一聞百見 宇宙・引力 未知の光景を形に 彫刻家、植松奎二さん

一聞百見 宇宙・引力 未知の光景を形に 彫刻家、植松奎二さん

  • 産経ニュース
  • 更新日:2022/11/25

本当は、彫刻家なのである。しかし、この人、植松奎二さん(75)に会うと、必ず地球の引力や宇宙の誕生といった話になる。例えば、絵はがきに描かれた、英国ロンドンのテムズ川の上に浮かぶ巨大な岩石の素描。また、床に置かれた水入りのカプセルと、天井からつり下げられた花崗(かこう)岩との間に鉄隕石(いんせき)が挟まって調和を保った空間表現…。これら重力をテーマにした作品を見せられたら、つい頭の中をのぞきたくなる。それで、大阪・箕面市のスタジオを訪ねてみた。(聞き手・正木利和)

旅から生まれる作品群

スタジオの鉄製の梁(はり)から、たこ糸でぶらさげられた2つの材木はもともと1本のもの。それを切断し、一つ一つを糸に結んで切り口の部分を合わせて、バランスをとって静止した状態をつくる。

「これも作品で、来年、英国で個展をするために作った模型です」

物と物が引き合い均衡をとる不思議。

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2階から俯瞰した植松さんのスタジオ=大阪府箕面市(須谷友郁撮影)

「これ、持ってみてください」といわれ、テーブルにある花崗岩と鉄隕石をそれぞれ両手につかんだ。サイズ感はあまり変わらないが、明らかに隕石の方が重いと感じた。同行したカメラマンも同じ感想だった。

「そう思うでしょう」

はかりに載せると、隕石が1・4キロ、対して花崗岩は1・45キロでやや重い。

こっちは重力の不思議。

テーブルにはほかにも、1万5千年前に絶滅したナウマンゾウの化石が転がっている。小豆島の沖で採取された歯と歯茎で、古いフジツボなどもその表面にくっついている。

このスタジオの主に白衣を着せれば地球物理学者にでもなってしまいそうだが、もちろんれっきとした彫刻家。実際、この7月15日から9月11日まで、鹿児島県の霧島アートの森で「ナンセンスな旅への招待-みることの夢」と題した大規模な個展を行ったばかりだ。

少し展示を紹介する。

最初に重力に反して浮く石などのドローイングがいくつかあり、次に直径2メートル、460キロの水盤が一点で水平面を保ちながら地面すれすれにつり下げられた「水の上へ-水の下へ」。このほか、鉄製テーブル上部を丸く切り抜き、そこにアクリルの半球体をはめて地元の湧水を入れ、霧島の軽石を浮かべた「まちがってつかわれた机-水/ナウマンゾウの化石/浮石」で「ナンセンス」を表出させた。

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霧島アートの森で行われた個展に出品された「見えない力ー天と地の間に」(2022年)=本人提供

ハイライトは「見えない力-天と地の間に」というインスタレーション。縦約30メートル、横約13メートル、高さ7メートル50センチの空間に、クランプで留めて稲妻のようにした角材を2組と600キロを超える桜島の溶岩、さらに地元の湧水を入れた大きな透明の椀(わん)などを置いた作品だ。

「昨年5月に打ち合わせに来たら雷がすごかった。それで思いついたんです」

天井から落ちる雷のような形状の角材は昨年、兵庫県の芦屋市立美術博物館で開催された個展で「見えない力-軸・経度・緯度」と題して横にして展示された。霧島アートの森では「稲妻に見えるように」と縦にしたというのだ。

とにかく、重力といった見えないものや宇宙の深淵(しんえん)などを表現する作品21件が、霧島という土地の水や土、空気に触発されて生まれ、それが会場を彩った。

旅をし、土地を見て回り、そこからインスピレーションを得て生まれる作品群。今回の展示で、フランスの哲学者、ガストン・バシュラールの「想像力の源泉は物質である」という言葉を意識せざるを得なかったと植松さんはいう。

「芸術は形だと思う」

鉄や石、ガラスなどを使った彫刻や映像、写真などを通して自然や地球、宇宙の構造とわれわれの存在との相互の関連性を表現してきた作家は、自らによって形作られたものを、見た人たちが納得して初めて、感動を与えることができると考えている。

未知なる光景を創るという夢の旅。その途上に、作家はいる。

教師生活からの渡欧

父は神戸で画工としてポスターなどの原画を制作する仕事をしていた。中学時代は新聞部だった植松さんが、高校で美術部に移るのは、その父の背中を見ていたせいだ。しかし…。

「高校1年のとき、おやじに言われたんです。芸術家では食べられない、他はどこに行ってもいいが美大にだけは行かせない、と」

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新作の構想を鉛筆でスケッチする植松さん=大阪府箕面市(須谷友郁撮影)

神戸大学を受けたのは教育学部に美術科があったから。「入った当初は美術の先生になろうと思っていたんです。でも、3年のとき作家になりたいと思った」

もともと、絵画をやっていたが、もっと大きいものが作りたくなって彫刻に転向した。卒業するにあたって美大の大学院を受験したが、あえなく失敗。採用試験に受かっていた神戸市で教師になり、小学校や高校で図工を教えた。

そのかたわら、作家としての活動も続けている。大学を卒業した昭和44年の第1回現代国際彫刻展で3ミリほどの鉄棒をジャングルジムのように組んだ作品「透視-鉄」が入選。同年、初の個展も京都の画廊で開催した。

