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「日本にマクドナルドを持ってきた男」藤田田がゴルフの代わりにやっていた"驚きの趣味"

「日本にマクドナルドを持ってきた男」藤田田がゴルフの代わりにやっていた"驚きの趣味"

  • PRESIDENT Online
  • 更新日:2021/07/21

日本マクドナルドの創業者、藤田田は米国発祥のハンバーガーを初めて日本に持ち込んだ人物だ。日本での販売権を欲しがる実業家は何百人といたが、藤田はその中からどうやって権利を勝ち取ったのか。生前の彼を取材したノンフィクション作家の野地秩嘉さんが書く――。

※本稿は、野地秩嘉『あなたの心に火をつける超一流たちの「決断の瞬間」ストーリー』(ワニブックスPLUS新書)の一部を再編集したものです。

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写真=時事通信フォト1999年1月21日、株式公開について記者会見する日本マクドナルドの藤田田社長(中央)(東京・丸の内の東商記者クラブ) - 写真=時事通信フォト

米食の日本を「ハンバーガー消費大国」にした男

藤田田(でん)は日本マクドナルドの創業経営者だ。それだけではない。日本人にファストフードとしてのハンバーガーを教えた先駆者でもある。

彼の決断とはなんといっても銀座三越の1階に第1号店をオープンしたことだろう。

第1号店は開店とともに若者をはじめとする客が押し寄せ、大成功だった。しかし、翌日の毎日新聞にはこんな記事が載った。

「インスタントラーメンでさえ、関東、関西で味が違うという“味”にうるさい日本人に、はたしてこのアメリカ的“味”の押しつけが受けるかどうか――。(略)
日本人の感覚だと『郷に入れば郷に従え』で、どこも同じ味ではどうみても食欲がわかない気がするのだが……。とはいってもコーラの前例もある」(1971年7月21日)

このとき、藤田田は45歳だった。同じ年、藤田は総理大臣、佐藤栄作(安倍晋三前首相の大叔父)からこんなことを訊ねられた。

「藤田君、ハンバーガーというのはシュウマイみたいなものか」

それくらい、日本におけるハンバーガーの認知度は低かった。不毛の地だった日本に、種を蒔き、水をやり、縄文文化以来の米食民族をハンバーガー消費大国にしたのが彼、藤田田だ。

「東大はバカと変態性欲の集まりだった」

1926年、藤田は大阪の千里山に生まれた。父は外資系企業に勤める電気技師、母は教育熱心なクリスチャン。

「田(でん)」という変わった名前は母親がつけた。息子が敬虔なクリスチャンになるように、言葉を発する「口」という字の中に「十」字架を加えたのだという。

旧制北野中学、旧制松江高校という名門校を経て、戦後の48年、東京大学法学部に入学する。

高校、大学で同窓だった友人によれば、「高校のときも大学のときも頭は抜群に良かった。秀才というより、発想に優れた天才だったが、受験勉強とか学校秀才を徹底的に馬鹿にしていたから周囲からは敬遠されていた」。

藤田は当時のことをこう言っていた。

「東大の法学部とは天下の英才が雲霞(うんか)のごとく集まっているところに違いない、一生懸命勉強しないと置いてけぼりを食っちゃう。つまり、若き日の私はガリ勉のオタクだったわけだ。

ところが入ってみたらバカと変態性欲の集まりでね。子どものころから勉強ばかりしていて女の顔も見たことないから、マスターベーションの話をしてる奴ばかり。そういうのがみんな高級官僚になったり、大企業に進んだ。まともな奴はひとりもいなかった……。だが、向こうも僕のことを変人だと思っただろうが」

平凡と俗人を嫌い、在学中にGHQへ

「学校にいてもつまらんから、マッカーサーの司令部へ行って、雇ってくれないかと頼んだんだ。採用試験があって、それで下士官や兵隊相手の通訳になった。

今の大蔵省(現・財務省)のビルは当時ファイナンスビルといってね。部屋代の節約と英語の勉強のために、僕はビルの地下に寝泊まりして軍曹や伍長の通訳を3年間やった。学校へは行かなかったが、成績は良かったよ。卒業のころには大蔵省から入省通知も来たくらいだ。

