59年前、ミスター長嶋に憧れ、プロ野球に電撃入団した韓国人がいた

59年前、ミスター長嶋に憧れ、プロ野球に電撃入団した韓国人がいた

  • Sportiva
  • 更新日:2021/02/22

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第15回 白仁天・前編(第1回から読む>>)

令和となったいま、知る人も次第に少なくなっていく「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。バルボンさん(第6回)以来の外国人選手として、白仁天(はく じんてん、ペク・インチョン)さんを取り上げたい。

白仁天が入団した「暴れん坊球団」東映のコワモテな選手たち

"暴れん坊軍団"の東映(現・日本ハム)をはじめパ・リーグ各球団で活躍した強打者は、のちに韓国プロ野球界でも大きな功績を残した。野球選手の入団ルールどころか、まだ日韓間の国交正常化すら果たされていなかった時代にあって、パイオニアはどのように道を切り拓いていったのか──。

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1967年、白仁天(背番号7)は逆転サヨナラ3ランのはずが、喜びのあまり走者を追い越してアウト、同点止まりでガックリ(写真=共同通信)

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白仁天さんに会いに行ったのは2009年4月。日本と韓国が激しい戦いを繰り広げた第2回WBC閉幕後、日韓双方のプロ野球で活躍した白さんに取材する機会を得た。韓国出身で1962年に来日して東映に入団し、日拓、日本ハム、太平洋クラブ(現・西武)、ロッテ、近鉄で実働計19年間、母国ではMBC(現・LG)、三美で計3年間、捕手・外野手としてプレーした野球人だ。

取材の準備として、一冊の本を読んでいた。2006年に刊行された『韓国野球の源流 玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス』(大島裕史著/新幹社)。韓国の野球史を綴(つづ)った長編ノンフィクションで、冒頭、06年WBCにおける韓国のベスト4進出は、〈韓国に野球が伝わって一〇一年目になし得た快挙であった〉とある。

すなわち、朝鮮半島に野球が伝来したのはその101年前の1905年。5年後には日韓併合が行なわれ、日本の植民地支配を受けたなか、野球でも日本が影響力を強めていく。のちに終戦を迎え、解放後の南北分断から朝鮮戦争、65年の日韓国交正常化を経て現在に至るまで、韓国野球がどのように発展してきたか、詳細かつ克明に描かれている。

同書によると、韓国野球の発展には、1956年に始まる〈在日僑胞(きょうほう)学生野球団〉の母国訪問が欠かせなかった。この野球団は、夏の甲子園大会に出場できなかった在日韓国人の高校生を集めて結成され、祖国の高校、単独もしくは選抜チームと試合を行なう。

58年の野球団には、同年に東映入りする張本勲も参加して活躍。張勲という韓国名を持つ張本は祖国でも有名になり、野球少年たちのあこがれの存在となった。

訪問試合では〈在日〉チームが圧倒的な強さを発揮し続けた。そのため、韓国の高校球児にとってはこの試合に勝つことが目標となり、野球レベルの向上につながっていく。そういうなか、1950年代末から60年代にかけて、韓国の高校球界に出現した一人のスーパースターがペク・インチョン=白仁天だった──。

こうした球史に関して、僕はほとんど何も知らずにいたのだが、同書を読んでひとつ考えたことがある。そもそも、白さんはなぜ、日本のプロ野球を目指したのだろうか。

当時の韓国では実業団の野球もレベルが上がり、人気も高まっていた。背景には実力ある在日韓国人選手の入団があり、祖国でプレーする選手が増えたことが、60年代の韓国野球の急成長へとつながったという。とすれば、チームを強化する過程では当然、国内のスーパースターを獲りたかったはず。高校から実業団へ、という進路も自然な流れでは、と推察できる。

しかし、白さん自身は、母国の野球が発展していく流れに逆らうようにして、解放後、初めて日本のプロ野球でプレーした韓国出身の韓国人選手となった。一体、原点には何があって、ご本人にはどんな思いがあったのか。

取材の場所に指定されたのは、宿泊先の東京ドームホテル。白さんは韓国のテレビ局の解説者として、巨人対広島の開幕カードに合わせて来日していた。というのも、同テレビ局は、イ・スンヨプの巨人入団以降、ホームゲームを独占放送してきた。そのイ・スンヨプは95年の三星時代、当時の監督だった白さんに才能を見出され、韓国プロ野球を代表するスターになった。

いわば、白さんは今も教え子を見守っていることになる。形としては、松井秀喜が所属するヤンキース戦中継で、巨人時代の監督の長嶋茂雄が解説するようなものか。デーゲームに合わせて球場入りする前の午前9時、30階の一室を訪ねると、白さんは笑顔で右手を差し出してくれた。反射的に交わした握手はあまり力強くなく、温かく、微(かす)かに残っていた緊張も解ける。

