もう日本でも「生を保護する安楽死」という発想を

もう日本でも「生を保護する安楽死」という発想を

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  • 更新日:2021/04/10
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*写真はイメージ

(富山大学名誉教授:盛永 審一郎)

コロナ禍の中、世界では、すでに280万人を超えるというおびただしい数の死者が出ている。ドイツでクレマトリウム(火葬炉)の前に棺桶が積み重ねられていくニュースの映像を目の前にすると、ナチスのホロコーストの映像が重ねられて、筆者が関心を寄せてきた安楽死の問題などは贅沢な悩みとしてどこかに吹き飛んでしまう気がする。しかし、逆に安楽死への動きが世界では加速している。

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ニュージーランド、スペイン、オーストリア、ポルトガル、さらにはペルーでも

2020年10月30日、ニュージーランドで安楽死の合法化をめぐる国民投票が行われ、賛成が65.2%と半数を超え、2021年11月6日に新法が施行され、余命半年以内と診断され回復が見込めない患者に「死ぬ権利」が認められることになった。

同年12月17日、スペイン上院は、長年にわたる議論を経て安楽死法案を賛成198、反対138で可決、さらに下院も21年の3月14日、医師の薬物投与による「積極的安楽死」を容認する法案を賛成202、反対141、棄権2で可決した。

2020年12月11日、オーストリア憲法裁判所は、自死を願う人を助ける行為を刑罰犯罪とすることは自己決定権への侵害にあたるとして、22年1月1日を期して関連条項を削除すると表明した。

2021年1月29日、ポルトガルは安楽死法案を賛成136、反対78、棄権4で可決、大統領の承認を得て成立する。

また、南米ペルーでも難病の女性が、安楽死の権利を認めるよう政府を相手に訴訟を起こし、2月末に一審が訴えを認め、被告の保健省など複数機関が3月3日までにいずれも控訴しないと明らかにし、安楽死が行われる可能性が出てきた。以上のような報道があった。

なぜ世界ではこのように安楽死や自殺介助への動きが加速するのだろうか。

「自分で自分の死を決定したい」

医療医科学の進展の結果、死を引き延ばすことが可能になった。しかし、死を引き延ばすといっても、それは残念ながら「生」を引き延ばすのではなく、「死ぬ過程」を引き延ばすに過ぎない場合も多かった。このように徒に死が引き延ばされているような状況、つまり自己や人格のアイデンティティが保持されず、身体的または精神的衰退がすすんだ状態に人間は長く留め置かれるべきではないと考える人が増えている。さらに患者の側には、「自分で自分の死を決定したい」という思いが、1970年代にアメリカで起こった「患者の自己決定を尊重する」新しいバイオエシックス(生命倫理学)の運動の中から生じた。

はじめは植物状態患者から生命維持装置を取り外し、死を求めたクインラン事件、クルーザン事件、そして植物状態「然」患者からの取り外しを求めたシャイボ事件、ランベール事件、末期癌で苦しむ患者にカリウムを注射して死に至らせた事件・・・。

これらは、いわゆる患者の「死ぬ権利」、あるいは「死を選ぶ権利」を患者の自己決定権の一つとする考え方に基づき起きた事件である。

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しかしこれには問題があった。というのも、「“死ぬ権利”は“生の権利”から導き出すことができない」という考えもあるし、また仮に「死ぬ権利」があるとしても、この権利は自律権の一つであり、もともと他人に援助を要求する強い権利、積極的権利、他動詞的権利ではなく、他人に黙認や妨害しないことを要求する弱い権利、消極的権利、自動詞的権利であるとされているからだ。だから「死ぬ権利」「自己決定権」だけでは医師を安楽死の行為へと義務付けることはできないし、免責することもできないのだ。

