特攻基地でも飼われていた...!最前線で戦う若者たちが愛した犬たち

特攻基地でも飼われていた...!最前線で戦う若者たちが愛した犬たち

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2019/08/25
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神立尚紀さんが、元海軍の搭乗員や遺族の方々から託された写真を見ていて気づくことがあった。最前線の基地で撮られたスナップの中に、若い搭乗員たちが犬を抱いている写真が多いのだ。

死と隣り合わせの日々を送っていた20歳前後の若者たちは、どんな思いで犬(猫や猿や鳥もいた)を飼っていたのだろうか。

散歩中に飼い犬をなでてくれたおじいさんは!?

いまから17年ほど前のことである。

私は、殺処分寸前の白い雑種の子犬を引きとり、「チロ」と名づけて飼い始めた。以来、毎晩、少しずつコースを変えながら、約1時間の散歩を続けた。

散歩の途中、いろんな人に声をかけられる。もちろん、相手の関心はチロにあって私にはない。それが証拠に、犬の名前や年齢を尋ねられることはあっても、飼い主である私の名前を聞く人は、チロが生きていた14年半の間に一人もいなかった。近所の子供たちは、私を「チロちゃんのおじちゃん」と呼んだ。

そんななか、気になるおじいさんがいた。歳の頃は90歳近いだろうか。脚がやや不自由そうだったが、毎日、チロの散歩の時間になると、奥さんに付き添われ、家の前に出て待っているのだ。おじいさんはほとんどしゃべらず、ただ、「可愛がってくれる人」だと認識して駆け寄るチロに目を細め、しばし撫でているだけである。

その間、おばあさんとは少しだけ話をする。聞けば、そのおじいさんは、戦争中から白い犬に特別な思い入れがあって、代々白い犬を飼っていたが、最後に飼っていた犬が、つい最近死んでしまったのだという。それで、気落ちしているところに、飼っていた犬にそっくりな白い子犬(=チロ)が家の前を散歩するようになり、夜その時間を楽しみに、必ず外に出るようになった、と。

だが、いつしかおじいさんの姿は見えなくなり、やがて家も取り壊されて、その場所には新しいアパートが建った。あの、チロに目を細めていたおじいさんは亡くなられたのだと思った。

その人の名を私は知らないし、相手もまた、私を知らない。

ところが昨年、真珠湾攻撃の記事を書いたさい、改めて真珠湾攻撃参加搭乗員の生存者名簿(1995年現在)を見返して、東京都内のまさに同じ住所に、空母「翔鶴」の九七式艦上攻撃機水平爆撃隊の一員として、第二次発進部隊に加わった人の名を見つけて一驚した。この搭乗員が、あのチロに目を細めた本人だったかどうか、いまや確かめるすべもない。だが、仮に本人だったとして、きっと、軍隊のなかで白い犬を飼っていたことがあって、戦後も長くその面影を追っておられたのだろうな、と思った。

――人と犬の間には、特別な「絆」があるという。ここでは、そんな戦場の犬と隊員たちの話を紡いでみたい。

中国戦線の基地で「蒋介石」名付けられた犬

もともと、「軍用犬」というのは昔からいた。人間よりはるかに優れた嗅覚を生かして警戒、捜索に利用されるばかりでなく、伝令に用いられたり、第二次世界大戦中のソ連軍では、犬の体に爆薬をとりつけ、起爆装置を遠隔操作して犬もろとも爆破、ドイツ戦車を破壊する「対戦車犬」までが実戦に投入された。日本軍が戦場に送った多くの軍用犬は、戦いに斃れ、あるいは食糧不足の犠牲となり、生きて日本に帰った犬は一頭もいなかったという。東京・九段の靖国神社には、軍馬、軍鳩と並んで、軍犬の慰霊碑が建ち、毎年、合同慰霊祭が営まれている。

だが、ここでの主題は軍用犬ではない。前線基地で、将兵が飼っていたペットのことである。軍隊で、戦闘に関係ない動物を飼うのはあくまでレアケースだが、それでも少なくない実例があるのだ。

