
京王相模原線(画像:写真AC)
ふたつの「多摩」の明暗――多摩ニュータウンと多摩田園都市
筆者(嶋理人、歴史学者)が前回Merkmalに書いた記事(2022年12月17日配信「多摩ニュータウンと田園都市 よく似た場所なのに、片方だけが『人気エリア』になった理由」)は、もともと1本の記事だったのを前後編にしたもので、言及が足りない部分もあった。そのため、今回は改めて多摩ニュータウンと多摩田園都市の現代史を振り返り、その違いについて考えてみたい。
両者のアウトラインを簡単に説明しておくと、ともに高度成長期に開発構想が練られた、人口30万~40万人規模を想定した東京西部のニュータウン計画である。
多摩ニュータウンは、日本住宅公団(のち住宅都市整備公団となり、現在の都市再生機構(UR)になる)と東京都が連携した構想で、東京都の稲城市・多摩市・八王子市・町田市にまたがる地域が開発された。
多摩田園都市は、東京急行電鉄(現在の東急)が、川崎市西北部から横浜市北部にかけての地域を開発した。構想時期が近く想定人口も同程度、東京西方の多摩丘陵という地域も近接しているし、都心からの距離も30km前後と似たようなものである。
このように一見共通点の多いふたつのニュータウン計画は、結果としては明暗が分かれる形となった。多摩ニュータウンは計画の半分程度の人口20万人にとどまったのに対し、多摩田園都市は予定の倍の60万人以上に膨れ上がった。なぜこのようなことになってしまったのか。
まずは、多摩ニュータウンの開発手法と交通手段の面から振り返ってみよう。

『東急多摩田園都市開発50年史』より(画像:東京急行電鉄)
多摩ニュータウンの計画と現実
1955(昭和30)年に設立された日本住宅公団は各地で団地の開発を進め、「公団住宅」が日本人の暮らし方を現代的なものへ変えるきっかけとなったことはよく知られているだろう。
しかし住宅公団が団地だけ造っても、交通手段が確保されないと問題が起こる。駅までのバスが混雑したり、駅前の駐輪場がパンクしたりしてしまうのである。そこで総合的な地域開発として、ニュータウンが構想されるようになった。
きっかけのひとつが1963年の新住宅市街地開発法(新住法)であった。この法律は、大規模な住宅地を造るために整備されたもので、地方自治体が大規模な土地買収を行ってニュータウンを建設することを想定していた。この法をもとに、団地建設以上の街づくりをしたい住宅公団と、当時深刻化していた住宅問題解決のための大規模な住宅地建設を考えていた東京都とが連携、多摩ニュータウンの構想が生まれたのであった。
多摩ニュータウンのマスタープランは、1963年から1965年にかけて策定された。3000haの広大な用地に、30万~40万人の都市を造ろうという日本最大級のものだった。この地域は主に丘陵地や台地で、そこは薪炭向けの雑木林として使われ、低地では農業が行われていた。
ところが1960年代に入ると、ガスや石油などの新たな燃料が使われるようになり、薪炭の需要は急速に減少していった。そのため元々この地域に住んでいた農家も、開発に賛成するようになっていった。
新住法の理念では、地方自治体が大規模な用地をまとめて買収し、公団や自治体が開発を行うことになっていた。しかし一括して土地をすべて買われてしまっては、農家が農業を続けることは不可能になる。一部なりとも農業を続けたい地元との交渉は難航し、結局1969年に一部の地域では区画整理事業によって開発を行うことに切り替えられた。

多摩ニュータウンの概要図(画像:都市再生機構)
開発への混乱
最初から理念通りにはいかず、しかもこの地元との交渉によって開発が遅れ、ニュータウンの入居開始まで時間がかかることになってしまったのである。こうして多摩ニュータウンの開発は、新住法によるものと区画整理によるものとが入り乱れ、新住法も東京都によるもの・公団によるもの・東京都の住宅供給公社によるものの3種があるという、ややこしいことになっていった。これが街の景観にも影響しているといわれる。
さらに多摩ニュータウン開発でもめたのは、地元住民だけではなかった。地元の自治体とも、インフラ整備の費用負担をめぐって厳しい対立が起こったのである。
人口の増加に見合ったインフラや学校の整備の費用負担で、ニュータウンを抱える多摩市などの財政は危機に陥った。多摩市はそれらの整備費用の負担を都に求め、1970年には財政問題が解決するまでニュータウンへの入居を認めないという方針を採ったのである。
この問題は1974年になってようやく、財源措置や土地利用、学区編成などの基本方針を盛り込んだ「行財政要綱」が制定されて解決し、入居が再開した。しかしこの間、1973年には第1次石油ショックが起こって、高度経済成長は終わってしまっていた。

