浦和レッズのレジェンド山田暢久が振り返る現役時代。「ドイツ人監督は苦手な人ばかりでした(笑)」

浦和レッズのレジェンド山田暢久が振り返る現役時代。「ドイツ人監督は苦手な人ばかりでした(笑)」

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  • 更新日:2022/06/23

元浦和レッズ・山田暢久インタビュー 後編

前編「山田暢久が選んだ歴代日本人サイドバックトップ10」を読む>>

◆【画像】少年サッカーコーチを務める現在の山田暢久氏と、2006年浦和レッズの懐かしの優勝シーン

現役引退をしてから9年近くが経つ、浦和レッズのレジェンド選手、山田暢久氏。インタビュー後編では、引退後の活動と、キャリア20年に渡る浦和での思い出を語ってもらった。

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現在は埼玉県内で少年サッカーチームのコーチを務めている山田暢久氏

監督は試行錯誤の繰り返しだった

――2013年に浦和レッズで現役を引退して9年が経ちましたが、現在はどのような活動をされているんですか?

昨年まで神奈川県社会人サッカーリーグ1部のイトゥアーノFC横浜というクラブで監督をしていました。今は埼玉県のガナドールFCという少年サッカークラブで、小学生のコーチをしています。子どもたちはかわいいし、成長を見守るのは楽しいですよ。

――山田さんはコーチや監督など、指導者の道はもともと考えられていたのでしょうか?

正直、そこまで考えてはいませんでした。でも興味がないわけではなかったです。浦和の時も、スカウトをやりながらユース年代の指導を手伝わせてもらっていました。イトゥアーノやガナドールも話をいただいて、経験としてやってみようと思ったのでやらせていただきました。

――社会人リーグの監督経験はいかがでした?

2019年から3シーズンやらせてもらって、徐々に順位は上がってはいましたけど難しかったですね。僕と選手たちとのサッカーの基準に大きなギャップがあって、最初は「これができないのか」「ここまで言わないと伝わらないのか」という戸惑いがありました。そこをどうするか、試行錯誤の繰り返しでした。

――その試行錯誤では、どんな工夫をされてトレーニングをしていたんですか?

結局、選手たちができるメニューにグレードを落として、そこから徐々に上げていくしかなかったです。2年目くらいからコーチがつくようになって少し楽になりましたが、それまで全部ひとりでやるしかなくて大変でした。

フルピッチでの練習はなかなかできないし、選手たちは仕事や大学があるので練習は夜になるし、選手が全員揃って練習できることがない。先発メンバーで「こういう練習がしたい」と思ってもできないんですよね。でも、そうしたなかで選手たちが成長していく姿を見るのは嬉しかったです。

――試合には、浦和のサポーターも見に来てくれていたみたいですね。

来ていただいていましたね。イトゥアーノでの最初の試合が、永井雄一郎(元浦和レッズ)がプレーしていたFIFTY CLUB(当時)との対戦だったんです。その時は結構サポーターの方が見に来てくれました。

――山田さんも選手兼任でやっていたんですか?

そうですね。公式戦に出させてもらったこともありましたけど、ケガしちゃったんです。浦和時代はほとんどケガをしなかったんですけど、引退してから前十字靭帯を2回切って、2回手術しました。それ以降、選手はやっていないです。

――かなりつらいケガでしたね。今後、またどこか監督できるクラブを探されたりしますか?

そこまでは考えていないです。でもタイミングとか、縁があればやってみたいという気持ちはあります。それはその時、考えればいいかなと思っています。

リーグ初優勝は僕のなかで特別

――山田さんは1994年にデビューして、浦和がなかなか結果が出なかった時代から、さまざまなクラブの歴史を選手として見てきたと思います。そのなかでとくに心に残っている年はありますか?