戦地にいた旧軍人のアルバムを見ると、犬と一緒に写っている写真が意外に多いことに気づく。よく見ると、同じ犬が、何人ものアルバムに登場したりもする。

なかでも私が興味を惹かれたのは、ベテランの戦闘機搭乗員だった中島三教さん(昭和8年、海軍に入り、中国大陸上空で活躍。一飛曹。のち、米軍捕虜となる)のアルバムに貼られていた1枚だ。昭和13(1938)年、中国大陸江西省の九江基地に進出していた第十二航空隊(十二空)指揮所前で、若き日の中島さんが子犬を抱いている写真があり、その下に、〈蒋介石と我輩〉と書かれている。

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子犬を抱く中島三教さん。昭和13年、中華民国・九江基地で。この犬は交戦相手国の元首の名をとって「蒋介石」と名づけられ、隊員たちのアイドルだった

「蒋介石って、中国国民党の蒋介石ですよね」

「そう。隊に迷い込んできた子犬がおったから、拾って『蒋介石』と名づけて、みんな可愛がっとったですよ」

交戦相手国の最高指導者の名前を、犬につけていたのだ。犬の『蒋介石』は、中島さんに特になついていたという。同じ部隊にいた戦闘機搭乗員・宮崎儀太郎さん(昭和17年6月1日戦死、飛曹長)や、坂井三郎さん(のち中尉。ベストセラーとなった『大空のサムライ』で知られる)が、「蒋介石」を抱く写真も残されている。

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子犬の「蒋介石」を抱く宮崎儀太郎さん(左)、坂井三郎さん(右)。昭和13年、九江基地にて

この「蒋介石」がその後どうなったか、中島さんや坂井さんもほどなく転勤で隊を離れ、確たることはわからない。だが、2年後の昭和15(1940)年、十二空で、配備されたばかりの零戦を駆って戦った岩井勉さん(のち中尉)、羽切松雄さん(同)によると、その頃、漢口基地で飼われていた茶色い犬も「蒋介石」と呼ばれていたとのことで、同一犬である可能性が高い。

昭和15年9月12日、漢口基地での零戦による3度めの出撃直前、搭乗員が整列し、緊張感みなぎるなか、一人の士官の足にクンクンと鼻を近づける「蒋介石」の姿が、写真に残っている。これが九江基地の「蒋介石」と同一犬なら、2歳半ぐらいだろうか。

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昭和15年9月12日、漢口基地で、零戦3度めの出撃前の搭乗員整列。羽切松雄さん(整列する飛行服姿、左から2人めの髭の搭乗員)によれば、右端の士官の足元にじゃれているのが成犬になった「蒋介石」

羽切さんによると、十二空では隊員が転勤などで交代するとき、非公式にではあるが、飼い犬の引継ぎも同時に行われていたという。

十二空にはもう一匹、「ジロー」と名づけられた3歳のシェパードがいて、こちらは昭和13年、武漢の戦いで飼い主と離別したところを、日本兵の誰かに拾われ、以来十二空で飼われていた。

犬好きの零戦搭乗員・大石英男二空曹(昭和19年9月12日戦死、飛曹長。注:昭和16年5月末日までは、飛行兵曹ではなく航空兵曹と呼んだ。)が、隊長から「犬係」に任命されて「ジロー」の世話をした。大石二空曹は、自分が多少ひもじい思いをしても、好物の肉や牛乳を与え、「ジロー」も、野犬から隊員を守ったり、基地の周りで食用になる兎を獲ってくるなどして、飼い主に応えた。基地を移動するときには、大石二空曹が零戦の操縦席の後ろに「ジロー」を乗せて一緒に行動したというが、本人が戦死していることもあり、残念ながら「ジロー」の写真は見つからなかった。