しかし、もし入っていたら、3日でクビだったな。公務員というのは前例のないことはやりたがらないが、僕は前例があることはやりたくないんだから。それにあそこにも変態性欲者がいるから、そいつらにクビにされたに決まってる」

平凡を嫌い、俗人を馬鹿にする傾向のある彼にとっては東大法学部は面白味のないところだったが、しかし、退学する気もなかった。

東大というパスポートの重みは現在とはまったく違った。自分自身に実力がつき、東大卒の肩書が必要なくなるまで、とりあえず持っていても悪くはないと計算したのだろう。

この辺り、ずる賢いとも表現できるし、また、懐の深い冷徹な考えを持つ大人とも形容できる。

そんな彼を変えていったのがGHQで触れたアメリカの文化だった。ハンバーガー、コンビーフ、コーラ、クリームソーダといった食文化、冷蔵庫、タイプライター、大きなアメ車といった豊かな物質文化、そしてキリスト教文化……。

敗戦を経験した23歳の藤田青年にとっては、じかに触れたアメリカとアメリカ人は魅力的だったのである。

商売の原点となったユダヤ人軍曹との出会い

東大在学中だった24歳のとき、通訳をやりながら、貿易商社「藤田商店」を設立する。主な仕事は米軍のPX(軍の売店)に雑貨や食料品を卸すことだった。

創業のきっかけはひとりのユダヤ人軍曹との出会いだった。ユダヤ人軍曹は機転の利く藤田をかわいがり、商売のコツを教えた。

卒業するころには藤田も「大企業に入って見栄を張るよりも金を儲ける」ことが人生の目標となっており、就職しようという気は消え失せていた。

「親しくしてたウイルキンソンという軍曹がいてね、下士官なのに将校よりいい服を着て、いい車に乗って、下北沢に大きな家を構えて、べっぴんの女まで囲ってた。他の兵隊に『どうしてだ?』と聞いたら、あいつはジューだから金貸しで儲けてる、と眉をひそめる。

僕は本人のところにジューってのは何だと聞きに行ったんだ。すると『ジューとはユダヤ人だ。俺たちは神に選ばれた優秀な民族で、ジェンタイルはバカだ』

ジェンタイルとはユダヤ人以外全員だから、僕ももちろんバカの中のひとりに入ってた(笑)」

「ウイルキンソンはいつもノートに金額つけて給料日になると他の兵隊から集金する。金貸しで大切なのは『大金は貸さない』こと。10ドルか20ドルといった少額にすれば貸し倒れは少なくなる。手間はかかるがリスクも少ない。それがユダヤ人のビジネスの基本なんだ。彼らにとって一攫千金はビジネスじゃない。『あっちから100円、こっちから200円』とこつこつ集めるのがビジネスで、それだけは忘れるな、と仕込まれた」

いきなり満塁ホームランを打とうなんて発想が間違っている

「また、少し後のことだが、藤田商店ではダイヤの輸入もやっていたんだ。あるとき、シカゴの『マッソーバーブラザーズ』というディーラーへ約束した時間に行ったら、一時間も待たされた。実はこれから結婚するというヤングカップルが来てダイヤを買いたいというので相手をしていたから遅くなった、申し訳ないと言う。

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写真=iStock.com/Thurtell※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Thurtell

僕は、『あんた、そんなゴミみたいなダイヤを買う客を相手にするな』とつい口がすべった。

すると、『ミスターフジタ、あなた、そういう精神じゃ成功できない。小さなダイヤを一個買いに来た客をいかに大切にするかが成功するかしないかの別れ道なんだ。

そりゃヤングカップルだから今年は小さなダイヤかもしれない、しかし来年そのダイヤを原価で引き取ったら、彼らはほんの少し大きなのを買ってくれる。そして毎年、少しずつ大きなのを買ってくれるようになって何十年も経ったらずいぶんと大きなダイヤを買ってくれる。ビジネスというのは小さなことの積み重ねなんだ。いきなり満塁ホームランを打とうなんて発想が間違ってる』と、金貸しのウイルキンソンと同じことを言われた。

