【格闘王・前田日明と「リングス」の曳航 Vol.1】UWF解散、引退説、そして新団体へ

【格闘王・前田日明と「リングス」の曳航 Vol.1】UWF解散、引退説、そして新団体へ

  • 日刊サイゾー
  • 更新日:2021/06/12

東京ドームで6月13日、格闘技イベント「RIZIN.28」が開催される。同大会のエース的存在である朝倉未来、海の兄弟を見出したのがプロモーター・前田日明だ。

2020年からは自らのYouTubeチャンネルを通じ、朝倉兄弟や石井慧、所英男、宮田和幸、久保優太、安保瑠輝也、纐纈卓真、佐藤嘉洋ら名だたる格闘家と精力的に交流。叱咤激励の傍ら、時に進路を左右しかねない助言もしてきた。

いまだ「現役」である前田は「総合格闘技」の確立に尽力した功労者の一人。揺籃期から選手、オーガナイザーとして斯界に関わってきた。その基盤となったのが運動体「リングス」である。

プロレスから格闘技へと移行を図る時期、世界中のネットワークから集めた選手をプロフェッショナルとして統一ルールの下、一つのリングで闘わせる。徹頭徹尾リアリティーを追求しながら、どこかファンタジックでさえある。国内はもちろん、オランダやロシア、グルジア(現ジョージア)などの同志と気脈を通じ、前田は誰も見たことのない世界を現出せしめた。

そんなリングスは1991年に発足し、2002年に活動を停止。今年は旗揚げから30年、来年で終焉から20年と、2年越しで節目を迎える。前田がロングインタビューに応じた。この1年余り断続的に続けてきた取材の成果も加味しつつ、唯一無二の組織とファイター、プロモーターの航跡を辿る――。

喪失と欠落

比類なき運動体が1991年に産声を上げてから30年が経過した。ファイティングネットワーク・リングス。その栄光と敗走の思い出を胸に抱く者は幸いである。

リングスは今年5月、人間であれば「而立」の年を迎えた。立役者の総帥・前田日明は発足当時を振り返り述懐する。

〈何もわかんなかったですね。どうなっていくやも。雲をつかむような話だったんで。過去に前例がないじゃないですか。そんなこと、やった人もいないし。〉

喪失と欠落。新格闘王の称号を託される男の旅立ちにはいつもその二つがあった。

1977年、18歳で飛び込んだ新日本プロレス。前年、社長でエースのアントニオ猪木はプロボクシング世界ヘビー級王者モハメッド・アリと異種格闘技戦を闘っていた。

「うちはアリのジムとも提携している。米国でヘビー級のプロボクサーを目指さないか」

スカウトの折、新日プロ営業本部長・新間寿から確かに囁かれた売り言葉。入門後、厳しい練習や付け人の雑務に追われる中、いつの間にか雲散霧消していった。

身長192センチという恵まれた体軀。1982年には英国遠征へと旅立つ。差配をしたのは、前田の師となる「プロレスの神様」カール・ゴッチだった。

米国や日本と違い、「ガス灯時代のプロレス」が息づいている。前田の遠征先に英国が選ばれた理由である。だが、それは幻想だった。英米両国は同じアングロサクソン系の文化を持つ。米国のショーアップされたプロレスの影響はすでに北大西洋で隔てられた島国にも及んでいた。

翌年には早くも凱旋帰国。猪木と新間が手掛けた一大イベント「インターナショナルレスリンググランプリ(IWGP)」決勝リーグに欧州代表として出場するためだ。「現地で修業を続けたい」との希望は叶わなかった。前田は帰国後、直ちにメインイベンターとしての扱いを受ける。

1983年は新日プロにとって転機の年である。猪木がブラジルで展開した事業「アントンハイセル」に資金が流入しているのではないか──。そんな疑念が選手やフロントの間に広がっていった。やがて企てられたクーデターにより社長である猪木と副社長・坂口征二は降格を余儀なくされ、新間は放逐の憂き目に遭う。

翌1984年、新間は「ユニバーサルプロレス」を設立した。2月29日の合同練習を最後に前田は新日を離脱。新団体にエースとして参画する。

ユニバーサルには目的があった。猪木は新日を中継するテレビ朝日に加え、フジテレビからも放映権料を得ようと画策。フジ中継用に作られたのがユニバーサルだった。

「お前は先に行っていろ。俺も後から行くから」

猪木は前田にそう命じたという。だが、師は来なかった。

ユニバーサルは当初予定された路線から大きく外れていく。猪木や新日本プロレスが希求してきた「強さ」のお株を奪う方向を模索し始めた。藤原喜明や髙田延彦、そして佐山聡。かつて世田谷区・野毛の新日プロ道場でスパーリングに明け暮れた仲間たちが結集する。

1984年7月23日と24日に後楽園ホールで開催した興行「UWF無限大記念日」で前田らはキックと関節技を主体とした闘いを披露。「UWF」と呼ばれるようになった先鋭集団は猪木が志向したはずの格闘技路線を突き進んでいく。やがて後楽園ホールは「聖地」と称され、「信者」を自認するファンが詰めかけるようになった。

