植松聖の裁判が「死刑にするためのセレモニー」だったと言える理由

植松聖の裁判が「死刑にするためのセレモニー」だったと言える理由

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/09/16
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映画監督・作家の森達也氏が3月19日、死刑判決直後の植松聖と面会した。2016年、入所中の知的障害者19人が殺害されたあの事件の深層とは何か? 今回は、植松に「60回くらい」面会してきた、「創」編集長・篠田博之氏へのインタビューをお届けする。

第1回はこちら:相模原障害者殺傷事件とは何だったのか?「普通の人」植松聖との会話

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〔PHOTO〕gettyimages

「宮崎事件のときも精神鑑定は大きなテーマになりました」と篠田は言った。「でも最終的には、責任能力ありとなる。それは国家意思であると同時に、もしも責任能力がないと裁判所が判断したら国民感情が許さない、との判断が働いたことも確かだと思います。そしてあの判決以降、裁判所がこれを前提というか暗黙の判例にしてしまったことも確かです」

そう言ってから篠田は顔を上げる。ずっと視線を下に向けていた理由は、おそらく資料を読んでいたのだろう。長い付き合いだけど、Zoomで話すのは初めてだ。

僕の今の肩書は「映画監督・作家」だ。つまり映像と活字の二足の草鞋。1998年に「A」を発表して以降、それまでの肩書だった「TVディレクター」に「映画監督」が加わった。でもその後にテレビの仕事は少しずつ減り、代わって活字の仕事が増えてきた。初めて上梓した書籍は『放送禁止歌』と『「A」撮影日誌』。そして初めての連載は、月刊誌「創」の「極私的メディア論」だ。

つまり「創」の編集長である篠田博之との付き合いはとても長い。そして篠田と植松のパイプはとても太い。そもそも3月に滑り込みで間に合った植松への面会も、確定間近ということで(確定すれば面会できなくなる)多くのメディア関係者が順番待ちの状況だったので、篠田に依頼して植松本人から了解をとりつけることで実現した。

……付き合いはともかく、パイプって言いかたは何かいやだな。でも信頼関係という言葉ともちょっと違う。篠田と植松の関係は、あくまでも取材する側とされる側のスタンスだ。植松が面会でしゃべったことや送ってきた手紙はすべて、篠田は公開することを前提にしている。つまり基盤はジャーナリズムだ。ただし半端じゃない。これまで植松には何回くらい面会していますかと訊ねたら、60回くらいかな、という答えが返ってきた。その面会の様子や植松が送ってきた手書きのイラストは、ここ数年ほぼ毎月のように「創」誌面に掲載されていたし、相模原事件をテーマにしたシンポジウムなども主催者として積極的に開催している。ウィキペディアで篠田博之を検索すると、

もともと学生運動に参加していた立場からか左翼リベラル的なスタンスで雑誌制作に携わり、獄中からの手紙を通じて犯罪者にも発言の場を与えるなど、異色の雑誌編集を続けている。北朝鮮に渡ったよど号グループの声を取り上げて来た他、連続幼女殺害事件の死刑囚・宮崎勤などに手記を発表させている。

と記載されている。宮崎勤だけではなく、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とは、事件が起きた1998年から関わりを続けているし、奈良小1女児殺害事件の犯人である小林薫(2013年に死刑執行)や、寝屋川市中1男女殺害事件の犯人である山田浩二などにも、篠田はずっと面会を続け、「創」誌面に彼らの手記を何度も掲載している。日本各地のオウム施設を訪ねた「A2」を撮影していたころには、取材をしている篠田と現場で何度も出くわした。

つまり(メディアへの批評性も含めて)、僕と篠田のスタンスはかなり近い。ウィキペディアには篠田について「左翼リベラル的なスタンスで」と記述されているが、死刑制度に対して異議を唱えたり冤罪関連を取材したり死刑囚と交流したりすることは、「左翼リベラル的なスタンス」になるのだろうか。書きながらわからなくなる。確かに僕の交友関係において左翼リベラル的な人は死刑廃止を主張する場合が多いが、強硬に死刑制度は存置すべきと主張する左翼リベラルもいるし、死刑廃止を主張する右翼活動家も少なくない。決してイコールではない。まあ死刑制度は戦争と並んで国家の究極の暴力行為と考えれば、左翼リベラルが批判的になることは当然かな。つまりニアイコールではある。