ウイルキンソンに会ってから僕は少額の積み重ねを大事にするようになった。マクドナルドもそうでしょう。ハンバーガー一つ売って10円、20円の商売をやってるんだから」

「敗者の美学」なんてビジネスの世界にはない

ユダヤの商法を見習い、藤田は貿易商としての仕事に打ち込んだ。扱い品は主に婦人向けの雑貨と宝石。「女と口」を狙うのが儲けるコツ、これまたユダヤ人から習ったことである。

クリスチャン・ディオールのハンドバッグ、スワロフスキーのクリスタルといったブランド物を初めて輸入したのも彼だ。

マクドナルド、玩具の小売である「トイザらス」、貸しビデオの「ブロックバスタービデオ」、ネクタイの小売「タイラック」といった海外ビジネスを日本に紹介し、かつ経営者として腕を振るう、始まりは藤田商店だった。

そして、彼のビジネスには共通するテーゼがある。それは「勝てば官軍」というもの。

「敗者の美学」は文学の世界だけで、ビジネスの世界では百害あって一利なし。文学でメシは食えないし、金儲けはできない。

藤田は金儲けにまい進した。それも、死ぬまで、である。

「金銭に倫理観やイデオロギーを絡ませるな」

「日本人は『金』といえばすぐ綺麗な金とか汚い金などといって金儲けを軽蔑する。しかし、資本主義社会では金がすべてで、金さえあれば人生の問題の99%が解決する。

金銭に対して汚いという感想を持つのは、言い換えれば『法』を守っているかいないかという一種の倫理観からきているんだ。

けれども、その倫理観は法は完壁だという思い込みの上に成り立っているだけだよ。だって、法律とはどんなものでも人間が作ったものだから、万人に等しく適応して100%完璧ということは絶対にありえない。いかなる秀才が知恵を絞っても、完全な法律を作り、それですべての人間を規制することなんかできっこない。必ず規制できない穴がある。

アメリカではその穴をループホールと呼ぶ。ループホール専門の弁護士さえいるくらいだから合法なんだ。そしてアメリカ政府はループホールを突いてくる人間が多くなったら、また法を修正してゆく。この繰り返しだよ。アメリカ人は法を完璧だなんて思ってないんだ。

とにかく金銭に倫理観やイデオロギーを絡ませることなく、全力で金儲けに体当たりすること。それに尽きる。

『世の中で金と女は仇(かたき)なり、早く仇に巡り合いたい』という戯れ歌があるが、誰でも本音は早く仇に巡り合いたいんだ。本当だ」

マクドナルド創業者が日本進出に藤田を選んだワケ

藤田がマクドナルドの存在を知ったのは1967年、41歳のときだった。マクドナルドは日本進出を考えていたのだが、当初、藤田は名乗りを上げるつもりはなかった。

そのころ、藤田商店で十分な利益を上げていたし、食品事業の経験もなかったので、ファストフードチェーンの経営に乗り出すつもりはなかったのである。それに彼の耳にはダイエーの中内㓛が権利を手に入れるだろうとの噂も入っていた。

しかし、シカゴでマクドナルドの創業者、レイ・クロックと出会ったことがその後の人生を変える。

「僕はハンバーガーが好きでこの仕事を始めたわけじゃない。好物はきつねうどんだもの。ハンバーガーよりうまいでしょう。

シカゴに行ったとき、レイ・クロックさんに会って、話をしていたら、突然、『フジタ、お前がこの仕事をやらないか』と誘われたんだ。

彼に『なぜ私にやれと言うのか』と尋ねたら、そこにあった箱いっぱいの名刺を指差す。そして『私はマクドナルドをやりたいという日本人には何百人も会った。しかし、みんなぼんくらばかりでどうしようもない。しかし、フジタ、お前はやれる』と言う。

でも、僕は口に入れるものを扱ったことはないと断った。そしたら、いや、そんなことはどうでもいい。あんたは今まで会った日本人が持ってなかったものを持ってるという」

販売権を勝ち取った“ある一言”

「考えてみたら、それは僕が冗談ばかり言ってることなんだよ。外国人に言わせればほとんどの日本人はユーモアがない。外国人に冗談を言われても切り返せないから、すぐ怒るか、それとも緊張してしゃべれなくなってしまう。

クロックさんは『成功さえしてくれれば、後は何も望まない』とまで言ってくれた。しかし、それでも僕はまだ返事しないんだ。そこが普通の人と違うところだね。実に疑り深い性格をしている。