一方、日本の議論を見ると、最近は「死ぬ権利を認めろ」という主張も多くなってきたが、やはり新聞・テレビなどの論調では安楽死に慎重な意見が多い(最近では、京都新聞とYahoo!ニュースの共同連載企画『安楽死と呼ぶ前に』2021年3月など)。「安易な安楽死議論は危険」とか、「意図せずに死へ駆り立てられる『すべり坂』が起きる」とか、安楽死と尊厳死を区別して、「過剰な延命治療の停止を意味する尊厳死までなら認めるが、安楽死は・・・」という式の議論である。その背後には、「自然死(医療者の作為なし)ならよいが、死を医療者が作為的に引き起こすのは殺人だ」という理屈がある。

しかし、このごろは、カナダやオーストラリアでは、尊厳死と安楽死の区別を日本のようにつけなくなってきている。例えばオーストラリアのヴィクトリア州では、自分で薬を飲むことができない場合は、医師が手を貸すというようになっている。カナダでは、安楽死と尊厳死が口語で同じ意味だとされている。

もっとも、もともと安楽死と尊厳死はコインの裏表の関係にあった。すなわち安楽死は医療者の側からみた行為であり、尊厳死は患者の側からの権利遂行という行為である。そもそも、日本でeuthanasiaが最初は「安死術」と訳されていた。要するに、安楽死は一種の「医療行為」と見られていたのである。あの森鴎外も『甘瞑』と訳しているほどだ。「安らかに死なせる術」という医療行為を指す言葉なのである。

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こんなことを書くと、「医療は生を助けるためにあるものだ、死を目的とする術は医療とは言えない」と糾弾されそうだが、人工妊娠中絶は同じく胎児(人間の生命である)の死を目的とするのに、医療に分類されている。脳死者(生命的にはまだ生きている)から臓器を取り出すのも「医療」とされている。「死を目的とする術は医療ではない」という根拠も、実は怪しいものなのだ。

オランダの安楽死法がヨーロッパ人権条約に反しない理由

安楽死を世界で最初に合法化した国と言えば、オランダ(2002年)である。年間の安楽死数は6000人を超えている。そのオランダは、脆弱な生を保護することを目的とした「ヨーロッパ人権条約」(1953年)の締約国でもある。だとするなら、安楽死法はそれと矛盾するのではないのかと思う人も多いだろう。事実、ヨーロッパ人権裁判所もその点を危惧して、オランダやベルギーの安楽死の動きを注意深く見守っている。

ところが、オランダの安楽死法は人権条約と矛盾しない。それは以下のように考えるからだ。

日本では、刑法199条殺人罪や刑法219条過失致死罪とは別に、刑法202条により、嘱託殺人や自殺幇助は禁止されている。オランダも、刑法289条で「殺人罪」、287条で「過失致死罪」、293条で「要請に基づく生命終結の禁止」、294条で「自殺幇助の禁止」を定めている。ということはオランダでも、安楽死が「要請に基づく医師による患者の生命の終結である」と定義されるのであれば、その安楽死は法律上の犯罪となる。

しかし、1973年に起きた、苦痛のあまり死を望む母親にモルヒネを投与し致死させた女性医師の(ポストマ)裁判を契機に、30年にわたり議論が重ねられ、通称「安楽死法」が成立した。

この法において、医師が患者に頼まれて患者を致死させる行為が、患者の要請が自発的であるとか、絶望的で耐えがたい苦痛であるなどの「ケアの要件」を遵守して行なわれ、市の検死官に届け出た場合は「犯罪にならない」とされた。その根拠は、正当防衛と同様に、「不可抗力によってやむをえず犯罪を行ったものは、処罰されない」(刑法40条)に基づいている。つまり、医師が安楽死法の定める「ケアの要件」を満たして安楽死を実行した場合、違法性が阻却されるとしたのである。なぜなら、「生命を維持する義務」と「患者の望む最善の医療を患者に施し、患者の尊厳を守る義務」という相互に相反する義務が衝突した緊急状態で行なわれた行為だからである。