しかし、二足のわらじは厳しい。「学校の仕事は大変でした。担任をもっていたときなど、家庭訪問をして夜1時まで親の話を聞いたりしていました。それでノイローゼになり作品が作れなくなったんです」

そんなおり、49年に神戸市文化奨励賞を受賞する。「当時のお金で100万円もくれた。それで、教員を12月にやめて、翌年9月にドイツに渡りました」

パリでもニューヨークでもなく、デュッセルドルフを選んだ理由は、そのころの現代アートはドイツが最も活発に動いていて、ヨーゼフ・ボイス(1921~86年)ら巨匠がそこに住んでいたから。

「やっぱり、作家がおるところに行かんとあかんから。といっても1年ほどの滞在費しかない。だから『現代アートを見て帰ってこよう』くらいに思っていたのが、ずるずると…」

幸いドイツに渡った翌月から3カ月、展覧会への出展が決まっていた。さらに幸運なことに、翌年にはストックホルム近代美術館での個展も決まる。そもそも日本の美術館で個展もしたことのない日本人作家が、欧州スウェーデンの国立館で個展を開くなど、前代未聞の出来事だ。

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ドイツ・デュッセルドルフのスタジオで制作中の植松奎二さん(1991年、本人提供)

「日本で僕の作品を見ていてくれていた若い学芸員が『欧州にいる間に個展をしよう』と実現へ進めてくれたんです。それもすごい好条件で。アパートを借りてくれ、アシスタントも付き、食費は月20万円。材料費も美術館持ちでした」

滞在費を稼ぐため、壁塗りや絵画教室のアルバイトもしながらドイツで暮らすうち、少しずつ作品も売れ始めた。しかし、10年がたち作家としてやっていけるというめどが立ったとき、ふと考えたのだという。

「このままこっちにおったら、日本での居場所がなくなる。自分は日本人や。それなのに日本で仕事ができていないというのは、どういうことや」

1985(昭和60)年にパリのギャラリーとエージェント契約を結んだことで収入が安定したこともあって、翌年からは兵庫・西宮市にも拠点を置き、欧州と日本を行き来する生活を始めることになった。「このころからやっと、アルバイトしなくても生活できるようになったんです」

日独の2拠点生活

日本とドイツの2拠点生活に変わっても、変わらなかったものがある。鉄や石などを使って彫刻や映像、写真などで自然や地球、宇宙などの構造と人間の相互の関係性を表現するという創作のテーマである。

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天井が高いスタジオで重力をテーマにした作品について語る植松さん=大阪府箕面市(須谷友郁撮影)

そもそも、なぜ目に見えない力である重力や宇宙などを主題にした作品を作るようになったのだろうか。

「小学校の頃の愛読書が『子供の科学』という雑誌。そのおまけの模型や鉱石ラジオを作るのが好きでした。紙飛行機の滞空時間を競ったりすることも」

その延長線上で、地球はなぜ丸いと分かるのか、とか、なぜ投げた石は落ちるのか、といったことを考えるようになった。

「例えば、重力に逆らって浮かぶ石をポストカードに描いてみたら、友人が『これ、おもろいな』と言ってくれて。それで、シリーズが生まれたりもしました」

こんなふうに、科学への興味によって今も次々に新たな作品が生まれてくる。

ドイツ、スウェーデンを皮切りに、欧州で見いだされた植松さんは1988(昭和63)年のベネチアビエンナーレ日本代表に選ばれたことで、国内からも注目される存在となった。

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美術家の元永定正さん(左)と記念撮影する植松さん(1986年頃、本人提供)

日本での拠点を兵庫・西宮市から大阪・箕面市に移した2年後の平成9年には西宮市大谷記念美術館で「知覚を超えてあるもの」と題し、国内の美術館で初の個展を開催。その後も日本とドイツを行き来しながら、立体や平面などの作品を制作。日本のみならず欧州、米国の美術館、ギャラリーで相次いで個展を開催する作家となり、22年には神戸市文化賞、25年には中原悌二郎賞、さらに昨年、兵庫県文化賞を受賞した。

コロナ禍でしばらく渡欧できなかったが、この秋、3年ぶりに欧州に戻り、ロンドンの近代美術館「テート・モダン」のセザンヌ展や、建築家の安藤忠雄氏がパリ中心部に建つ歴史的建造物を美術館として再生した「ブルス・ドゥ・コメルス」などを見て回った。「(欧州に)住む必要はない。だが、見る必要はある」

見ることは学びである。しかし、実際には、住んでみなければ分からないこともある。「日本人であることをドイツで初めて意識したんです。(古都の)奈良で古いものが見たいと思った。やっぱり、日本人の血、風土、考え方が身に染みている。(自分の中に日本人の)原形質があるということに気づいた」

ナショナルはインターナショナル以前に存在するということなのであろう。

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「美しいものは均衡がとれている」と語る植松さん=大阪府箕面市(須谷友郁撮影)

ならば、アートは社会にどれほど貢献できるのか。

「正直、アートにそれほど政治的、社会的な力はないと思う。作り手も社会変革をしようなどと考えているわけではない。ただ、見る人が普遍的、原理的なものの見方を発見することにかかわることはできるのではないか」

最後に、美とは何なのだろう。

「かつて、僕の作品を見た美術館の学芸員が『美しいね』と言ってくれた。それは物の均衡がとれていたから。そして、何より作者自身が楽しそうに作っていたからやと思う」

それは、きっと内からにじみ出るものなのだ。

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