帰りにハワイに寄って、生まれて初めてハンバーガーを食べた。僕自身はおいしいとは思わなかったが、一緒に行った若い社員が『社長、こんなうまいもんおまへんで』と、ビッグマックを2つも食っちゃった。周りを見渡したら、その店は日系人の2世、3世でいっぱいなんだ。

よし、日本でハンバーガーを売れば必ず儲かると、やっとそのとき、確信した」

以上は藤田が表向きにした「なぜ、私がマクドナルドの権利を取れたか」である。

しかし、彼はわたしに「ほんとはね。クロックさん個人に金をあげると言ったんだ」。

レイ・クロックという人もまた一筋縄ではいかない男だ。藤田が言った「ほんとうのこと」が真実だろうとわたしは思う。というより、おそらくそれが正しい。

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写真=iStock.com/blanscape※写真はイメージです - 写真=iStock.com/blanscape

「変人」「金の亡者」というイメージが強いが…

さて、マクドナルドは成功し、日本に根付いた。創立直後こそ、「猫の肉が入っている」といったデマを流されたりもしたが、ハンバーガーにJAS規格を導入し、製品表示することで雲散霧消させた。以後は順調に成長し、1982年には日本の外食産業でトップに立ち、そのままである。

2003年、藤田はトップを退任した。その後、一時の不調もあったが、日本マクドナルドはコロナ禍でも最高益を叩き出している。

晩年まで、彼は意欲的に仕事をした。しかし、彼個人に対するイメージは決して良くはない。「変人」「奇人」が定評で、「金、金、金の我利我利亡者」といったことを言う人もいる。顔を見るのも声を聞くのも嫌だという人間も少なくない。しかし、彼のキャラクターは善か悪かといった二面的なものではなく、遥かに複雑なものだ。

高校時代からの友人は住友銀行の大阪本店部長代理時代に、藤田の担当をしていた新橋支店長から「頼む、東京に来てくれ」と依頼されたという。

新橋支店長は接待されることを嫌っていた藤田にどうしても食事をご馳走したかったのである。

ゴルフをバカにする藤田がやっていたことは

高校時代の友人は打ち明け話をした。

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野地秩嘉『あなたの心に火をつける超一流たちの「決断の瞬間」ストーリー』(ワニブックスPLUS新書)

「僕に頼まれたんじゃ仕方ないと言いながら、藤田は初めて銀行の接待に応じたんです。その席で藤田は『何かスポーツをやってるか』と尋ねてきた。僕がゴルフと答えたら、あの毒舌で『お前はアホとちゃうか』とこうきた。

それで、じゃお前は何かやってるのかと聞き返したら、胸を張って言うんだ。朝刊だけ新聞配達をやってる、と。あのころ、同じ年だから彼もすでに40歳を過ぎてましたよ。

それで、新聞配達には3つの得があるという。雨の日も風の日も走って配達するから体にいい。次に社会に奉仕しているという満足感がある。そして最後にゼニが入る。か弱い女性にクラブ担がせるゴルフなんてスポーツに金使うのは頭のいい人間のやることじゃない……。

表には決して出さなかった「素顔」

彼らしいなと思ったが、たいていの人間は40歳を過ぎて新聞配達をやる社長を変わり者だと思うでしょうな。

しかし、話はこれからです。彼はそのアルバイト料を自分のポケットには入れずに、一緒に働いていたアルバイトの学生にあげてたんですよ。こんなことを知ってるのは彼の奥さんと私くらいでしょう。それを言ったら、照れ臭そうな顔して、俺は多少の金なんか貰ったら、確定申告で面倒なんだと言い、そして絶対に誰にも漏らすなと……。他人にいい人だと思われるのが嫌なんですな。結構、寄付もやってるんだが、それも表に出さない。

しかし、藤田も僕ももう70歳を越えてるでしょう。藤田が変人だとか守銭奴だとか悪口ばかり言われてそれで死んでしまったら、友人としては耐えられない。誰かがあいつの素顔も話してやらないと」

(『プレジデント』1997年7月号に掲載されたものを加筆修正)

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。noteで「トヨタ物語―ウーブンシティへの道」を連載中(2020年の11月連載分まで無料)
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野地 秩嘉

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