名刺を交換して、あらためて白さんに面と向かうと、背丈は身長172センチの僕と同じぐらいだが、薄手のハイネックのセーターに包まれた上半身は肩周りからがっしりとしている。つやつやとして張りのある肌は66歳(当時)という年齢を感じせず、細い目の下、頬骨から厚みのある顎(あご)にかけて引き締まった容貌は精悍そのものだった。

眼下に白いドームが見える窓際、ソファに深く腰かける白さんと向き合った。ガラス製の丸テーブルの上、ティーバッグの緑茶を自ら供してくれていた。細やかな気配りに恐縮しつつ、僕はまず野球人生の原点を尋ねた。

「本格的に野球始めたのは高校からですけど、最初、僕が日本のプロ野球に興味を持ったのは中学2年の頃です。『ベースボール・マガジン』とか『野球界』とか、本で長嶋さんの写真見てね。『うわー、これ、素晴らしいね。この人すごいね』言うて」

テーブルに置かれた雑誌を手に取り、当時の様子を再現してくれている。声はしゃがれていて、日本語を話す外国人特有の抑揚も感じられるが、口調は関西弁そのもの。62年の東映入団当時、周りに大阪出身の選手が多かったためだという。

「それで『俺は一回、この人と一緒に野球やってみよう。やれたらどんなに幸せだろう』って、ポッと言うたんです。そしたら隣にいた先輩からポーンと頭を殴られて、『馬鹿じゃないか、こいつ』言われた。で、『それはやってみないとわからんじゃないか』って、ちょっと食ってかかったら、『馬鹿言え』ってまたボロクソに言われました。はっはっは」

中学生にして、長嶋の写真を見てあこがれを抱くのみならず、一緒にプレーする将来の自分を想像する。これはひとつの才能ではなかろうか。そして高校では当初、投手だった白さんだが、バッテリーを組んだ捕手に問題があったという。

「投げたら、キャッチャーが試合であんまり捕れんかった。頭きて、『じゃあ、俺がやるわ』って。それからキャッチャーになったんです。捕れんかったのは、僕の球が速かったからなのかどうか、わかりません。ただ、高校では2年のとき、周りの選手よりはいい形で力を出せるようになった。自分が韓国ナンバーワンになってみようと思って、日本で野球やることを目標に一生懸命練習しました」

スーパースターと言われた所以(ゆえん)が垣間見える。実際、白さんが所属したソウルの京東高はその年に全国優勝を果たす。3年生になった1960年には3つの全国大会で優勝したなか、白さんはずば抜けた長打力を見せつけた。

さらに、同年の在日僑胞学生野球団との試合では、一度目の対戦で3対3と引き分けると、最終戦となった二度目の試合では白さんが初回に2ランを放つなど大活躍し、4対2で勝利。それまで13勝2分だった在日チームに、初めて黒星を付けたのだった。

「在日僑胞のチームは強くて、まず勝てないんですよ。それがあの年はウチが引き分けて、お客さんたちが『もう1回やろう。やってくれ』言うて、やったんです。そしたらもう、月曜で試合は昼過ぎの1時からやのに、11時には球場が満タンですわ。それでたまたま勝ったら、今度、こんなに強いチームがおるんなら日本に呼ぶ、いうことになったんですよ」

白さんによれば、京東高を日本に招くために尽力したのは、当時の高野連副会長の佐伯達夫。反日主義者の韓国初代大統領・李承晩の政権下では不可能なことだったが、佐伯は積極的に活動した。そのなかで60年4月には李政権が崩壊し、日韓の関係が徐々に変化していく途上、さまざまな問題も解消されて、11月、日本遠征が実現する。

「熊本の鎮西、鹿児島実業、宮崎の大淀、山口の下関、桜ケ丘、兵庫の姫路南、京都の平安。甲子園に出た高校もあったけど、7試合やって、ウチが2つ勝って2つ負けて、引き分けが3つ。そのあと東京に行ったら、『じゃあ、もう1回、最後に最終戦やる』いうことになって、相手は日大二高だったんです」

東京での試合は予定外で、急きょ行なわれたという。2勝2敗3分──、つまりトータルの勝敗は五分五分だから、ここで改めて決着をつけよう、となったと想像できる。「もう1回」というところは、韓国で在日チームと戦ったときと共通している。

「場所は神宮球場でした。そのとき、ウチが9対2で勝ったんです。たまたま僕はその試合で3ランホームランを打って、5打数4安打、7打点だったかな。ものすごく調子がよかったんですね」

白さんはこの遠征で3本塁打を放ち、強打に強肩、俊足の捕手として日本のアマ球界、プロからも注目され、各チームが獲得に乗り出した。南海(現・ソフトバンク)打線の中軸を担う捕手=野村克也を引き合いに出して、「野村プラス足」と評したマスコミもあった。ゆえに事実上、白さん自身の目標に近づいたことになる。そのときの心境を尋ねようとしたが、話は間断なく続いた。