だが、テレビ中継がなく、有名選手や人気外国人も登場しない団体が長続きするはずもない。1985年末、UWFは新日と業務提携。古巣に復帰を果たす。佐山の姿はそこにはなかった。

1986年に始まったUWFと新日プロ勢の闘いはリングに独特の緊張感をもたらす。前田が定義する「勝敗を度外視した主導権の奪い合い」としてのプロレス。「降りかかる火の粉は払う」闘いである。予定調和など介在しない試合が間違いなくそこにはあった。

1987年6月、長州力率いるリキプロダクション所属選手が新日に復帰。新日正規軍とUWF、リキプロの三つ巴で闘い模様は複雑さを増した。

そして11月19日、前田による「長州力顔面襲撃事件」が勃発。前田のハイキックで長州のまぶたは腫れ上がった。タッグマッチのカットプレーとしては一線を超えた一撃には歴史を動かす威力があった。

リングを覆った不穏な空気はその後も新日プロにつきまとう。前田は翌年2月、「プロレス道に悖る」を理由に「解雇」。2カ月後、何とか巻き返しを図り、「新生UWF」の旗揚げに漕ぎ着けた。

UWFは最先端のユースカルチャーとして社会現象的な人気を呼んだ。チケットは短時間で完売。試合を収録したVHSのビデオカセットは飛ぶように売れた。

業績好調の陰で団体内には歪な構図が生まれる。経理への疑問に端を発した前田とフロントの確執。やがてそれは抜き差しならないものへと育っていった。

1991年1月7日、前田の自宅に選手が参集。ここで前田は全員に「俺を信用できるか?」と問うた。

〈選手のことは誰に対しても家族のように思っていたし、情の部分で見ていました。宮戸(優光)にしても、安生(洋二)にしても相手の立場で考えていた。妙に理解しちゃってたんです。

それが結局、仇になった。あのときも宮戸が一番最初、「信用するか、信用しないかって言っても、そんなの僕わかりませんよ」と言って出て行った。

宮戸が一人で出て行っても、受け入れ先なんてどこもない。「何とかしなきゃいけないな」って思いました。みんなを結束させなきゃいけないから、「解散」って言葉を口にしたんです。〉

前田にしてみれば、「ショック療法」のようなつもりだった。

〈髙田だとか山崎(一夫)とか、あのへんが動いてくれて、「またできるんかな」と思ったら、もう全然。何にもしてなかった。〉

新生UWFの意思決定において前田は「合議制」に固執してきた。自身の人間関係の礎でもあった「家族」的なつながりを求めてやまなかったからだ。

コミュニケーションは勢い濃密なものとなる。時に激昂し、選手を叱責。心の中の柔らかい部分にも容赦なく踏み込んでいく。こうした前田の距離感を疎ましく思う者もいた。解散とは「合議制」の破綻、「家族」の終焉を意味する。

新日プロ入門以来、米国でボクサーになる夢の消滅、ガス灯時代のプロレスとのすれ違い、底上げでのメインイベンター昇格、新団体への師の不参加、不完全燃焼での新日復帰、古巣との不本意な決別──何度となく突きつけられてきた喪失と欠落にまたも襲われる。前田は一人になった。

〈中学2年くらいからずっと一人暮らしだったんで。今の感覚で言うと、家族的な愛情に飢えていたんです。当時、父親ともあんまりうまくいってなくて。音信不通でした。母親も再婚したりとかしていて。いまいちだった。向こうもあんまり寄り付かなかったり。そういう時期でした。

自分としてはそんな気にしてるつもりはなかった。でも、どこか心の中にわだかまりがあったみたいで。

UWFの連中って練習や試合だけじゃなく、私生活でもずっと一緒だった。解散後はいきなり、みんな申し合わせたように連絡すらも来なくなりました。〉

部屋に引きこもる日々。できるのは自分に対して刃を向けることぐらいだった。

〈「何でこうなったんかな?」

「俺が何かをしたから、こうなってるのかな?」

解散の直後はそればっかり考えてました。家に閉じこもって、そんなことを考えているうちに朝になって、昼になって、夜が訪れる。で、また朝になって、昼になって。そんな毎日を繰り返していたんです。〉

前田日明は引退する──。マット界の内外でそんな噂が飛び交っていた。

〈「引退」っていってもね、俺には帰る場所がないんですよ。

髙田が電話で「もう、どうしようもありませんよ」って言ってきたんです。でも、そのころ髙田は船木(誠勝)や宮戸を交えて「一緒にやろう」って会ってた。後から後から出てくる話を聞いて、すごくショックでした。

UWFを立て直すために、俺はいろんなことを一人でやってました。資金集めだとか、会場押さえ、人間をどうするか、事務作業をどうするか、スポンサーをどうするか。そういうことを全部一人でやってたんです。