浦和がリーグで初優勝した2006年ですね。そのほかにも翌シーズンにはACLを優勝したり、2003年にナビスコカップで優勝して浦和が初めてタイトルを獲得したり、2004年はセカンドステージを優勝してチャンピオンシップでマリノスに負けたり、2005年は天皇杯で優勝しています。浦和が一気に駆け上がっていった時代でした。

でも、やっぱりリーグの初優勝は僕のなかで特別で、もっとも価値があるものだと思っているんです。そのためにずっとやっていたと言っても過言じゃなかったですね。

――2004年にクラブのOBでもあるギド・ブッフバルトさんが監督に就任してから浦和が次々とタイトルを積み上げて、最初の黄金期という時代でしたね。

社長がまだ犬飼基昭さんの時代でした。それまで浦和はいろいろな環境がよくなかったんですけど、クラブハウスを新しくしてくれたり、優勝を狙うための選手を集めてくれたり、クラブが本気で力を入れてくれた頃だったんです。

――山田さんがキャプテンマークを巻くようになったのもこの頃でしたよね。

あれは僕が日本代表の合宿で、宮崎に行っている時だったと思います。ギドから電話がかかってきて、日本語で「キャプテンお願いします」と言われたんですよ。

僕はのびのびやりたくて、あまりキャプテンとか、そういう責任を負いたくないタイプだったんです。でもギドに直接、しかも日本語でお願いされてしまったら断るわけにもいかないですよね。だから、一瞬だけ考えましたけど「わかりました」と引き受けました。

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キャプテンとして優勝のシャーレを掲げた2006年は、やはり特別な思いがあるという photo by Getty Images

――キャプテンとして浦和に初のリーグタイトルをもたらすことができたのは、やはり特別な思いがありましたか?

優勝したからこそ、よかったと思えますよね。あれで優勝してなかったらどうなっていたかわからない。でも結果として多くのタイトルを獲得できて、キャプテンの特権としてシャーレやカップを掲げることができて、それは本当にいい経験をさせてもらったなと思っています。

――リーグ優勝した時の心境はどんなものだったんですか?

僕が入団した当時は、お荷物クラブと言われていましたからね。まさか優勝できるようなチームになるなんて思ってもいなかった。ただ、クラブが本気で優勝を狙うんだと意思表示をして、それを行動でも示してくれたので、プレッシャーを感じることもありましたね。でもいま思い返すと、優勝するまで長かったなと思います。

PKは嫌だった

――環境がよくなったという話でしたが、埼玉スタジアムをホームスタジアムとして使うようになってきたのも2003年頃からでしたよね。埼スタになったことの影響を感じましたか?

サッカー専用のあの規模のスタジアムは、今でも国内ではなかなかないですからね。ただ、使うようになった当初は、芝がまだ根付いていなくてめくれてしまって、ピッチ自体はそんなにいいものではなかったんですよ。

でもサポーターは近いし、キャパシティはものすごく大きいし、いい環境でやれるようになったと思っていました。実際、優勝した年はホームで負けなしだったと思うので、埼スタっていいなと思っていましたよ。

――埼スタの後押しは、ACLを優勝した2007年も印象的でした。残念ながら山田さんはケガで決勝には出られなかったんですよね。

肉離れをして出られなかったんですよ。あの場にいられなかったのは本当に残念でした。もしあの場にいられたらなって考えることは結構ありましたね。

――決勝のセパハン戦ももちろんですが、準決勝の城南一和戦もPK戦までもつれこむ死闘でした。

あの頃の城南は本当に強かったですよ。韓国勢とやると、削り合いみたいな試合になりがちですけど、城南はそんなことなくて、フィジカルが強く、本当にいいチームでした。「よく追いついてPKまでいけたな」と思いながらプレーしていたのを覚えています。

――PK戦での埼スタの雰囲気は凄まじかったです。

すごかったですね。でも僕はPKを蹴りたくないって、自分から外してもらいました(笑)。PKは好きじゃないんですよね。昔はリーグ戦でも延長、PK戦があったので嫌でした。

今でも思い出すのが名古屋グランパス戦でPKになって、お互い14人蹴って2巡目が回ってきたことがあったんですよ。当時、選手としてプレーしていたギドが2回とも外して負けたんですよね(笑)。

――そんなことありましたね。思い出深い年で2006年を挙げてもらいましたが、逆に「この年はつらかったな」という年はありますか?