旧由木村の農民が掲げたニュータウン反対の看板。現在の京王堀之内駅付近。大石武朗著・多摩市文化振興財団編『多摩ニュータウン今昔 写真集』より(画像:多摩市文化振興財団)
多摩ニュータウンの鉄道整備
多摩ニュータウンの入居が始まったのは1969(昭和44)年であったが、メインの足となるはずの鉄道はまだ開通していなかった。足が確保されないままの「見切り発車」的入居開始で、当時最寄りの鉄道駅であった京王本線の聖蹟桜ケ丘まではバスで40分もかかり、マスコミから「陸の孤島」と呼ばれるありさまだった。
なぜ鉄道建設が遅れたのかといえば、乗り入れるはずの鉄道会社にインセンティブが薄かったことがあった。多摩ニュータウンの計画人口である30万~40万人に見合う輸送力のためには、複数の鉄道が必要と考えられ、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)と小田急電鉄が乗り入れることになった(当初は西武鉄道の多摩川線を延伸する構想もあったという)。
しかし両社とも、自前での鉄道建設には消極的だった。ニュータウン鉄道は、人口の少ない初期は収入が少なく赤字が予想される上に、ニュータウン内は電鉄会社が兼業を自由に展開できない制約があった。
電鉄が沿線で不動産業などを展開し、電車収入がまだ乏しい穴を埋めることができなかったのである。京王相模原線は1971年にようやく京王よみうりランド駅まで開業したが、肝心の多摩ニュータウン中心部までの工事は止まってしまう。

京王よみうりランド駅(画像:写真AC)
公的資金導入で通勤新線
そこで乗り出すことになったのが、国策で鉄道建設を行う日本鉄道建設公団(鉄建公団、現在の鉄道建設・運輸施設整備支援機構に引き継がれる)であった。鉄建公団はそもそも、赤字が予想される地方ローカル線を建設したがらない国鉄に代わってローカル線建設を進めるため、田中角栄(元首相)の肝いりで1964年に設置された公団である。
これが1972年に至って、大都市周辺の通勤新線も建設を鉄建公団が担当し、長期分割払いでニュータウン事業者に譲渡するスキームがつくられた(P線方式)。その際には公団が発行した債券や借入金に対して国と地方自治体が利子の一部を補給することになっており、公的資金を導入して通勤新線を建設することが具体化されたのである。
これによってようやく多摩ニュータウン新線建設に弾みがつき、1974年に小田急多摩線が小田急永山まで開業、続いて京王が京王多摩センターまで延伸(小田急も翌年に小田急多摩センターまで延伸)し、多摩ニュータウンに鉄道が通じたのであった。しかし鉄道建設の遅れに加え、先に述べた地元とのあつれきもあって多摩ニュータウンの開発は遅れており、開業時の利用人員は見込みを大きく下回ってしまった。

南大沢地区(画像:写真AC)
その後の多摩ニュータウン
ようやく鉄道ができ、多摩市との対立も解消した1974(昭和49)年は、しかし石油ショックで高度成長が終わった後であった。その時代の変化を受けて、多摩ニュータウンの開発は量よりも質重視の住宅へと変わっていく。
1980年代後半にはバブル景気の後押しもあり、多摩ニュータウンには新たな施設が立地していった。1987年に多目的文化施設パルテノン多摩が開業、この年に多摩ニュータウンの人口は10万人に達した。1989(平成元)年には百貨店の多摩そごうが、1990年には京王プラザホテル多摩、さらにテーマパークのサンリオピューロランドが完成して、多摩ニュータウンはひとつの頂点を迎える。
この間に京王相模原線が1988年に南大沢まで延伸、多摩ニュータウン西部での開発を加速させた。相模原線は1990年に橋本まで開通し、横浜線に接続した。小田急も1990年に多摩線を唐木田まで延伸している。
もっともこの京王の延長も、もめた事案だった。何しろ予定通りに住民が増えないので相模原線は赤字基調であり、京王は延伸を渋った。そこでP線方式のスキームを拡大解釈して、ニュータウン外の橋本までを「ニュータウンの隣の駅」として延長するという手段が採られたのである。

南大沢駅(画像:写真AC)
バブル崩壊も追い打ち
このため南大沢と橋本の間には途中駅ができないことになってしまい、多摩境駅を求めた町田市と対立することになった。結局ニュータウン開発側が請願駅として追加で駅を造ることになり、開発側の負担がさらに増えることとなった。もめた多摩境駅は路線開業から1年後の1991年に開業している。
ちなみに余談であるが、京王の橋本駅はJR横浜線をわざわざ乗り越え、その西側に設けられた。実は京王は、橋本からさらに西へ延長する路線免許を持っていて、その構想の準備……というわけでもないらしい。西への延伸計画は1980年代に断念されているからである。
どうもこれは、高架線の下に商業スペースを設ける目算があったようで、現在京王橋本駅の高架下には、京王資本のスーパーはじめ各種商業施設が立地している。まるで多摩ニュータウンで沿線開発ができなかった意趣返し、というのは言い過ぎだろうか。
ともあれ1990年ごろに山場を迎えた多摩ニュータウンであったが、1990年代にはバブルが崩壊、2000年には多摩そごうが撤退するなど、開発は順調には進まなかった。2004年に多摩ニュータウンの人口は20万人に達したが、この年に東京都は新住宅市街地開発事業完了を宣言する。住宅公団の後身である都市再生機構も、2006年事業完了を宣言し、多摩ニュータウンの開発は終了した。人口は計画の半分程度にとどまったのであった。
※ ※ ※
後編では、多摩田園都市の開発手法と交通手段について解説する。
主要参考文献(文中に挙げたものを除く)
『東急100年史』(Web版)2022~23年
嶋理人(歴史学者)