
子どもが不登校になると、多くの親はとまどい、不安に陥ります。
しかし、角舘有理さんが「不登校は決してダメなことではない」と言い切るのは、息子さんが不登校だった5年間で、学校では経験できないことをたくさん経験し、多くのことを考える時間を持つことができたからだそう。
親が「不登校=悪」の固定概念から解放された時に、親も子も将来に向かって歩き出すことができる、と角舘さんは語ります。
本稿では、角舘さんの息子さんが学校へ行けなくなった日のことを振り返ります。
※本稿は角舘有理著『無理に学校へ行かせなくていい 〜不登校を脱出した息子と私の記録〜』(ICE[インプレス])から一部抜粋・編集したものです。
角舘有理(かくだて・ゆり/ライター)
上智社会福祉専門学校卒業。福祉施設指導員や一般事務を経験後、2015年からインターネット上を中心にフリーランスのライターとして活動。現在は企業ブログの執筆代行や、セールスレター、医療関連、住宅関連の仕事を中心に執筆している。不登校関係では、ウーマンエキサイトへの子育てカテゴリへの寄稿や、天狼院書店のグランプリ受賞作「息子の不登校と過去の私を癒やす旅」などがある。
自分で自分を苦しめた完璧主義と過剰な自意識
不登校の理由は、本当に色々な要素が複雑に絡み合っています。息子の不登校の原因は、嫌なことが積み重なったことだけではありませんでした。自分自身の責任感が強すぎることと、完璧主義がすぎるという性格も関係していたのです。
息子は5年生のはじめに、学校全体の委員会活動で新聞委員になりました。元々書くことが好きだったので、楽しそうに活動していたのを覚えています。
そんなある日、学校新聞に運動会の記事を書く担当になりました。担当したのはたしか原稿用紙2枚分、800文字程度の一記事でした。原稿用紙2枚分といえば、子どもにとっては作文丸々一つ分くらいの長さ。なかなかの分量です。
その記事を書き上げるのに、息子は完璧を求めて何度も書き直しました。そして、その度に先生に見てもらい、アドバイスを求めていたというのです。
それも、2回や3回の話ではありません。どのくらいの頻度かというと、驚くなかれ、授業の合間の休み時間ごとに、チャイムと同時に職員室に向かっていました。しかも2週間の間ずっと!
それを私が知ったのは、結構後になってからです。何かの用事で学校に行くと、担任でもない先生から「真面目に取り組んでいますよ」とわざわざ声をかけていただきました。それで、なぜそんなに褒められるのか息子に聞いたところ、職員室通いが発覚したのです。
息子に付き合ってくださった先生にも頭が下がりますが、私は「家では言ったこともすぐやらなくてだらしないのに、そんな几帳面なところもあったのね!」ととても信じられませんでした。
しかし、先生に褒められても手放しで喜べないほどに、息子のその生真面目さや完璧主義は、度を超したものでした。完璧を求める気持ちがどんどん加速して、適当に手を抜くことができなかったからです。
本人は「期限までに完璧に仕上げなければならない」という切迫した気持ちと「休み時間をすべて費やすなんて嫌だ、みんなと遊びたいし、もう疲れた」という矛盾した気持ちとの板挟みになっていました。
これでは疲弊してしまうのも当然です。だからといってやめられないのが、完璧主義の悪いところです。
家でも息子はこの件について愚痴を言うようになり、日に日に表情が険しくなって焦燥感を漂わせていました。「そんなに嫌ならもっと適当にやればいいじゃない」と私がアドバイスしても、息子は「自分でも馬鹿げていると思っているけど、手を抜くことができないんだよ」と言うのでした。
そして、2週間の間自分で自分の首を絞め続ける結果となったのです。結局、入稿されるまで心身ともにへとへとになる毎日から解放されることはありませんでした。
その後は不登校に突入してしまったので、新聞委員にはノータッチになってしまいましたが、この経験で息子自身「自分は完璧主義ゆえに視野が狭くなり、自分を追い詰めてしまうような不器用さがある」という隠れた性格を発見することになりました。
忘れられない出来事
ある朝、登校時間をかなり過ぎていましたが、乗り気になれずグズグズしている息子をなだめたりすかしたりしつつ、どうにか急かしながら学校へ向かっていました。午前中は休んで午後から登校しようという私の説得に、息子が不承不承応じてくれたからです。
私は息子を学校に送ってから、その足で午後から出社するつもりでした。このとき私の頭の中は、「学校を出てから何分に駅まで到着すれば、何時までに会社に着ける」という算段を遂行することでいっぱいです。
