未だ破られぬ「史上最速1000奪三振」の藤川球児、グラブに刻んだ「3文字の秘密」

未だ破られぬ「史上最速1000奪三振」の藤川球児、グラブに刻んだ「3文字の秘密」

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2021/02/22
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昨年、惜しまれつつ現役を引退した、阪神タイガースのレジェンド・藤川球児さん。そんな彼が、魔球「火の玉ストレート」の誕生秘話から、メジャーでの苦闘の真相まで、すべてを語り尽くした著書『火の玉ストレート プロフェッショナルの覚悟』が出版された。ファンを大いに沸かせた、2016年の阪神タイガース復帰。しかし一時は、本気で引退を考えるほどのスランプにおちいったという。一体どのようにして、スランプを打破したのか? 当時を本人に振り返ってもらった。

不思議な縁に導かれて……

2015年11月、僕は阪神と2年契約で合意し、再びタテ縞のユニフォームに袖を通すことになった。阪神では、FA制度によってメジャーリーグに挑戦した選手が復帰した例は、かつてなかった。

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仮に、僕が自由契約選手として渡米していたら、日本のプロ野球界への復帰に際しては、以前に所属していた球団、つまり阪神の了承が必要になる。僕が他球団への入団を希望しても、阪神が認めてくれなければ実現しない。復帰できるとすれば、事実上、阪神以外に選択肢はなかった。

しかし、海外FA権を行使して渡米した場合、そうした手続きの必要はない。オファーさえあれば、どの球団と契約しようが、選手の自由だった。実際、僕はいただいた複数のオファーのなかから、阪神を選んだ。僕は、阪神に拾ってもらって復帰したわけではなかった。

そうした意味でも、僕に出戻りという意識はなかった。僕は、前だけを見て1本の道を走り続けたにすぎない。

その過程で、かつて通過した道を通った。そういう認識に近い。同じ道を再び通ることになったのは、そこを通らなければ、僕がめざしている終着点にたどり着けないからだ。

道に迷ってUターンしたわけでもなければ、バックで戻ってきたわけでもなかった。

3年前に通り過ぎたとき、僕はもう二度とこの道を走ることはないだろうと思っていた。

しかし、不思議な縁に導かれるようにして戻ってみると、なぜか少し新鮮な印象だった。

まわりの景色は懐かしく、僕の心はやすらいだ。沿道にはたくさんの人たちがいて、僕を待っていてくれた。それは、僕の大好きな道だった。

本気で引退を考えていた

金本監督が僕に期待したのは、先発投手としての役割だった。ただ、チーム事情や僕のコンディション次第でリリーバーに起用される可能性があることは、当初から僕にもわかっていた。チームに貢献できるのなら、どういう役割を与えられても投げるつもりでいた。

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先発のマウンドは星野監督の時代以来となるが、ブランクの長さをカバーするだけの経験は積んでいた。翌2016年の開幕を間近に控えたころ、オープン戦で先発のマウンドに立ってみると、リリーバーとは違う独特の感覚がよみがえってきて、僕はどうにかやっていけそうな気がした。

復帰後、はじめての登板となったのは、中日との開幕3連戦の最終日だった。

2003年9月以来、12年半ぶりの先発マウンドである。不安もあったが、僕はひそかな手応えを感じていた。

しかし、思うような結果は出せなかった。88球を投げて4点を失い、僕は5回で降板した。

その1週間後、僕は対横浜戦で復帰後初勝利をあげた。だが、もともとスロースターターで、春先には出遅れがちだったこともあり、その後はなかなか調子が上がらなかった。

先発のリズムをつかみ切れずにいるうち、クローザーだったマルコス・マテオとラファエル・ドリスが戦列を離れ、5月半ばからはリリーバーに転じた。それ以降、僕は状況に応じて中継ぎと抑えを任されるようになった。

夏になると、甲子園での16試合連続無失点という記録は残せたものの、自分のプレーにもどかしさを感じる場面が少なくなかった。

そして、最後まで波に乗り切れないまま、そのシーズンが終わった。5勝6敗3セーブ10ホールドという平凡な成績だった。

じつは、このとき僕は本気で引退を考えていた。もちろん、それまでも僕は自分のボールに納得ができなくなれば、いつでもやめる覚悟ではいた。だが、このシーズンの僕は自分の限界を意識するより、自分の立場が気になってしかたがなかった。