「死刑にするためのセレモニー」

Zoomの画面の中で顔を上げた篠田は、「問題は精神鑑定だけではなく、裁判員裁判の影響も大きいと思う」と言った。

「公判前整理手続きの問題ですね」と僕は同意した。裁判員は一般市民から無作為に選ばれる。拘束する期間が長ければ当然ながら不満が出る。だから公判が始まる前に、裁判官、検察官、弁護人の三者が集まって、協議しながら公判の争点を絞り込む。これが公判前整理手続きだ。裁判員制度を見越して2005年に導入された。その結果として、確かに公判は圧倒的に短くなった。相模原事件の初公判は1月8日で結審は2月19日。審理期間は二ヵ月もない。宮崎勤の審理期間はほぼ8年で、死刑判決の基準となった永山則夫の一審は(途中で弁護団の解任などがあったこともあり)足かけ10年。和歌山カレー事件は3年半だ。確かに無駄に長いよりは短いほうがいい。でも二ヵ月弱は極端すぎる。

「相模原事件の場合は逮捕から2年ぐらいかけて公判前手続きをやって、どんな方針でどういう審理をするかをほぼ(密室で)決めてから公判が始まった。争点はほぼ事前に決められているから、端的に言っちゃうと、公判では死刑にするかしないか、みたいなことを、つまり責任能力についての議論だけになってしまった」

「この傾向は今の刑事裁判全般にありますね」

「相模原事件はその典型です。最初から答えが決まっている。公判ではやまゆり園の職員の聴取が読み上げられたけれど、ひとつのホームをまずは襲撃して次に隣、という具合に、植松の当日の行動が一つの合目的な方向に向かっていることを印象づけるための聴取が選ばれていると感じました。つまり責任能力ありという結論に落とし込むための手続き。例えば職員を拘束してから部屋の中で寝ている人を示して、しゃべれるのかどうかを植松は質問してきたと職員は言うわけ。しゃべれないって答えると殺されることに気づいた職員がしゃべれますと答えたら、植松はその嘘を見抜いてしまう。こうした事実関係を示すことで、犯行の目的やプロセスを合理的に認識していることを強調する。ならば責任能力はある。論点はそこに集約される。事前の打ち合わせもしっかりできている。だから傍聴しながら、舞台を観ているような印象を強く持ちましたね。

責任能力以外の論点、例えば障害者への差別の現状について、あるいはやまゆり園も含めて福祉のありかた、何よりも動機の真摯な解明とか、そんな要素が全部抜け落ちてしまった」

「法務省は裁判員制度を導入しなければならない理由を、裁判に市民感覚を取り入れるためと説明しました」と僕は言った。

「その主旨そのものは間違ってはいないと思うのだけど、その弊害がとても大きくなってしまった」と篠田は言った。そうかなあと僕は言う。弊害が大きくなったとの視点については同意だけど、主旨そのものは間違っていないとの視点に対しては違和感がある。だってプロの裁判官が市民感覚から遊離していると認めるのなら、国民に裁判への参加を強要する前に、裁判官が市民感覚を持てるようなシステムや研修制度を考えるほうが先だと思うのだ。

「まあそれもわかるけれど」と苦笑しながら篠田は言った。「特にこの事件は複雑で、いろんな問題を提起してるのにもかかわらず、一ヵ月強で裁判が終わってしまった。端的に言えば、死刑にするためのセレモニーでした」

そう言って少し間を置いてから、「二人の裁判員が、結審後に辞任しているんです」と篠田は言った。「ところがその理由も明らかにされていない」

植松の精神は「何らかの病気」?

「辞任については何かの記事で読んだ気がするけれど、確かに理由までは書かれていなかった」

「公判の途中なら、負担が大きいとか体調が悪くなったとかの理由が考えられる。でも結審した後の辞任です」

「ということは……」

「死刑判決が出されることは、その時点で確実です。でも複雑なこの事件について、自分は死刑を宣告できるほど理解できていないし、結果に納得できているわけでもない、という思いがあったのではないか」

「つまり抗議の意を示したかった」と僕は言った。だから結審後に辞任した。でもメディアは二人に取材しない。裁判員の守秘義務がハードルになっていることは確かだが、もしも取材して二人が判決についての違和感を口にするならば、植松の死刑判決に(自分たちメディアが)水を差すかのような印象を持たれてしまう、と考えて抑制した可能性もある。篠田が静かに言った。

