不屈の定期航路「稚内~サハリン」、もはや運航再開は絶望的 ウクライナ侵攻の余波はあまりにも大きかった

不屈の定期航路「稚内~サハリン」、もはや運航再開は絶望的 ウクライナ侵攻の余波はあまりにも大きかった

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  • 更新日:2022/05/14
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2018年の稚内・コルサコフ定期航路使用船舶「ペンギン32」(画像:稚内市)

ウクライナ侵攻による影響も

北海道の稚内とサハリンのコルサコフを結ぶ定期航路は、2022年も運航再開の見通しが立っていない。対岸のロシア・サハリン州との交流を重視していた稚内市だが、ウクライナ侵攻の影響はここにも及んでいる。

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稚内市は対岸にサハリンを望む、国境の町だ。侵攻以降、さまざまな変化が起きている。2022年3月には外務省がロシアの危険情報のレベルを「渡航中止勧告」に引き上げたことで、市はサハリンの州都ユジノサハリンスクに設置していたサハリン事務所を当面閉鎖することに決めた。

事務所は2002(平成14)年、道内の市町村として初めて設置された。以来、市職員ひとりと現地スタッフひとりが運営していた。常駐していた職員は、ビザ更新のためにたまたま一時帰国していたが、そのまま戻らなかった(『北海道新聞』2022年3月15日付朝刊)。

ウクライナ侵攻の影響は経済交流にも及んでいる。稚内とサハリンを結んでいた貨物船のチャーター運航は3月の実施を最後に、2022年度は実施しないこととなった。侵攻の影響で取引に参加する企業が見込めないためだった。

この事業は道北の自治体や経済団体でつくる「稚内・コルサコフ定期航路利用促進協議会」の主催で2016年から実施されていた。2021年度には16.9tの貨物の輸出入が行われている(『北海道新聞』2022年3月16日付朝刊)。

貨物船の運航すら危うくなるなか、もはや運航の可能性すら消滅しているのが、旅客を扱う稚内とサハリンのコルサコフを結ぶ定期航路だ。

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定期航路使用船舶のルート(画像:稚内市)

中止と再開が繰り返された定期航路

この航路は、サハリン南部が日本領の南樺太だった1923(大正12)年に、稚内~大泊(現・コルサコフ)間にできた「稚泊連絡船」以来の歴史を持っている。宗谷本線が1922年、稚内まで延伸開業したことで設置された鉄道連絡船だった。

しかし、太平洋戦争後にこの航路は消滅。その後1995(平成7)年に定期航路が復活してからは、中止と再開が繰り返されている。

太平洋戦争後、閉ざされていた国境が再開したのはソ連末期の1989(平成元)年5月だった。墓参団を除いて、サハリンはそれまでなかなか入れなかったが、ペレストロイカの波によって観光客誘致が活発化。札幌の「タイムス観光」が「サハリン船舶公団」のフェリーを利用し、4泊5日のツアーを実現した。参加料金は18万6000円。9月まで11回の募集が行われ、ツアーは多くの便が満席になった(『朝日新聞』1989年5月30日付朝刊)。

この時期から、北海道や道北の市町村によるソ連側との定期航路・空路開設に向けた動きは活発化。1990年9月には北海道が派遣した「日ソ共同ワーキンググループ道代表団」とサハリン州の交渉が実り、翌1991年にコルサコフ港を開放。1992年には定期航路を就航することが決まったのだ。

この時期、北海道の北方貿易に向けた動きは夢が大きい。当時の関係者の間ではサハリンとの航路開設はあくまで手始め。その後は、サハリンから見て間宮海峡の対岸にあるシベリアのワニノと北海道との定期航路を開設することも構想されていた。ワニノは第二シベリア鉄道につながる都市で、ここにつながれば北海道との間に貿易が活発になると期待されていたのである。

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ワニノ(画像:(C)Google)

定期航路実現も新たな課題ぼっ発

ただ、チャーター便による運航は実施されたものの、定期航路の開設は思うように進展しなかった。なぜなら、ソ連崩壊後にロシア経済が悪化したからだ。結局、1995(平成7)年4月になり、日本側のナビックスラインなど海運6社と、ロシア側のサハリン船舶会社などの共同運航による定期航路がようやく実現した。

この年の運航は4~9月までの期間限定で、小樽・稚内~コルサコフ間を計21往復することになっていた。ただ、この時点で既に問題があった。乗客は多かったにもかからず貨物が低調だったのである。

「航路開設前から貨物がどれだけ集まるかが懸念されており、来月1日に小樽から出港するフェリーの積み荷はプラスチック製の袋などわずか40t。その先の見通しは立っていない。しかし道内からサハリンに向かう第一便は訪問団などでほぼ満席となっており、その後の便も予約は順調。海運会社は「貨物がないのは予想していた。旅客の定員を満たせば、採算割れにはならない」と話す。当面は物流より人の橋渡し役を担う航路となりそうだ」(『北海道新聞』1995年4月27日付夕刊)

物流を確保できないことが、航路を維持する上での最大の問題となった。物流はその後も増加せず、1997年に定期航路は中止となった。理由はロシア側の船体の改修費用問題とも言われた。

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稚内・コルサコフ定期航路利用促進協議会のウェブサイト(画像:稚内・コルサコフ定期航路利用促進協議会)

今後の航路の行方は

1999(平成11)年になり航路は「ハートランドフェリー」によって復活、同年5~9月で合計28往復の運航となった。運航再開にあたって、自治体や経済界による支援も活発化したが、毎年夏季限定で継続したものの、2015年で運航停止となった。

1999年以降、日本企業も参加するサハリンでの天然資源開発が活発化したため、貨物量は一時増加。しかしそれも減少に転じたため、稚内市が助成して航路維持に努めたが、黒字化にはいたらなかった。

こうして2016年からは、稚内市が第三セクター「北海道サハリン航路」とサハリン州の船舶運航会社「サハリン海洋汽船」と提携して、チャーターした旅客船で運航することになった。いわば税金でなんとか維持する定期航路という形になったのだった。

しかし、この体制も順調ではなかった。運航は稚内市とサハリン州が費用を折半する形が取られた。ところが2018年にはサハリン側の調整が遅れ、一度は運航が断念された。その後、改めて運航を決定する混乱も見られた。

結果、この年を最後に旅客運航は終了。思うようにならない旅客船を運航するよりも、低調とはいえ需要のある貨物船に絞ったほうがよい――というのが、大方の見方だった。

この航路は将来、経済交流が活発化した時の価値があった。しかし、その価値もウクライナ侵攻で疑問視されるようになった。航路の存在は今後、どうなってしまうのだろうか。もはや絶望的な未来しか訪れないのだろうか。

廣松倫彦(対ロ経済評論家)

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