを使いだした。濱地とは日に一度は画面を通じてやりとりをしているが、外出が法律で全面禁止になったわけでもなく、叡二とは控えめに会えると思っていた。それなのに彼が風邪を引いたせいで、画面越しに話すことになってしまうとは。
叡二とは何度かドライブをしたことがあるが、会って食事をするばかりで、互いの家に行き来したりはしていない。彼がどんな部屋に住んでいるのか、今回のことで初めて知った。
といっても、叡二の背後に映っているのはワンルームマンションの白っぽい壁と本棚の一部だけ。スチール製の棚に並んでいる雑誌類にはまるで統一感というものがないから、ライター仕事で書いた記事の掲載誌だろう。漫画原作者として名を成すことを志している彼だが、今は雌伏の時を送っている。
「志摩さんの方はどうですか? 慣れない在宅勤務」
「やっぱり体が楽ね、通勤がないって。精神的にも余裕ができる。ただ、自分の部屋にいると誘惑が多くて、だらけそうになるから気をつけないと」
「だらけたりしないでしょう。志摩さんは根が真面目だから、がんばりすぎないようにしてくださいよ。フリーランスのライターからの忠告です」
随分と人間性を高く評価されているようで面映ゆい。外出がしにくくなったせいか、このところ読書欲が異様に高まり弱っているというのに。伝染病に関するものを続けて読んだから、今はネット書店で取り寄せたミステリーを五冊ばかり枕元に積み上げている。
「わたしは濱地先生のおかげで失職しないで済んでいるけれど、フリーランスは大変じゃないの?」
気になっていることを訊いた。彼が困窮していても助けの手を差し伸べるのは難しいのだが。
「東京オリンピックに合わせて出るはずだったムック本の企画がポシャったり、影響はあります」
「去年のクリスマスもその取材で働いてたのに、残念だね」
叡二は気落ちしたふうでもなく、さばさばした顔だ。
「なけなしの貯えを取り崩したりもしていますけれど、バンドマンや役者さんみたいに仕事がゼロになったりはしていません。去年の後半に働いた分の原稿料が今になって振り込まれたりしているし。とはいえ暇は増えたから、この機会を逃さず腰を据えていい漫画原作を書くつもりです」
表情が引き締まったよ、きみこそ真面目だねぇ、とユリエは思った。
「先生から『現場に出動だ』とかいう連絡はないんですか?」
叡二は、漫画原作の取材のために濱地の探偵談を聞いたことがあるし、ユリエが引き込んでゴーストハントを手伝ったこともある。そのせいもあって心霊探偵を「先生」と呼ぶ癖がついていた。
「まだない。昨日は一件だけ電話で相談があったんだけど、てきぱきと自分で処理したんだって。午前中のビデオ通話でそう言ってた」
ボスはいつものデスクに向かい、いつものように英国スーツに身を包み、濃紺のネクタイを締めていた。お気に入りのランプスタンドが画面の端に入るように調整していたのが微笑ましかった。
「速攻で処理ですか。さすがだな」
「四十分ぐらい話しただけで一件落着。電話だけで簡単に片づいたのでお代はもらわなかったって」
「どんな相談だったんですか?」
「深刻な案件でもなかったから、しゃべってもいいか」
依頼人は五十代の女性。仮にKさんとしておこう。知人から濱地のことを聞いたことがあり、すがる思いで電話をかけたのだという。Kさんは、緊急事態宣言下であることに怯えていた。
「進藤君、口裂け女って知ってるよね?」
「僕らが生まれるずっと前に、子供の間で流行った有名な都市伝説でしょ。学校帰りにマスクをした女が近寄ってきて、『わたし、きれい?』と尋ねてくる。何度かホラー映画にもなってますよね」
「それ。『はい』と答えたらマスクをはずして、耳まで裂けた口を開いて『これでも?』と迫ってくる」
もう四十年ほども前の騒動だから、当時のKさんは小学生だった。無性に恐ろしくて、放課後はびくびくしながら下校した。怖い噂話はほどなく沈静化し、彼女も中学生になって日暮れの道を恐れることもなくなったのだが──それがここにきて突然ぶり返した。
「五十歳を過ぎたいい大人が、昔の恐怖を思い出したんだって。ほら、最近はみんなマスクをして歩いているじゃない。そんな風景が引き金になったんだろうな。口裂け女にばったり出くわしそうで怖い、どうすればいいか、と相談してきたの」