「道場は見られないから、頼むな」

髙田にそう言ったら、

「道場は自分が見ますから、安心してやってください」

って言ってくれた。信用したんです。

蓋を開けてみたら、「解散」って言ってから一月もせんうちに、その髙田が「UWFインターナショナルを発足させます」「会社トップに就きました」みたいなことになって。俺、びっくりしたんです。

「何でそうなるの?」

「いつからそういう動きしてたの?」

「じゃあ、あの言葉は何だったの?」

考えれば考えるほど、「?」で頭の中がいっぱいになった。

自分がいる場所を帰る場所にしようと思って頑張った。でも、他の人間にとっては俺なんかただの競争相手なんです。それが理解できなかった。当時の俺にはね。〉

失意のどん底にあった前田に1通のファクスが届く。親交のあった作家・中島らもからだった。

「君には挫折する資格がない。日本中の若者が君を見ている。君が引退しようとか、芸能界に入ろうとか言って、頓挫してしまったら、若い子たちが人間が執念を燃やしても、所詮こうなるのかと失望してしまう。だから、頓挫する資格はない」

火が吹き出すほど熱い言葉で綴られた檄文だった。ミスター・ヒトとの共著『クマと闘ったヒト』でプロレスの仕組みに言及した中島は対談集『舌先の格闘技』で前田と一戦交えている。稀代の書き手による激励も絶望の只中にある前田には響かなかった。

〈「ありがたいな」と思った。「何かしなきゃ」とは思いましたけど。それに対してどうしよう、こうしようっていう気力さえ湧いてこなかったんです、そのときは。ただ、「どうしたらいいんかな?」って。考えてるだけでした。〉

前田の胸にある埋み火を燃え上がらせたのは好敵手が上げた狼煙だった。クリス・ドールマン。新生UWFに参戦したオランダの柔道家、サンビストである。現地で1980年代からいち早くフリーファイトの大会を主催。後にリングス・オランダに集結するファイターたちの兄貴分的存在だった。

〈ドールマンは俺のことを心配して、何回も連絡をくれたんです。UWFが解散して、「前田は引退するらしい」っていう噂を聞いたらしくて。

去就については何も言ってなかったんですけど。周りの憶測でそういう話になっちゃっていた。

あいつにはすでに契約金を渡してたんです。だいたい1000万円ぐらいのお金でした。申し訳ないから、

「俺のミステークでこうなってしまった。君らの失敗や責任ではない話だから。そのお金はもう全部あげる。気にしないでくれ」

って言いました。そしたら、あいつはこう言ったんです。

「お前ができるところまで、二人で頑張ってやろうじゃないか」〉

ドールマンからの申し出は意外なものだった。

「俺も道場に集まってくる若い者の面倒を見ている。やんちゃな連中が多いけど、みんな真面目で純粋な奴らだ。こいつらをそのまま放っておいてたら、犯罪に走ったり、妙な事件に巻き込まれたりするに違いない。見てられないような奴ばかりだ。こいつらのためにも何かしたい。格闘技を一生懸命やったら、それで飯が食える。そんな道を俺が見つけてやりたい。せっかくお前と出会って、その道が拓けてきたと思った矢先にUWFが解散した。引退なんて考えないでくれ。できるところまでやろうじゃないか」

〈「ああ、そうなんか」と思った。申し訳ないなと。〉

前田はユニバーサル時代を思い返していた。旗揚げシリーズが終わったあと、新団体は早くも行き詰まりを見せる。猪木が来ないのは明らかだ。髙田を通じて新日側から前田に指令があった。

「お前だけは帰ってこい」

前田は断った。ユニバーサルに集まった選手やフロントの社員。彼らに対する責任はどう取るのか。将来のメインイベンターとして古巣に約束された厚遇など、どうでもよかった。

新生UWFで遮二無二突き進んできた自分の背中を遠いオランダの地で見つめている男がいた。ここにもすでに責任が生じている。知らん顔などできなかった。

ドールマンの道場に集っていた清廉で凶暴な仲間たち。ディック・フライやヘルマン・レンティング、ハンス・ナイマン、ウィリー・ピータースら「リングス・オランダ」の面々は前田の決起によりプロのファイターへと転身する。

同じころ、前田に手を差し伸べた人物がもう一人いた。小川賢太郎。すき家をはじめとする外食チェーンを束ねるゼンショー代表取締役会長兼社長兼CEOである。

〈小川さんはすごく応援してくれたんです。俺が一人で朝から晩まで引きこもって考え事をしているときに心配してくれた。

「明日のことなんか、そんなに考えてもしょうがないじゃないか。あなたは若いときから武道をやりながら生活してきたんでしょう。だったら、体を動かしながら考えたらどうだ」

そう言って、道場を無償で用意してくれました。バーベルやダンベルなんかの器具も全部そろえてくれて。リングスはそこから全てが始まったんです。

「できるところまでやってみる。それで万歳したら万歳したでしょうがない。そこまでやれば、みんな納得してくれるだろう」

そう思えました。「じゃあ、やろうか」って。ようやく気持ちが切り替わったんです。〉

(Vol.2に続く)

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