自転車を引きながら歩く私の後ろを息子がついてくる形で、学校までの道のりを二人でのろのろと歩きました。私は息子の気分が盛り下がらないように時々話しかけたりしながら、一刻も早く学校に着けるようにとそればかり考えていました。
しかし、あの角を曲がれば学校が見えるというちょっと手前でふと気がつくと、後ろをついて歩いていたはずの息子がいません。私は息子がまた学校に行きたくなくて、立ち止まったのだと思いました。自分の電車の時間もあったので、私はちょっとイライラして息子を振り返りました。
すると、2メートルほど後ろのほうに息子が下を向いて棒立ちになっていました。近づくにつれてはっきりと見えたのは、血の気が引いて顔面蒼白になり、小刻みにガタガタ震えている薄い肩でした。
そして、息子は私が近づいてくるのがわかると、喉の奥のほうからなんとか言葉を振り絞り、下を向いたまま小さく呻くようにこう言ったのです。
「お母さん、どうしてか、足が前に動かない」
その瞬間、私は頭の中のヒューズが飛んだかのように、面倒臭さもイライラも、会社のことも、すべて吹き飛びました。息子のこんな表情ははじめてです。息子は体が硬直して、言葉通りもう一歩も前に進めませんでした。もちろん、仮病や演技ではないことは、顔や体の反応を見ても明らかです。
私は息子の背中にそっと手を当てて回れ右をさせました。そして、「とりあえず、一旦家に帰ろうね」と言いながら、今度は労るように、歩調を合わせてゆっくりと家に向かって歩きました。
こんな状態になって、息子は私が考えていたよりずっとずっと深刻だったのだと、やっと気づいたのです。私はなんと愚かだったのだろう。自分の都合ばかり考えて、なんて自分勝手な母親だったのだろう……。
家に帰るまでの短い距離をゆっくりと歩きながら、私の脳内は何かをしきりに整理しようとフル回転していました。一番大切なことは何か、今すぐやらなければならないことは何か。それはすべて、棒立ちになった様子を見たときに直感した、”最優先すべきは息子を守ること”に尽きました。
学校外で親子カウンセリングを受けた
息子は自分の中で「学校に行きたくない」という気持ちと、「先生や親の期待に応えなければいけない」という2つの両極の気持ちを抱え、にっちもさっちもいかなくなって、電池が切れたように体が動かなくなったのです。
やっと尋常ならざる事態に気づき、私はもっと息子と真剣に向き合わなければならないと考えざるを得ませんでした。
家に帰って息子に、「今日は休んでいいよ」と伝えると、息子は心底ホッとした顔をしました。その様子を見て、私の決意はさらに固いものとなりました。
私は母親として、「今学期は学校を休ませ休養させる」という決断を下したのです。自分の体もコントロールできなくなるまで追い詰められている子どもに対して、どうしてこれ以上無理強いすることができるでしょうか。
後日、改めて学校に行って、息子の状況や今学期中は休ませる旨を伝えました。「もう、誰がなんと言おうと私が息子を守るのだ」と決めた瞬間でもあります。
長期欠席を決断してからは「今までの私の行動は間違いだった」と、目が覚めたようにはっきりと自覚しました。
そこで、「登校させなければならない」という学校に対抗するには、一保護者の言葉では説得できないと思った私は、専門家の力を借りることにしたのです。
私は以前から、息子にカウンセリングを受けさせたいと思い、小学校とのやりとりと並行して、都立の総合病院の心療内科を予約していました。
しかし、予約だけで半年待ちの心療内科で、ある手順が必要でした。まずは体の異常がないかどうか他の科で腸内検査をして、その科からの紹介でやっと念願である心療内科の予約にこぎつけたのです。
担当してくださった心療内科の医師は、私の話をひと通り聞くと「確かにまずは息子さんの心を休ませることが第一」と同意してくれ、小学校に出すための診断書も書いてくれました。
そして、しばらくは学校のことを思い出させないように、学校関連のことから一切遮断するようにと、小学校に連絡してくれたのです。
しかし、医師の判断は今思うと、私への配慮もあったのかもしれません。専門家の診断書と口添えはいかんなく効力を発揮し、学校からの登校を促す連絡はピタリとなくなりました。
担任の先生と電話で連絡するときは、息子が自室にいるときなど息子のいない場所で行いました。その後息子が学校に行ったのは、東京都の模擬試験を別室で受けさせてもらったときと、進路相談の三者面談に行ったときくらいです。
無理に学校へ行かせなくていい 〜不登校を脱出した息子と私の記録〜(ICE(インプレス))
本書は小学校5年生から中学校3年生まで不登校だった息子が、そしてその母親が、親子二人三脚で不登校を”脱出”するまでの軌跡を描いています。子どもの不登校に悩むすべてのご家庭に役立つ考え方のいろはが詰まった一冊です。