光秀に攻められ自刃 藤原氏の流れ組む御家人【丹波の戦国武家を探る】(4)

光秀に攻められ自刃 藤原氏の流れ組む御家人【丹波の戦国武家を探る】(4)

  • 丹波新聞
  • 更新日:2020/11/21
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余田氏の「丸に一文字」紋

この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。

兵庫県丹波市氷上町より鴨内峠を東へ越えた同市市島町の上鴨阪・下鴨阪・徳尾の村々を合わせて余田谷とよばれる。「余田」とは荘園制において、土地台帳に載せられていない田をいった。余田谷は御油荘の寄人が荘外の公田を耕作した田で、国の課役に従わず「余田」と呼ばれた。のちに荘園として賀茂神社に寄進されたが、呼称はそのまま残った。

中世、余田谷を領した武家が余田氏であった。伝によれば、元暦元年(1184)二月、余田又太郎為綱が関東より来住して上鴨阪に余田城を構えたという。余田城山麓にある菩提寺という宗福寺の境内には「余田又太郎源藤原為綱、元暦元年二月十日関東より来住」、最後の城主として「余田左馬頭監物藤原為家、天正六年十二月二十一日没」と刻まれた供養塔が祭られている。おそらく余田氏は藤原姓の関東御家人で、新天地の地名をもって「余田」と名乗った武家であろう。

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余田城を前山川越しに遠望

ところで、余田氏の家紋について『丹波志』には「余田氏は元暦の合戦の功において源頼朝の一番の御意にかない、『丸に一文字』の紋を賜った。以後、従来の『藤巴』紋に替えて『丸に一文字』の紋を用いるようになった」と記されている。余田氏において元暦年号は一つの画期となっていたようだ。また、そもそもの「藤巴」紋は、余田氏の本姓が藤原であったことを暗示しているように見える。

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主郭切岸と帯曲輪

さて、余田氏が根を下ろした余田谷は、西の鴨内峠を越えれば同市の青垣を経て但馬へ、東は竹田を経て北に丹後、南に春日へと通じる要衝の地であった。地の利を押さえ、前山川を自然の濠とした余田城を本拠に力を蓄え、有力国衆へと成長していった余田氏の名が歴史に現れるのは、鎌倉時代の末期である。元弘三年(1333)、討幕の兵を挙げた足利尊氏の檄に応じてはせ参じた丹波武士の一人に余田氏も名を連ねていた。その後、市島町域を席捲する勢いがあったというが、その足跡を史料上からうかがい知ることはできない。

戦国時代になると赤井氏に従うようになり、天正三年(1575)、明智光秀の丹波攻めには荻野直正に従った。天正六年の暮れ、明智光春に攻められた監物為家は敗れて城を脱出、黒井城へ落ちのびる途中に力尽きて自刃した。その後、余田氏一族は余田谷に帰農したと伝えられている。
(家紋World・日本家紋研究会理事)

【余田城】尾根に曲輪を連ねた連郭式の山城。東の城と西の城とに分かれ、谷を隔てた南の山にも支城を構え余田谷城砦群を形成している。小牧・長久手の戦いに際して、徳川家康に呼応した赤井氏残党が籠城した。

丹波新聞

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