叡二は「はあ」と脱力した表情をしてみせる。
「それって心霊探偵のところに持ち込む相談ですかね。心底怖いのなら、心療内科とかでカウンセリングを受けるのが先のような……」
「先生もそう思いながら話に耳を傾けて、相手にたっぷりしゃべらせてから応えたそうよ。そもそも口裂け女とは何か、について。──ちょっと待って。面白かったからメモをしたの」
走り書きしたメモを参照しながら、濱地のカウンセリングを再現する。
「口裂け女の都市伝説は一九七八年に岐阜県で発生したと言われていて、翌年の春には日本中を騒がせ、夏頃からフェイドアウトしていったみたい。マスクをした女が『わたし、きれい?』と訊いてきて、『はい』と答えたらマスクをはずして『これでも?』だし、『いいえ』と答えても駄目。鋏や刃物で口を切り裂かれたり、殺されたり、食べられたりしてアウト。逃げたらものすごい速さで追ってくる。季節によっては夕暮れ刻に下校しなくちゃいけない子供にしたら、たまらないね。口が裂けている理由、知ってる? 一説によると整形手術に失敗したから。そんなことが理由でダークサイドに堕ちたとは知らなかった。陰惨で嫌な感じ」
「そういうものって、広まっていく過程で色んなバリエーションが生まれるんでしょう? 口裂け女は三姉妹だっていうパターンをオカルト好きの人から聞いたことがありますよ」
「三人とも手術に失敗したとか、そのうちの末っ子一人が町をうろついているんだとか、バリエーションはいっぱいあるのよね。三という数や数字が意味を持つのは物語によくあることだけど、地名に三がつく場所に出没するとも言われたそうよ。もし本当だったら、わたしが住んでるの三軒茶屋だから、やばいって」
マスクをしているという基本のスタイルにも様々な要素が加えられた。赤いベレー帽をかぶっているだの、白いパンタロンを穿いているだの、赤いスポーツカーで現われるだの。
「口裂け女に質問されたら、どう答えても助からないんですか?」
「美人でも不美人でもない『普通』とか『まあまあ』って返事ならセーフ。このへんは、いかにも子供の発想って感じかな。襲ってきたら、『ポマード、ポマード、ポマード』とか『大蒜、大蒜、大蒜』って三回唱えると退散するとかね。あっ、鼈甲飴をあげるという防御法もあった。どれも意味不明」
インターネットがなかった時代のこと。岐阜県で生まれたこの怪談は、歩くぐらいの速さで日本中に伝播していく。子供たちの間の騒動はやがて社会問題にまで発展し、マスコミも大きく取り上げた。そのせいで騒ぎはなお盛り上がったのだろうが、噂話には寿命があり、テレビに流れ始めて少ししたところでピークに達したとも言える。
一九七九年六月には、兵庫県姫路市で口裂け女のメイクをして出刃包丁を持って歩いていた女が逮捕されるという珍事件も起きていた。知人を驚かせるための悪戯が警察沙汰になってしまったのだ。
口裂け女にまつわる雑多な情報の羅列を、画面の中の叡二は興味深そうに聴いていた。ユリエの話が一段落したところで──。
「それで、濱地先生はどうやって依頼人の不安を取り除いてあげたんですか?」
「いないものについて、いないことを証明するのは難しいよね。Kさんだって、半ば自分で呆れながら怯えているわけだし。先生は、口裂け女について『ありましたねぇ、そんなことが』と話を合わせてあげたの。四十年前を懐かしむように」
「……濱地先生、いくつでした?」
「前から言っているとおり、それは謎。先生本人によると、電話で顔が見えないのをいいことに依頼人と同世代のふりをした、と」
この「ふり」という本人の弁が怪しい。実際に幼少のみぎりに口裂け女を恐れる体験をしていないとも言い切れないのだ。
「どんな感じで話したのか、再現してみてくれた。ほお、と溜め息を交えながら、『わたしも臆病な方でしたから、必ず同じ方角に帰るクラスメイトと帰宅しました。マスクをした女の人を見たら、なりふり構わず走って逃げたなぁ』という調子。噓八百ということなんだけど、先生は感心するほどそれらしく話してた」
「志摩さんも上手ですよ」