「そうした要素も含めて、もっと議論されるべき要素はたくさんあったと思います。確かに裁判員に選ばれた人たちからすれば、何ヵ月も拘束されることは大変だけど、そのために裁判自体をこんな形で終わらせてしまうならば、明らかに本末転倒だよね」

日本の裁判は判例を非常に重要視する。今後はこれが前例となる。ならば今後の刑事司法は、特に大きな事件になればなるほど、被告人を死刑に処するためのセレモニーと化する度合いが強くなる。そしてその際に、精神鑑定はどんな役割を果たすのだろう。その質問に対して篠田は、「私は植松と何十回も面会して手紙もずいぶんやりとりしたけれど」と言ってから、数秒だけ沈黙した。

「……そのうえで思うけれど、明らかに彼の精神は、何らかの病気だなという感情を抱いています」

「つまり精神耗弱?」

「法廷で争われる刑事責任能力とは少し違う。法廷における精神鑑定は、あくまでも刑事責任能力があるかどうかの結論を導くための素材としてのみ使われるので、本当の意味で植松の精神状況についてはわからない。仮に精神的な障害があったとしても、現場でその行動を自分で理解する力があったかどうかなどを考慮しながら責任能力は判定されるので、もしも病気があったとしても、すぐに責任能力の否定とはならない。そもそも裁判では、責任能力があるかないかについては、絶対にどちらかに結論を出さなければいけいない。二者択一です。ならば国民感情が前提になる」

「つまり無罪は絶対にありえない」

犯行1年前くらいからおかしくなった

少し間を置いてから、「……例えば森さんと一緒に面会したときだけど」と篠田は言った。「あの頃の植松は、初めて会う人にはほぼ必ず、まもなく首都圏は壊滅するから地方へ避難したほうがいいと勧めていたのだけど、そういう妄想のようなものが、私が会ってきた2年半でどんどんひどくなっている。自分を日本を破滅から救う救世主なのだと考えて彼は事件に突き進むのだけれど、病気と考えないと理解できない要素が多すぎる」

「例えば宮崎勤とか、これまで篠田さんが会ってきた多くの死刑囚の中には境界線上の人はたくさんいたと思うけれど、その中でも植松は特に異常な感じがする、ということですか」

「宮崎にも何回も面会して、彼も明らかに病気だったと私は今でも思っています。植松は宮崎とはタイプが違って、普通の会話では筋が通ったことを言うのだけど、話の全体を考えると意味がわからない。病気と考えなければ理解できないような要素が多すぎるんです」

そこまで言ってから、篠田は小さく吐息をつく。「その意味でいうと、弁護側は負けたけれど、それなりに頑張って病気であることの立証に努めたと思います。植松の友だちの証言をいっぱい出したんです。そのほとんどが、犯行前の一年くらいで急激に言動がおかしくなったと言っている。ならばそれは人格じゃないです。何らかの病気と考えた方が理解できる。私も弁護側が出した証言を法廷でずっと聞いていて、印象が変わりましたから」

「たった一年で急激に変わったことについて、裁判所が正式に採用した精神鑑定はどのように説明していますか」

「急激に変わったという認識はしていないようで、診断は自己愛性パーソナリティ障害。病気でなく人格障害という認定ですね。責任能力ありという結論を導くために、いつも使われる概念です」

「でも本来なら、それに対抗しなければいけない弁護団の主張と鑑定は大麻精神病です」

日本における大麻の扱い

僕のこの言葉の意図を察した篠田が、「あれもねえ……」と少しだけ困ったようにつぶやいた。「大麻精神病は措置入院のときの診断名だけれど、犯行前の診断としてはともかく、事件が起きた後に大麻とあの犯行を結びつけるのは、専門家のあいだでも無理があるというのが一般的らしいですね」

僕が植松に面会したとき、「森さんはいろいろ世界各地に行っているみたいですが、大麻は経験ありますか」と質問されて「何度も吸っています」と答えたことは、この連載の一回目で書いた。直近では三年前。ロッテルダムの映画祭に招待されたとき、映画祭の現地スタッフたちと一緒に大麻カフェに行った。外国人の場合は入口でパスポートを見せてジョイント(紙巻大麻)を一本買う。あとはテーブルに座ってコーヒーを飲みながら、ジョイントにライターで火をつける。