「本当は、僕は明治大学に行く予定だったんです。『韓国にこういう選手がおる』と聞いた監督の島岡吉郎さんがウチの試合に付いて回ってたんですね。で、帰るとき、島岡さんに呼ばれて『明治に来なさい。5年は保証する』と。『1年間は言葉を勉強して、野球やって、4年間で卒業して、そのあとは好きなところに行きなさい』と、そういう約束をして、留学のための書類を送ってもらって」

白さんは韓国の大学へ行く予定だったが、留学を希望して入学試験を受けなかった。しかし、当時は兵役義務を終えなければ長期にわたって海外に出ることは難しく、日韓の国交が結ばれていない時代。現実は予定どおりには進まない。

「僕はそのとき、パスポートとかじゃなくて、留学手続きの書類があれば日本に行けると思ったわけ。だから、試験を受けなかったことも、留学のことも親に内緒にしとったけど、結局、それがバレてしまって。『日本に行くんだ』言うたら、親と兄貴にね、『おまえは馬鹿じゃないか。行けっこないんだから』と。

中学生のとき、『日本のプロ野球に行くんだ、長嶋さんと一緒に野球やるんだ』言うたのとまったく同じですねえ、えっへっへ。でも、日本と韓国がまだあんまりうまくいってない時期だったし、とっても無理だったんです。結局、大学も行かずに、日本に行くのはあきらめて。1年、浪人して勉強して、大学行って、それで野球やめよう、と思って」

白さんは体勢を入れ替えて足を組み、窓の外、ドームのほうに視線を注ぐとおもむろに言った。

「僕ね、スピードスケートの選手だったんですよ。高校のとき、全国大会で優勝して、軽井沢での世界選手権の代表にも選抜されて。僕がキャッチャーである程度、成功した、いうのは、スケートやって下半身が強いから、スローイングもよかったんですね。そういうことで、スケートいうのは野球の面で非常にプラスになったんです」

スキーで足腰が鍛えられた、という野球人の話は聞いたことがある。でも、スケートは初めて聞いた話。まして、白さんはスケート以外にサッカー、陸上競技の選手でもあったそうだが、何か「スポーツ万能」という言葉を超えるものを感じる。

「それで、スケートで世界大会に出て、スポーツはやめよう、と決心して。野球も、まだ国際試合、アジア大会とか出てないから、それに一回は出て、やめよう。そしたら悔いは残らんから、と自分なりに計画したんです」

目標の「日本」を断念せざるを得なくなり、野球のみならずスポーツそのものをやめることまで考えた。それほどまでに「日本」への強い思いがあったとは......。ただ、その後の白さんは実業団の韓国農業銀行で野球を続け、第4回アジア野球選手権大会の韓国代表に選ばれて出場。これが結果的に、目標達成の契機となっていく。大会は1962年1月、台湾の台北で開催された。

「台湾はね、1月は台風並みの強風が吹くんです。その日、フィリピンと試合やったときも、レフトからホームに強い風が吹いてた。レフトフライと思った打球がセカンドまでくるんですよ。そうしたら、僕が打席に入ったとき、20秒ぐらい、ピタッと風が止まって。あれは今も不思議でしょうがないですよ。ダーンと打ったらヒュッと止まって、ポーンとレフトに入った」

この大会、唯一の本塁打だった。さらに日本との2試合では0対2、1対2と惜敗するも、白さんはエースの佐々木吉郎(きちろう)から2本の二塁打を放つ。佐々木は当時の社会人を代表する速球投手で、同年に大洋(現・DeNA)に入団。66年には完全試合を達成している。

「佐々木から打った、いうことで日本のマスコミは『これはすごい』と。それで僕だけがホームラン打ったことで特別賞もらって、これでもう野球はいい、と思ってたんですけど、そのあと日本に行ったんですよ。あの当時は台湾から韓国に直行する飛行機がなくて、東京に寄って羽田から帰ったんですね」

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身振りをまじえて東映入りの経緯を語ってくれた、取材当時の白さん

東京に立ち寄った韓国選手団は、帝国ホテルでの歓迎夕食会に出席した。これは、前年に韓国を訪問した社会人チーム、新三菱重工が催したものだったが、このとき、白さんは一人で選手団を抜け出すと、東映球団と接触して仮契約を結ぶ。

東映は白さんを"第二の張本"と位置づけ、京東高の来日当時からマークして獲得を目指していた。対して白さんは、球団と接触してすぐ「入りたい」と伝えていたという。それにしても、かなりの急展開で、一気に日本のプロ野球入りが近づいたわけだ。

(後編につづく>>)

高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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