敵将をこんなに意識するものか。野村克也を西武黄金時代のナインが語る

敵将をこんなに意識するものか。野村克也を西武黄金時代のナインが語る

  • Sportiva
  • 更新日:2020/11/21

黄金時代の西武ナインから見た野村克也
第1回 「序章」

【黄金時代の西武の面々は「野村克也」を強烈に意識していた】

◆野村克也が名捕手2人を評価。どちらもいいが「古田敦也のほうが上」

日本シリーズ史上、屈指の名勝負と称される1992(平成4)年、そして翌1993年の西武ライオンズとヤクルトスワローズとの真っ向勝負。西武・森祇晶監督、ヤクルト・野村克也監督、いずれも「知将」の誉れ高い名監督による息詰まる戦いは、四半世紀を過ぎた今でも多くの人々の記憶に生々しく息づいている。

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指揮官としてヤクルトをリーグ優勝4回、日本一に3回導いた野村克也

ここ数年、この2年間の戦いの全貌を描くべく、西武とヤクルトの関係者、のべ50人ほどに当時の心境について話を聞いて歩き、このたびようやく『詰むや、詰まざるや 森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)と題して発売される運びとなった。森、野村両監督をはじめとする当時の関係者たちは、口々に「どちらが勝ってもおかしくなかった」と言い、およそ30年が経とうというのに、その記憶は実に鮮明だった。

この本の取材中、「あること」に気がついていた。ヤクルトナインが当時の指揮官である野村について話すのは当然のこととして、西武ナインもいつの間にか、敵将である野村のことを口にし、その存在を強く意識していたことがうかがい知れた。たとえば、2020(令和2)年にパ・リーグを制覇したソフトバンク・工藤公康監督はこんな言葉を口にしている。

「僕は野村監督と一緒に野球をやったことがないので、"ID(Import Data)野球"がどういうものか知りませんでした。だから戦前は『僕らが気づいていない隙を突かれるのではないか』『西武の選手たちの特徴やクセを見抜かれているのではないか』、そんな不安がありました」

この言葉に代表されるように、「この2年間の印象は?」という問いを投げかけると、西武ナインの多くは、こちらが尋ねていないにもかかわらず「野村監督が......」と、敵の指揮官の話題を切り出してきた。対するヤクルトナインの口から「森監督が......」と話題に出たことは一度もなく、実に対照的な光景だった。

【森と野村の下でプレーした辻発彦と渡辺久信】

およそ3年にわたる取材の集大成がいよいよ発売される今、取材ノートを整理していると、西武ナインたちによる「野村評」が実に多彩で、あらためて「野村克也」という稀代の名将のすごみや深さが浮かび上がってくる。相手チームからも存在を強く意識される指揮官、それが野村克也だった。

そこで、『詰むや、詰まざるや』では書き切れなかったこと、紙幅の都合でボツにした箇所を中心に、「西武ナインから見た野村克也」というテーマで、これから数回にわたって筆を進めていきたいと思う。

取材したメンバーの中には、前述の工藤公康の他にも、同じく現役の西武監督である辻発彦(「辻」は本来1点しんにょう)がいる。あるいは、元西武監督で日本一にも輝いた渡辺久信(現・西武GM)がいる。辻と渡辺は、後に野村監督時代のヤクルトに移籍しているため、両者は「森野球」と「野村野球」を知る男たちである。辻は言う。

「森監督はピッチャーを中心にしたディフェンス重視の野球だったけど、野村さんは自身が大打者だっただけに、打つことを重視した野球でしたね。『カウントノースリー(スリーボール・ノーストライク)からでも打て!』と言われたのは野村さんが初めてでした。それでも、池山(隆寛)や古田(敦也)がヤマを張ってフルスイングしているのを見た時、『あぁ、これがID野球なのか』と思いました」

一方の渡辺は次のように野村を評する。

「野村さんと森さんは、よく『似た者同士だ』って言われるけど、両チームでプレーした自分から見たらまったく別の監督ですよ。野村さんはしっかりと言葉で納得させてくれる監督でした。カウント別の投手心理、打者心理をきちんと言葉で説明してくれました。僕だってプロ野球選手だから、ある程度は理解していますよ。でも、あらためて言葉で説明されると、『あぁ、この人すごいな』と素直に思えましたね」

【「ID野球、何するものぞ」と石毛宏典は言った】

秋山幸二はのちにソフトバンクの監督となり、胴上げを経験している。あるいは、伊原春樹は2002年から2003年、そして2014年には古巣・西武の監督となった。また、石毛宏典は2002年、2003年にオリックスの監督を務め、伊東勤は2004年から2007年は西武、2013年から2017年はロッテの監督になった。この日本シリーズで活躍したコーチ、選手たちは、のちに監督として辣腕を振るっている。

その彼らが「野村監督が......」と口にして、指導手腕やチーム運営術について言及している。なかでも、もっとも野村の存在を意識していたのが、西武黄金期のチームリーダー、石毛宏典だった。石毛は強い口調で言った。

「当時、"ID野球"という言葉が本当に何度も繰り返されていましたよね。他の選手がどう思っていたかはわからないけど、僕は『ID野球が何だ。ID何するものぞ』という思いはずっと持っていました。僕らは何度も日本シリーズの舞台を経験していました。もちろん、何度もミーティングをやって、短期決戦においても傾向と対策が重要なことはわかっています。でも、実際のグラウンドに立てば、案外そんなことは気にしていられないんです」

ところが、無敵を誇っていた西武は、1993年の日本シリーズでヤクルトに敗れた。それはつまり、"野村ID野球"に屈したということだ。この時、石毛はどんな心境だったのだろうか?

「1993年はヤクルトに負けて日本一を逃したけど、別に『ID野球に負けた』とは思わなかったですね。そもそも配球というのは昔からある考えでしたし、打者の打球傾向だって、もともと各チームが分析をしていましたから。ただ、ヤクルトには僕たちよりももっと突っ込んだデータがあり、分析力があったのかもしれないですけどね」

敵将について熱く語り続ける石毛の姿に、「野村克也」という存在の大きさが逆説的に浮かび上がってくるようだった。あらためて問いたい。西武ナインにとって、野村克也とは何だったのか? どんな監督だったのか?

『詰むや、詰まざるや』の番外編として、「西武ナインから見た野村克也」に、しばらくの間おつき合いいただきたい――。

(第2回につづく)

長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

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