
三国志(さんごくし)は西暦(せいれき)200年前後の出来事です。おおまかに計算しても現在から1800年の歳月が経過しています。
そのため三国志演義(さんごくしえんぎ)の中で有名な場所でも姿形がほとんど残っていません。
ここでは現在の白帝城(はくていじょう
)周辺と三国志の中の白帝城のストーリーを紹介します。
白帝城は実在するのか?

ずばり白帝城(はくていじょう
)は2019年現在も実在します。しかも石碑(せきひ
)が置かれているだけでなく、「永安宮(えいあんきゅう)」という建物も残っている奇跡の観光スポットです。

中国は異民族(いみんぞく)の王朝が繰り返し権力を握る歴史。以前の権力者の象徴や建物などは放置され、風化してしまうことが多いのです。ところが白帝城へと一歩入ると劉備(りゅうび)や諸葛亮(しょかつりょう)の像も置かれ、重慶(じゅうけい)周辺での観光スポットとしてにぎわっています。
どのルートが白帝城へのアクセスしやすい?

まず飛行機で中国大陸の重慶市(じゅうけいし)へと向かいます。北京(ぺきん)か上海(しゃんはい)の空港で国内線に乗り換えてもいいですし、一度、上海で飛行機を降りて上海南駅から高速列車で向かうのもいいでしょう。

重慶市は北京、天津(てんしん)、上海(しゃんはい)と並ぶ中国の直轄市(ちょっかつし
)なので、交通の便もいい方です。
白帝城は「奉節(ふぉんちえ)」という街にあります。重慶のはるか東にあり、歩いていける距離ではありません。

重慶は長江流域の街。奉節へは船で行けます。重慶市内の朝天門から乗船し、奉節新市街へと向かいます。
そして、奉節新市街の浜江国際バス停から402番か403番のバスに乗って、白帝城駅で下車。橋を渡れば白帝城のある島が見えてきます。

車で行く場合は重慶北駅から奉節まで行きます。およそ5時間かかります。「奉節」に就いたら、浜江国際(ひんこうこくさい)バス停からバスに乗り換えて行くルートは同じです。

白帝城までのチケット代金はいくら?

白帝城のみなら2019年現在で120元です。ほかに現地のツアーでは三峡(さんきょう)ダム周辺を回る三日間のコースがあります。
参考までにオンライン旅行会社(Ctrip)では500元台で販売されています。
なお、人民元の10元札の裏に描かれている景色は白帝城からの眺め。訪れる際は10元札を忘れないようにしましょう。
三峡ダム建設で白帝城は水没の危機!?

白帝城のある重慶から武漢、南京、上海へと大きな川が流れています。それが長江(ちょうこう)です。1931年と1954年に長江で洪水が発生し、周辺の村では甚大な被害が出ました。かねてから武漢(ぶかん)と重慶の間にダムを造り、洪水を防ごうという提案があったのです。
しかし、白帝城などの文化遺産(ぶんかいさん)だけでなく、大きな街が湖底に沈むことから1992年の全人代の会議で反対者が続出しました。

結果、工事は強制的に着工。1998年の大洪水を挟み、三峡ダムは完成をみます。歴史的建造物の白帝城は島となり、水位は200メートル近く上昇しました。
これが現代中国の白帝城です。
三国志の中の白帝城

西暦222年の夏。夷陵の戦い(いりょうのたたかい)で陸遜(りくそん)の火計によって大敗した劉備は西へと逃げ延びます。そこが白帝城でした。

劉備も年を感じたのでしょうか。以前、会ったときには幼かった孫桓に追い詰められ、絶望します。

西暦223年。死期を悟った劉備は子らと諸葛亮(しょかつりょう)を枕元に呼び寄せます。そして諸葛亮に劉禅(りゅうぜん)をしっかりと補佐してほしいと頼みます。

劉禅は君主としての器がなく、実質的に蜀漢(しょくかん)の主権はここで諸葛亮に移りました。その証拠に呼び寄せた劉永や劉理という息子たちには、しっかり勉強しなさいとしか言いません。

また、諸葛亮には馬謖(ばしょく)はホラ吹きだから、重要な役目を与えないよう助言しています。

そのため白帝城を観光すると劉備の死にまつわる遺跡がたくさん残されています。遺言を残したときの様子を反映した像も置かれ、三国志時代を肌で感じることができるでしょう。
三国志ライター上海くじらの独り言

三国志ファンは熱中すると現地へ行って聖地巡礼をしたがります。

しかし、三国志の時代は現在から18世紀も前の話で三国志演義には多少の脚色もあります。西洋でいえばローマ帝国の時代です。
「合肥新城(がっぴしんじょう)」を訪ねたけど、理想と違ってがっかりしたという話も耳にします。行く前に現地の状況をよくチェックして、観光地としても楽しめるかどうかチェックしておくといいでしょう。
その点では三峡ダムツアーも定着している白帝城は行く価値のある場所と言えます。
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