「生の保護」とは、生をできるだけ長く引き延ばすことではない

この後者の義務についてもう少し詳しく述べよう。実はこれには二つの義務が含まれている。一つは、「患者の絶望的な耐えがたい苦痛を癒やす義務」(人権条約3条)である。しかしここからは、望まない死が帰結してしまう。そこで、もう一つの義務「患者の自発的な意思を尊重する」義務が考えられる。だが、「患者の自発的な意思を尊重する」といっても、患者に「死ぬ権利」があるとまでは言えない。しかし、死の訪れが確実となったとき、「いつ死ぬか、どのように死ぬか」を決めることは、それが社会や他者を害さない限り、個人が決めてよいことではないのか。

医療医科学の進展により人間は生命の長さのコントロールもある程度できるようになった。しかしそれは必ずしも、生命の質も保証するものではなかった。患者の中には、生命の質が改善する見込みもないまま、絶望的な耐えがたい苦痛に襲われ続ける状態に置かれ続ける者もあった。それは必ずしも患者にとって望ましいものではなかった。

そこで「生命権の保護」と「プライバシーと個人の自律性を尊重する権利の保護」との間にバランスを取ることが求められるようになった。

だから、身体が絶望的な極度に悪い状態に置かれ、それが非人道的な、尊厳を汚すような苦痛であり、しかも改善する見込みが死以外なく、その行為が社会や他者を害しない場合、いつどのように死ぬかを決定することは、国家や社会が干渉してはならない個人が自発的に決める「プライバシー権」(人権条約8条)の一つである、としたのである。

まとめると以下のように言えるだろう。人権条約で謳われている「生の保護」とは、生をできるだけ長く引き延ばすことではない。生の質も考慮する必要があるということだ。「生命を維持する義務」と「患者のプライバシー権を尊重し、患者の望む最善の医療を患者に施す義務」という相互に相反する義務が衝突した緊急状態で行なわれた医師の「思いやり」に基づく行為(ケアの要件を満たす行為)は処罰しない、つまり違法性を阻却する――。これがオランダ安楽死法の心髄である。

絶望しか待っていない患者に「希望を持って」と言い続けるのは正義か

ここで登場した「プライバシー権」に関しては、日本でも注目を浴びた死をめぐる裁判があった。信仰上、無輸血手術を求めた裁判、エホバの証人最高裁判決(2000年)だ。1998年の東京高等裁判所判決では、自己決定権が認められたのに対し、最高裁判決では「輸血を伴う医療行為を拒否する」と意思決定することは患者の人格権(プライバシー権)の一部だとされた。当時は高裁判決が画期的で、最高裁判決はあまり注目されなかったが、まさに的確であったのかもしれない。

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『認知症患者安楽死裁判 事前意思表示書か「いま」の意思か』(盛永審一郎著、ベイツ裕子編、丸善出版)

さらに、オランダの安楽死法には、プライバシーの権利を保護するさまざまな法律上・社会制度上のゲートキーパーがあるのも忘れないでおこう。患者の「明示的かつ真摯な要請」、「医療者による患者の苦痛の確信」、「第3者の医師による確認」、そして透明性を担保する「安楽死審査委員会制度」、信頼性を担保する「家庭医制度」などである(詳しくは、拙著『認知症患者安楽死裁判 事前意思表示書か「いま」の意思か』〈丸善出版、2020年〉を参照されたい)。

このようにオランダでは安楽死法は脆弱な生命を守ることを謳った欧州人権条約と両立している。だからオランダ国民の88%が19年間実施されてきた安楽死法の維持に賛成しているのである。

日本では一昨年、京都在住の女性ALS患者に対し、SNSを通じて知り合った2名の医師が女性の要請に応じて死に至らしめた事件が起きた。この事件を「安楽死事件」と呼ぶことに対して、安易な安楽死論と批判する論調がマスコミに多い。表だって安楽死を議論することにより、死を望んでいないALS患者を安易に死へ駆り立ててしまうことになるのを恐れてのことだ。たしかに生産性でのみ人の価値を計る価値観や、死へと人を同調させる圧力は排除しなければならないし、死を防ごうとする地道な活動や取り組みには敬意を表したい。

