渋沢栄一が見抜いた「最後まで首相になれなかった元老」井上馨の器量

渋沢栄一が見抜いた「最後まで首相になれなかった元老」井上馨の器量

  • 日刊大衆
  • 更新日:2021/04/08
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大河ドラマ『青天を衝け』で渋沢栄一を演じる吉沢亮

2月から放送がスタートしたNHK大河ドラマ青天を衝け』の主人公で、“日本資本主義の父”とも称される渋沢栄一。彼が大蔵省時代に仕えた上司で、〈事々物々を悲観すると共に、また他人の過失を責めるに酷なるもの〉(『経営論語』)と評した井上馨は、同じ長州藩出身で明治の元老だった伊藤博文や山県有朋とは対照的に、最後まで首相の座に就くことはなかった。渋沢が評した通り、ネガティブで人の失敗を許すことができない完璧主義な性格が災いしたのだろうか――。

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井上は万延元年(1860)、藩主から小姓役として聞多の名を賜り、足軽出身の伊藤よりも藩内における地位は高かったものの、二人は身分を超えて生涯の友となった。伊藤は元来、ポジティブな性格で、正反対の井上と気が合ったのかもしれない。

そんな彼は若かりし頃、この時代のムーブメントだった攘夷熱に煽られ、文久二年(1862)に伊藤や高杉晋作と英国公使館を襲撃。翌年に長州ファイブの一人として秘かにイギリスに渡ったことで、攘夷の愚かさに気づいて開国の必要を悟った。

こうした中、さらにこの翌年、長州藩が下関で外国船を砲撃したことから急いで帰国し、イギリス公使パークスらと調停に奔走。その後、高杉の藩政クーデターに参加し、討幕に備えて長崎で武器や船の購入などに当たった。

彼はこうして明治維新の実現に尽力し、新政府で参与職を経て大蔵省造幣頭となり、明治四年(1871)には大蔵大輔として財政の舵取りを任されるようになる。当時の部下に渋沢がいた。

その渋沢は前述のように井上をさも、難しい上司だったと評し、実際、非常に怒りっぽかった彼が部下の失敗にしばしば雷を落とした反面、自身は不思議とそうした目に遭わず、避雷針とのあだ名がついたというエピソードも残される。

むろん、渋沢がそれだけ井上から信頼されていたためだろうが、彼は退官後、第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立。

井上もまた、のちの三井物産の設立などに関わったあと、官界に復帰し、明治一二年(1879)に外務卿となり、同一八年(1885)の内閣制度発足で第一次伊藤内閣が誕生すると、外務大臣に就任した。井上はこうして大臣を退くまで八年間、明治新政府における外交のトップとして条約の改正問題などに奔走。

モダンな洋館の鹿鳴館(東京都千代田区)の開設を提唱し、外国人を招待して華やかな舞踏会が催されたのもこの頃で、黒田清隆(薩摩閥)内閣が発足して大日本帝国憲法が発布されると、農商務大臣として入閣した。こうした中、第一次山県有朋内閣、第一次松方正義(薩摩閥)内閣と続くと、閣外で政権運営に口出しする元老を当時のマスコミは黒幕と呼ぶようになり、井上もその一人に挙げられたという。

実際、松方内閣は、こうした黒幕の協力を得ることができずに倒れ、井上は新たに組閣された第二次伊藤内閣で内務大臣を務めると、彼が馬車の事故で負傷して療養中、首相代理に就任。

だが、この臨時政権は衆議院の予算修正案に応じる姿勢を見せなかったことから議会(民権派の議員ら)と対立を深め、井上は伊藤に「自分には才能がなく、首相代理の任を全うすることができない」という手紙を書いた。

こうした中、伊藤が復帰した翌年、日本は日清戦争に勝利し、その後に発足した第二次松方内閣が退陣を余儀なくされた際に一時、井上が首相候補に急浮上。旧帝国憲法下では天皇に首相の任命権があったため、その侍従長に松方内閣の逓信大臣で長州出身だった野村靖が、「伊藤と山県は首相を経験し、外交経済問題で得失や批判を免れませんが、その意味では未経験の井上伯こそ適任ではないでしょうか」と働き掛けたためだ。

だが、結局は実現することなく、伊藤が再々登板して井上は大蔵大臣に就き、明治三三年(1900)一〇月一九日には第四次伊藤内閣が発足。増税案を巡り議会と対立したことで伊藤は翌年五月二日、辞表を提出し、これは彼の政略だったといわれる。

■首相の器にないことを自ら悟っていた可能性

伊藤は首相を辞任したうえで、他に適任がいないというコンセンサスを元老から取りつけて返り咲く魂胆だったというのだ。

だが、明治天皇は五月四日、公家出身の西園寺公望枢密院議長を臨時首相に任命。山県、松方、井上、西郷従道(隆盛の弟)の元老四人に次期首相について諮問し、五月八日に西園寺を交え、西郷邸で会議が開かれた。

当然、井上は年齢的にこれが事実上、最後のチャンス。『伊藤博文 近代日本を創った男』(伊藤之雄/講談社)によれば、明確に首相に名乗り出たわけではないものの、色気を見せたといい、盟友関係にあった伊藤と首相の座を巡って対立した形となったが、結果、自身に白羽の矢が立った。

そして、明治三四年(1901)五月一六日、天皇から井上に組閣の大命が下ったにもかかわらず、誤算が発生。閣僚として希望した候補者が相次いで辞退し、中でも井上の元部下で、当時は財界の中心人物だった渋沢に大蔵大臣を断られたことは大きな痛手だった。むろん、渋沢は民間財界人の立場にこだわりたかったのだろう。

一方、井上は五月二三日、大命拝辞を奏上して首相の座は幻に終わり、長州藩の後輩だった桂太郎が就任。井上は渋沢に当時、「失敗して退くようなら、名を汚すことになる。君が断ってくれてよかった」と語ったとされるように、必ずしも首相の地位を望んでいなかったのだろうか。

自身の性格をよく知り、かつて伊藤に弱音を吐いたように、首相の器にないことを悟っていたのかもしれない。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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跡部蛮

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