
おーい、村長さん
二
「村長、次は日野沢の滝に行きましょう」
昼食後、少し眠気を覚えつつ車で三十分。小さな川のほとりで車を降りた。そこから、山奥に向かって歩く。すると水が落ちる大きな音に驚かされ、しばらく歩き続けると目の前に立派な滝が悠然と現れた。
高低差十五メートルはある立派な滝。圧倒的な迫力。じっと見ているとマイナスイオン効果もあって心が和らいでくるのがわかる。悩み、疲れた人が安らぎを求めて訪れてくるという。
「かなり奥まで来たけれど素晴らしい滝だね。滝に向かう歩道さえきちんと整備すれば、いい観光スポットになるよ。写真映えもするしね」
知られざる名滝に私の心はグッと動かされた。最後は村役場に帰る途中にちょっと面白いスポットがあるらしい。さきほどの滝から車で二十分。ある山の中腹に車は停まった。
「農家さんのお宅にでも行くのですか」神田課長に訊いてみた。
「ちょっと驚きの乗り物があるんです。まあ見ていてください」
すると何やら大きなエンジン音が頭の上で鳴り響く。見上げてみると山の中からレールが延びている。山間部でよく見かける収穫したミカンやリンゴを乗せて走る小型エンジンのついた小さなトロッコ列車が登場。その列車に農家の人が乗っている。
「これで果物や野菜を運ぶのですね。なるほど、なるほど」
「村長、違いますよ。これは住民モノレールといって、不便な山の上の住民さんに乗っていただくモノレールなんです」
神田課長は懸命に叫びながら説明する。少し笑っているが。
「本当にこれに人が乗るのですか。問題ありませんか」
少しためらいつつも、このモノレールに乗ってみた。エンジンの振動はかなりお尻に響くけれども、急な坂道を登らなくていいので楽である。モノレールからの眺めもいい。
「これを観光用にしてみてはどうですか」
「最初はそれも考えました。でも、大々的にアピールをしてたくさん観光客が来ますと村の人たちが乗れなくなります。だから、あくまでも住民用のモノレールとして運用しているのです」
驚きのアイデアだ。不便な山の中ではあるが愉快に暮らそうという住民の思いが伝わってくる。
昨日、到着したばかりだったけれども、日野多摩村のよさが存分にわかってきた。地元の特色を生かそうという工夫あり、意外性あり、たまらなく面白い。そして村長である兄と村の人たちとの強い絆を自分の肌で感じ取ることができた。
三
「影武者」に就任してから数日後。私は役場のロビーで青山助役たち職員と数人で話をしていた。すると誰かが私の肩をポンポンと叩いてくる。振り向くと、そこには大柄な年輩の男性がニヤリと笑って立っていた。
グレーのダブルのスーツ姿で髪型はオールバック。派手な眼鏡をかけ、一見、この辺りの人らしくない雰囲気の男性。私は誰なのか見当がつかなかった。
「村議会議長の渋谷竜一さんですよ」
青山助役が小声で教えてくれた。
「村長、全快おめでとうございます。退院できて本当によかったですね」
渋谷議長が握手を求めて右手を差し出してきた。
「あ、ありがとうございます。おかげさまで、なんとか退院できました」
私は苦笑いしながら握手をした。ただ、この渋谷議長と一言二言ことばを交わしただけなのだが、今まで接してきた日野多摩村の人々とは何か違うものを感じた。
すると、村役場の前に一台のタクシーが猛スピードで入ってくる。タクシーの大きなブレーキ音にロビーに居合わせた人たちが驚いている。そのまま話を続けていると、そのタクシーを降りてきた人のヒールの音がこちらに近づいてくる。なんとなく視線を感じて振り向くと
「あんた、何やってんのよ」
タクシーを降りてきた人にいきなり怒鳴られた。そこには鬼の形相の女性が一人立ちはだかっていたのである。私の姉・権田原恵子だった。役場の空気が凍り付くのを感じた。
「ああ、ここじゃ、あれだから村長室に行こうか」
周囲の人に村長の隠し妻か、などと変な誤解をされてもいけない。
「姉です。姉です。少しお話をしてきまーす」
叫びながら私は慌てて姉を村長室へ押し込んだ。ちらりと見ると、渋谷議長が秘書らしき人とコソコソ話している姿が目に入った。姉は勢いよく村長室の扉を閉めるなり
「村役場に行ったきり全然帰ってこないし、連絡もないし。ちゃんと正一のこと、役場の人たちに伝えたの。全く、もう」
ハンドバッグをテーブルの上に放り投げ、姉は怒り心頭のご様子である。
「この村は携帯電話の電波が入りにくくてさ。ついつい電話するのが面倒になって」
「それなら役場の電話で架ければいいじゃない。そもそも全然帰ってこないってどういうことなのよ」
「役場の電話じゃ架けられないんだ。事情があって」
「どういう事情なの。ちゃんと話してよ」
姉が机をバンバンと叩いた。
「兄貴の病状のことはすぐ伝えたんだ。それで」
「それで何よ」
「でも村の助役さんが村長不在だと困るから、皆さんに内緒で兄貴の『影武者』をしばらくやってくれないかって頼まれたんだ。俺がとても似ているからちょうどいいって」
姉は呆れ果てて、来客用ソファーに怒りにまかせて腰を下ろし足を組む。
「どうせ、そんなことだろうと思ってたわよ。でもそれはマズいんじゃないの。村の人たちを騙してるんでしょ」
「確かに。でも重要書類は助役さんが全部処理するから大丈夫だって」
「どっちにしたって、勉強が苦手で頭の悪いあんたが務まるはずがないでしょ。仮に村長のフリをするだけにしても。全く何を考えているのよ」
姉はうなだれて黙ってしまう。
【前回の記事を読む】優秀で女性にモテる双子の兄とは対照的な自分。本当に兄の代役が務まるのだろうか?
浅野 トシユキ