しかし、例えば、幼少時に性虐待を受け、その後トラウマに悩まされ、常に頭が混乱し、生きる意味を見いだせず、死への願望が強く、自殺未遂を定期的に繰り返し、その都度精神科救急に搬送されてくる女性。このような瀕死の病人、絶望している患者を前にして、「希望をもって生きましょう」と言葉でだけ励ましながら、拱手傍観を決め込む医療者や社会の態度というのは、精神医学者であり哲学者でもあるヤスパースが指摘する「厄介となった人間がまだ生きているのに立腹し彼等の死を願う。そして彼等は自殺することもできない程無価値な存在だと憤激する」ような、自分のことだけしか考えない不誠実な態度と変わらないではないのか。

いささか古い映画だが、『ジョニーは戦場へ行った』という映画の最後の場面を思い起こそう。戦場で、目、鼻、口、耳ばかりか手足も失い、頭と胴体だけという生きる肉塊になったジョニーが、必死で頭を小刻みに動かしてモールス信号を打つ。「自分を見世物にして欲しい、戦争というものがいかなるものを作り出したか、見せて欲しい。さもなければ、殺して欲しい」。しかし、病室の鎧戸は下ろされ、扉はすべてしめられ、闇の中に放置されるのである。

人間は自らの生に、意味(存在理由)を求めている。意味がなければ、死を望みさえするのだ。

日本も「安楽死」に真正面から向かい合うべき時

かつてヨーロッパで尋ねたことがある。「断末魔の苦しみにいる人がいて、死しか解放する手立てがないならどうするか」。「『一気に死をもたらす』、おそらくヨーロッパの多くの人がそう答えるだろう」と言われた。日本人は、もしかしたら最後のとどめをためらう人が多いのかもしれない。狩猟民族と農耕民族との違いかもしれない(日本人にとってはギロチンは大変恐ろしい刑と受け止められているが、フランスではギロチンの方が絞首刑より人道的な刑として導入された)。でも、森鴎外の『高瀬舟』を読んで、瀕死の状態で苦しんでいる弟を目の前にしたら、誰もが喜助のように結果として死が訪れるとしてもカミソリ刃を抜くのではないだろうか。切腹には介錯が伴うではないか。日本人だって、苦しみながら死んでいく状況を見るのは忍びないのである。

それでも安楽死を患者の権利として認めることに納得がいかない方もいるかもしれない。あるいは、苦痛を取り去るためには、死に手を貸さなくとも、緩和医療やCDS(持続的な深い鎮静)があるのでは、と考える人がいるかもしれない。しかし、緩和医療の結果、意識がぼーっとなったり、CDSで意識をなくしたまま死ぬのはどうしてもいやだと思う人もいる。さらに身体的苦痛のみが問題であるのではない。心理的苦痛も問題だし、さらに絶望には緩和医療やセデーションは功を奏しない。絶望を癒やすには「希望」をもたらすしかないからだ。

一方、医療の現場では七転八倒し苦しんでいる患者を目の前にして、なす術なく手をこまねいて、ついに患者に最終的な治療に手を出してしまう医師、医療者もいるのだ。日本でも、京都京北病院事件(1996年)などが挙げられる(ただし筋弛緩剤投与と患者の死の因果関係などの立証が困難となり、不起訴)。最近では、NHKWEB特集『“最終的な治療”は許されるのか ある医師への取材記録』がある。この医師達に罪の負い目を押し付けてしまうよりは、安楽死問題を医療の現場で起こりうる不可避な現実の問題として受け止め、ケアの要件を定め、法の正義が行えるように、法や制度を少しずつでも定めていく必要があるのではないだろうか。

コロナ禍の現在、安楽死どころか、医療者が患者を見捨てざるを得ない極限的な状況に追いやられようとしている。追いやらない政治を期待するが、追いやるなら、彼等の罪を消すことができる法律・ルールを考えておくべきでないのか。

盛永 審一郎

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