それはいろいろありますよ。1997年のホルスト・ケッペル監督時代に、僕は半分くらいサテライトのほうに行っていました。サテライトはグラウンドがなくて、河川敷でゲートボールのおじいちゃんたちより早く行って、グラウンドを確保しなければ練習ができないとか。2部練習の時は、公園の水道で体を洗って汗を流さなくちゃいけなくて、つらかった思い出です(笑)。

あの頃はトップチームでさえ、クラブハウスがプレハブだった時代ですからね。それから引退した最後のシーズンは、自分自身ではまだやれると思っているのに試合にほとんど絡めなかったことは、選手としてつらかったです。

じつはドイツ人監督は苦手だった(笑)

――2012年にミハイロ・ペトロビッチ監督が就任して、世代交代が進んだ頃でしたよね。

そうですね。世代交代はいつかくるものですけど、それに対して気持ちが噛み合っていなかったのでつらい時期でした。

――浦和はギドさんやその後のホルガー・オジェックさんなど、ドイツ人監督のもとで一時代を築いたイメージがありますが、山田さん的にはドイツ人監督との相性はいかがでした?

僕は基本的に苦手な人ばかりでした(笑)。ヨーロッパ系の監督は「練習でも100%を出せ」というタイプの人たちばかりなんですよ。だから僕みたいな選手は、手を抜くとすぐ見抜かれて結構怒られていました。ギドが選手として最初に入ってきた時も「ウェイクアップ!」とよく怒られていましたね(笑)。

――ギドさんが監督として浦和に戻ってきた時は、どんな心境だったんですか?

それは嫌でしたよ。だって僕のこと、いいところも悪いところも知っているじゃないですか(笑)。でも結果も出ていましたし、チームとしてはよくなったと思います。

ただ、浦和は昔からそうなんですけど、成績が悪くなってきたら監督が変わって、別の国の監督を連れてきたりしますよね。だから浦和としてのプレースタイルが確立されていないので、大変だろうなと思いながら見させてもらっています。

――現在はリカルド・ロドリゲス監督のもとで、そのスタイルを確立しようと頑張っているところですが、結果という面でちょっと苦労していますよね。

いいサッカーはしていると思うんですけど、結果を出しつつやらなければいけないのはすごく大変なんですよ。ただ、運がない部分もあると思います。僕らがJ2に降格した時は「どこまでもついてないな」ということが続いたので、そうならなければいいなと思いますね。

――最後に今の浦和へメッセージはありますか?

今はうまく結果が出ずに苦戦している時期ですが、選手たちは頑張っていると思います。今のクラブスタッフには選手を経験してきた人たちが入ってきていて、その人たちがこれからクラブをどうしようと思っているのか。

そのビジョンはいろいろとあると思いますけど、まずは選手がサッカーに集中できて、選手にとっていい環境をたくさん作ってあげてほしいなと思います。

山田暢久
やまだ・のぶひさ/1975年9月10日生まれ。静岡県藤枝市出身。藤枝東高校から1994年に浦和レッドダイヤモンズに入団。主に右サイドバックを中心にあらゆるポジションを務め、2013年シーズンまで浦和一筋でプレーしたレジェンドプレーヤー。J1通算501試合出場25得点。J2通算39試合出場2得点。日本代表国際Aマッチ15試合出場1得点。引退後は浦和のクラブスタッフや社会人リーグの監督を務め、現在は少年サッカーチームのコーチをしている。

篠 幸彦●取材・文 text by Shino Yukihiko

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