「全然、あんなものじゃない。わたし、思わず『先生は俳優をしていたことがあるんですか?』と訊いてしまったもん。昔の映画スターっぽい雰囲気があるなぁ、と前から思っていたせいもあって」
「雰囲気あるある。──答えてくれました?」
「にやにやしながら『どうだろうね』と、はぐらかされた。年齢、経歴、プライバシー全般は謎のまま。ガードが堅い」
濱地がそんなふうに話すものだから、Kさんもだんだんリラックスしていき、口裂け女に怯えた日が遠い記憶へと押し戻されていったという。さらに探偵は、かの都市伝説についてそれらしい論評を並べたそうだ。
「『口裂け女を追い払うのに大蒜を連呼したのは、子供にもお馴染みの吸血鬼撃退法からのいただきでしょうね。ポマードについては、こんな説明をした人がいます。子供が恐怖の対象とした口裂け女は、怒ると怖いお母さんが象徴化したもの。お母さんが唯一怖がるのはお父さんだから、その象徴であるポマードを恐れた。しかし、家庭内における父親の権威なんてものは一九七〇年代にはとうに失墜していたはずで、この説はいただけません』なんてね。評論家ぶってそんなことを言われたら、そりゃ恐怖も醒めるでしょう」
「つまり、先生は……雑談の相手をしてあげることで依頼人の悩みを解決してあげた、ということですか」叡二は最後に変な声を出す。「ふあ」
「真剣な依頼を雑談に変えてしまうことで解決した、と言うべきかな。恐怖の物語を、あなたとわたし共通の想い出話に変換してから、わざとチープな論評を付け足して怖さを抜いてしまう。姫路で起きた悪戯騒ぎについても話して、ワイドショーのコメンテイターっぽく適当にしゃべるわけよ。『子供がきゃっきゃと怖がっていた物語に大人が首を突っ込んできて、テレビや新聞が商売のネタにし、挙句に警察に捕まるという情けない大人まで出てしまう。そこまでいった時点で都市伝説は勢いを失い、擦り切れて、ブームが終焉を迎えたわけですよ』という具合に」
「なるほど。通俗的な評論っぽくまとめられたら怖くも何ともない」
「でしょ? そんなふうに恐怖を擦り切れさせる手もあるのか、と勉強になった。『とっさによくそんなスマートな対応ができますね』と言ったら、先生は『とても楽だったよ』と笑ってた。楽だったのだとしても、問題を解決する方法を編み出して依頼人を安心させてあげたんだから、いくらかお金をもらってもよさそうなものなのに、その点に関しては欲がないのよね。趣味や道楽で探偵事務所を開いているわけでもないのに」
非難するつもりはないが、少しもったいない気もする。無欲であるということは、濱地探偵事務所の経営状態には余裕があるのだろう、と解釈することにした。そうであればユリエにとっても喜ばしい。
通話が長くなって、叡二を疲れさせているかもしれない。まだ話し足りない気もしたが、このあたりで切り上げるのがよさそうだ。
「じゃあ、もう元気そうだけれど養生してね。しっかり睡眠を取って」
「ありがとうございます。マスクやアルコール消毒液はしっかり確保してあるそうですけれど、志摩さんも気をつけて」
またおいしいものを食べに行こうね、きれいな景色も見に行きたいね、と言って終わりにした。

(つづく)

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作品紹介

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濱地健三郎の呪える事件簿
著者 :有栖川有栖
発売日:2022年09月30日

江神二郎、火村英生に続く、異才の探偵。大人気心霊探偵シリーズ最新刊!
探偵・濱地健三郎には鋭い推理力だけでなく、幽霊を視る能力がある。彼の事務所には、奇妙な現象に悩む依頼人のみならず、警視庁捜査一課の刑事も秘かに足を運ぶほどだ。リモート飲み会で現れた、他の人には視えない「小さな手」の正体。廃屋で手招きする「頭と手首のない霊」に隠された真実。歴史家志望の美男子を襲った心霊は、古い邸宅のどこに巣食っていたのか。濱地と助手のコンビが、6つの驚くべき謎を解き明かしていく――。

カドブン編集部

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