自分がチームの負担になってしまったように思えてならなかったのである。仲間に迷惑をかけるくらいなら、一刻も早くチームを去りたかった。

金本監督の言葉で目が覚めた

「カネさん、僕、やっぱり無理なんじゃないですかね」

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最終戦を控えたある日、僕は金本監督に直接、胸の内を打ち明けた。

「やめたほうがいいんじゃないかって思うんです」

金本監督なら、変になぐさめたりせず、僕がマウンド上で決定的な醜態をさらす前に引導を渡してくれそうな気がしていた。だが、僕の弱音を耳にしても、金本監督の表情に驚いた様子はなかった。

「何を言うてるねん。おまえは去年、ほとんど投げてないやろ」

アメリカから帰国したあと、高知ファイティングドッグスに所属して独立リーグのマウンドには立ったものの、プロの公式戦という意味では、5月、レンジャーズで2試合に登板しただけだった。

「いくらおまえでも、すぐにうまくいくはずはないよ。だから、2年契約にしてもらったんや。やめるなんて、許さん」

金本監督のもとでは、僕に進退の自由はなさそうだった。

「また迷惑をかけるかもしれませんよ」

「いや、おまえよりいいボールを投げるピッチャーは少ないよ。球児、結果が出てないのは、ボールが悪いからじゃない。状況に体が追いついてないからや。おまえ以外は、プロの世界で動き続けてきたやつばっかりやろ。止まった時間を取り戻すのは簡単じゃない。でも、必ず取り戻せる。落ち着いてやれ」

そう励ましてくれた金本監督の言葉に、僕は思い当たるものがあった。たしかに、そのシーズンの僕のボールは決して悪くなかった。

マウンド上の僕は一種の興奮状態にあって、自分が投げたボールを覚えていないことが多い。だが、不思議なもので、無意識のうちに対戦データは蓄積されている。

毎回、僕はそのデータを参照しながら、球種やコースを組み立てていた。さらに、1球ごとに腕の振りや体の開き、リリースポイントなどを変えていた。そうした微妙な変化が、相手の目に錯覚を引き起こし、そのタイミングをわずかに狂わせる。

だが、復帰したばかりの僕には、明らかにデータが不足していた。はじめて対戦する相手もいて、ボールの質そのものというより、投球術という意味で、本来の実力が発揮できなかった。3年間のブランクは、やはり大きかった。

周囲に惑わされない「不動心」

「落ち着いてやれ」という金本監督の言葉を聞いて、僕は自分でも気がつかないうちに、現実から逃げ出そうとしていたのではなかったか、と思った。

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チームの負担になりたくないという気持ちに、偽りはない。ただ、チーム内での立場を思い悩むより、自分の限界に挑んで、全力を出し切ることに努めるべきではないのか。それでも周囲に迷惑をかけるようなら、さっさと見切りをつければいい。

右腕一本で生きてきたと自負するなら、引き際はあくまでこの右腕が決めるべきだと思った。

2年契約が終わる2017年のシーズンを迎えるにあたって、僕はグラブに刺繍を入れた。かつて「本塁打厳禁」と刺繍して、話題になったことがある。このとき僕が選んだ言葉は「不動心」という3文字だった。

周囲に惑わされず、僕自身にとって最高のパフォーマンスを追求する、という決意を込めていた。

刺繍の効果なのかどうか、開幕からリリーバーとしてスタートした翌シーズンは、前年に感じていたようなもどかしさもなく、僕は止まった時間を取り戻しつつあることを実感していた。

相変わらず個人記録にはほとんど関心がなかったが、このあたりの時期には積み重ねたキャリアに比例して、いくつかの通算記録を達成するようになっていた。

最も僕らしいのは、2017年5月30日に行なわれたロッテとの交流戦で達成した通算1000奪三振だろうか。

通算1000奪三振の771イニング3分の2での達成は、野茂英雄さんの記録を100イニングほど更新する史上最短記録となった。しかも、完投の経験がないのは、146人目の達成者となった僕がはじめてだった。ファンのみなさんの期待が僕を後押ししてくれたおかげで達成できた記録だった。

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阪神タイガースのレジェンド・藤川球児が、野球人生のすべてを語り尽くした現役引退後初の著書。

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