頼家の子・一幡と公暁(善哉)が辿った生涯と人物像に迫る【日本史人物伝】

頼家の子・一幡と公暁(善哉)が辿った生涯と人物像に迫る【日本史人物伝】

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  • 更新日:2022/08/06

はじめに-頼家の子

鎌倉幕府を開いたのは言わずと知れた源頼朝ですが、彼の亡き後、源氏将軍はわずか3代で途絶えてしまいます。いつの時代も権力闘争の火種となるものといえば跡継ぎ問題ですが、頼朝の子孫たちもまた、その闘争に巻き込まれる運命にありました。今回は、中でも数奇で短い生涯をたどった、頼家の長男・一幡と頼家の三男・公暁を紹介していきます。

目次
はじめに-頼家の子
各人物の紹介
まとめ

各人物の紹介

ここからは、第2代将軍の子・一幡と公暁を取り上げ、紹介していきます。

一幡

一幡(いちまん)は、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家(よりいえ)の長男です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、側室・若狭局が産んだ長男(演:未定)として描かれます。

一幡は、建久9年(1198)源頼家の長男として生まれます。母は比企能員(よしかず)の娘である若狭局です。初代将軍・源頼朝にとっての初孫でもあります。しかし一幡が生まれた翌年に頼朝は死去。源頼家が家督を相続します。

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一幡が6歳となった建仁3年(1203)7月に、父である源頼家が重病となり、危篤状態に陥ったことで後継問題が起こります。この時将軍職を継ぐ候補は、源頼家の嫡子である一幡と、源頼家の弟・源実朝(さねとも)の2人です。本来であれば、嫡子である一幡に全ての領地が相続されるはずでした。しかし、関東28国の地頭職と関西38国の地頭職は一幡の叔父である実朝に譲与されることが定められました。

この分割相続の決定に不満を持った比企能員は、これを初代執権・北条時政の陰謀とみて時政追討を企てます。しかし、この密議を聞いていた北条政子が、2人の会話を父・時政に伝えたのでした。政子から報告を受けた時政は、政所別当・大江広元(ひろもと)に相談し、比企能員を誅殺することを決めます。

建仁3年9月、比企能員が北条軍に討たれると、比企一族は一幡の館である「小御所」(こごしょ)に籠城。しかし、追討軍に攻められ、館には火がかけられます。それにより、一幡も含めて比企一族はほとんどが自害。また、生き残っていた者たちもことごとく討伐され、比企一族は滅亡しました。

このように「比企能員の乱」に巻き込まれる形で、一幡はわずか6歳でこの世を去ったのでした。

公暁

公暁(くぎょう)は、第2代将軍・源頼家の三男です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、父の無念を晴らすため日本史上に残る大事件を引き起こす存在(演:寛一郎)として描かれます。

公暁は、正治2年(1200)に生まれます。父は第2代将軍・源頼家、母は賀茂重長(しげなが)の娘・辻殿です。賀茂重長は河内源氏に仕えていた武士で、『吾妻鏡』によると、彼女の母は、剛弓の使い手としても知られる頼朝の叔父・為朝(ためとも)の娘とされています。つまり、辻殿は源氏の血縁でした。ちなみに、公暁の幼名は「善哉(ぜんざい)」です。

元久元年(1204)、わずか4歳の頃に父・頼家が殺されます。すると翌年には祖母である北条政子の計らいで鶴岡八幡宮寺別当・尊暁(そんぎょう)の門弟に、その翌年には将軍・実朝の猶子(ゆうし)(=他人の子供を自分の子として結んだ親子関係)となります。

建暦元年(1211)、出家して僧侶になると「公暁」の法名を授けられます。受戒のため京に上ると、ついで近江国に赴き園城寺(おんじょうじ)の長吏・公胤(こういん)から灌頂(かんじょう)(=仏位受職の儀式)を受けました。そして同寺で修行したのち、建保5年(1217)に政子の命で鎌倉に帰り、鶴岡八幡宮別当となったのでした。

その後の承久元年(1219)正月27日の夜、鶴岡八幡宮境内において第3代将軍・実朝による右大臣拝賀の参拝が行われました。するとその直後、公暁はみずから剣をふるって実朝を殺害。さらに、実朝に扈従(こしょう)した源仲章(なかあきら)を北条義時と誤認して殺したのでした。

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公暁が源実朝を暗殺した理由は、親の仇討ちとされます。父・頼家は「比企氏の乱」により伊豆の修善寺に幽閉され、暗殺されました。頼家が非業の最期を遂げた後、跡を継いだのは実弟の源実朝です。そのため、公暁は怨恨により実朝を襲撃したと考えられています。

ただ、公暁の犯行は単なる仇討ちではない、と推測する者もいます。というのも、実朝が頼家の仇であるとは考えづらいからです。頼家が亡くなったとき、実朝は僅か12歳の少年に過ぎません。また、比企氏が擁する頼家と北条氏が擁する実朝という対立構造は、両氏の権力闘争の結果です。

そこで、公暁の背後には源氏討滅を目的とする北条氏の影が浮かび上がります。源実朝が鶴岡八幡宮の拝賀をするとき、北条義時は随行することになっていました。しかし、義時は拝賀の前に体調不良を訴え、実朝の傍を離れたという説があります。ここから、義時が公暁をそそのかして実朝暗殺に導き、自らは傍観者の立場を取っていたという可能性がでてきます。

また、義時の他にも暗殺事件の背景に対しては様々な考察が行われています。北条氏の政敵で公暁と近しかった三浦氏による北条打倒、実朝に対する北条・三浦ら鎌倉御家人の共謀、もしくは後鳥羽上皇による幕府転覆の策謀の存在、などです。ただ、いずれも確証はないものとされます。

実朝を殺害した公暁はその後、みずから将軍たらんとして、乳母の夫であり御家人中の有力者・三浦義村を頼ります。しかし、義村は北条氏に通じたためにその願いは成就せず、その夜のうちに義村の差し向けた討っ手によって殺されたのでした。

実朝の猶子でもあった公暁は、義理の父親を殺害したことになります。父親の仇討ちのため、義理の父親を殺害するという悲しき運命をたどった公暁はわずか20歳でこの世を去ったのでした。なお、実朝に嗣子がなかったので、源氏の将軍はここに絶えました。この後の鎌倉幕府は、執権である北条氏が統べることとなります。

まとめ

北条氏を中心とする幕府中枢の暗闘に巻き込まれ、短い生涯を終えた、一幡と公暁。彼らがたどった運命からは、死をいとわない当時の権力闘争の激しさが感じられるのではないでしょうか。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.comFB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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