オランダでは大麻吸引は違法行為ではない(正確には、国ではなく自治体が認めるという法体系らしいが)。しかし日本の大麻取り締まり法第24条の8には、「何人であるかを問わず、日本国外でこの法律が定める栽培、輸出入、その予備、その資金提供、所持、譲受け、譲渡し等の周旋の各罪を犯した者に対してはこの法律が適用される」と書かれている。ならばオランダで大麻を吸ったことをこの連載で公開する僕は、今後処罰されるのか。

よくわからない。結論から書けばグレイゾーンだ。オランダから帰国してこのときの体験を書こうとしたら、検挙される可能性があるからこの個所は割愛してくださいと担当編集者から言われて驚いた。だってオランダでは違法じゃないよ、と言えば、最近は法の解釈が変わって外国でやったことでも処罰されるとの説があります、と編集者は説明した。

でも少なくとも僕は、「栽培、輸出入、その予備、その資金提供、譲渡し等の周旋」はしていない。使用しただけだ。「所持」「譲受け」については、言葉の意味を普通に解釈すればグレイかもしれない。

ただし日本でも、大麻の「所持」は違法だが「使用」は違法ではない。これもよくわからない。大麻を「使用」したあなたは、そのときに大麻を手にして(所持)していたはずだ。手に持ったことは所持ではないのか。誰かに持ってもらえばセーフなのか。その場合はその持った誰かが、違法行為をしたと見なされるのか。専門家に訊けばわかるのかもしれない。でもその気になれない。このややこしい曖昧さが本質であると思っている。

ただしややこしくて曖昧な法制度になった理由はわかる。大麻は日本人の生活に溶け込んでいる。伝統的に(特に神道系の)宗教儀式によく利用されてきた。神社の注連縄や大相撲の横綱が締める綱は大麻草だ。皇室の最重要な儀式である大嘗祭の際にも、即位する天皇が着用する麁服は大麻で作られる。そもそも都道府県知事が交付する「大麻取扱者」免許があれば、大麻は栽培することができる。海外では医療大麻の使用を認める国が多いから、個人輸入した医薬品に成分が含まれている可能性は少なくない。七味唐辛子には麻の実が入っている。ただし麻薬成分であるTHC(テトラヒドロカンナビノール)は、葉と花穂に多く含まれている。実は微量だ。微量ではあるが多少は含有している。つまりうどんに七味唐辛子をたっぷりかけて食してから検査されたら、陽性反応が出る可能性がある。だから使用(検査の結果)だけでは、違法とすることができないのだ。

そもそも大麻使用が合法であるオランダで使用したことが帰国後に咎められるのなら、日本人はラスベガスやマカオのカジノには行けなくなる。アメリカの射撃場で銃を撃っても帰国したら罰されることになる。さすがにそれはおかしいと多くの人は思うはずだが、大麻に関しては微妙だと思う。

……ここまで長々と大麻について書いたことには理由がある。弁護団は犯行時の植松を大麻精神病によって心神喪失状態であると主張した。最初にこれを聞いたとき、僕はとても強い違和感を持った。もちろん個人差はあるかもしれないが、少なくとも僕の知る範囲では、大麻で攻撃性が高揚したという話は聞いたことがない。違和感の理由はもうひとつ。仮に大麻精神病が認められたとしても、精神に変調をきたすことを承知で薬物を摂取したと解釈されて罪を軽減されない判例が、最近は多いのだ。ならば大麻を理由にすることは意味を持たない。篠田が言った。

「大麻精神病の境界線はどこにあるのか、それは刑事責任能力とどのように結びつくのか、そのあたりはよくわからない。とにかく今の裁判所は、大きな事件の場合は特に、責任能力はあったと結論づけますね。つまり国家意思を体現しようとする傾向が強くなった」

「あるいは社会のバイアス」と僕は言った。小さくうなずいてから、「その結果として法廷が、本来の意味で機能しなくなる」と篠田は言った。「解明しなければいけないことが解明されない。その傾向は明らかに進んでいます」

(つづきはこちら: 植松聖はヒトラーに影響されたのか? マスコミが報じなかったこれだけのこと)

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