殺気立った気持ちがスッと落ち着く

昭和15年9月13日、進藤三郎大尉が率いる十二空の零戦隊は、中華民国空軍のソ連製戦闘機約30機と初めて交戦、27機を撃墜(日本側記録。中華民国空軍の記録では被撃墜13機、損傷11機)、零戦の損失ゼロという一方的勝利をおさめた。

この空戦で進藤さんに感状が授与されたことを報じる11月17日の中国新聞には、進藤さんの飛行服姿の顔写真入りで、

〈感状に燦たり海の荒鷲 廣島っ子・進藤大尉 床しや控えめに校々語る両親〉

との見出しで両親のインタビュー記事が掲載され、そのなかで、

〈三郎の今度の武勲もみんな郷土の皆さまのご後援の賜です
と言葉少ない夫妻に代つて大尉が可愛がつている愛犬チロが主人の武勲をたたへるかの如く日本犬の逞しさを両耳に見せて吠え立てる〉

と、飼い犬の「チロ」のことにも言及している(私が飼っていたチロと同じ名前なのは単なる偶然である)。

進藤大尉(のち少佐)はその後、空母「赤城」に乗組み真珠湾攻撃に参加。さらに南太平洋の海軍の拠点・ニューブリテン島ラバウル(現・パプアニューギニア)で戦うが、そこでも現地で拾った子犬を可愛がっていた。特に名前はつけず「ワン公」と呼んだそうだが、顔中髭もじゃの進藤さんが、「ワン公」を抱く写真がアルバムに残っている。

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「ワン公」を抱く進藤三郎さん。昭和18年、ラバウル基地にて。進藤さんの犬好きは生涯変わらなかった

進藤さんは平成12(2000)年2月2日、88歳で亡くなるが、80歳の頃、海軍兵学校六十期のクラスメート・鈴木實さん(中佐)の飼い犬・ジョン(雑種)がエサを食べているところにちょっかいを出し、怒ったジョンに噛まれて手の腱が見えるほどの大怪我をしたことがある。おっちょこちょいとも言えるが、生来の犬好きとすれば、犬を見ると手を伸ばさずにはおられないようだった。

鈴木實さんが率い、蘭印(現・インドネシア)のセレベス島(現・スラウェシ島)ケンダリー基地を本拠に、オーストラリア本土のダーウィン空襲などに任じていた第二〇二海軍航空隊(二〇二空)では、隊員たちがめいめいにペットを飼っていた。隊員だった元零戦搭乗員・吉田勝義さん(のち飛曹長)は語る。

「ケンダリー基地の宿舎は湿気を防ぐため高床式になっていて、床下には人が少しかがめば歩けるほどの空間がある。搭乗員たちはそこで、犬や猫はもとより、ポケットモンキー、オウム、ニワトリなど、さまざまな動物を飼い、めいめいで世話をしていました。私の予科練同期で鳥取県出身の徳岡時寛二飛曹は、『ゼロ』と名づけた雌犬を飼っていて、どこへ行くのにも連れていました。よくなついて、可愛かったですよ。

マカッサル(セレベス島南西部)には銀座の清月堂(現存)が店を出していて、そこでアイスクリームが買えました。ケンダリーからマカッサルまでは180浬(約333キロ)あるんですが、搭乗員同士でジャンケンをやって、負けた者が大きな魔法瓶を零戦に積んでマカッサルまでアイスクリームを買いに行く。徳岡が行くときは、ゼロも一緒に零戦に乗せていました。

作戦行動中の基地からの上陸(外出)は原則として禁止されていますが、私らは、『上陸禁止って言ったって、俺たちには足があるんだ』と、車庫員に出させた軍用トラックの荷台に乗り込み、連れだって外に出て行ったものです。トラックが出て行こうとすると、『オーイ、待ってくれ』と、分隊長の塩水流俊夫中尉までもが無断外出に加わる。われわれ搭乗員は、ガソリンの臭いが染みついた半袖半ズボンの白い防暑服かランニングシャツ姿で、肩にはそれぞれのペットを乗せている。なかには猿とオウムが両肩で喧嘩しているのに平気な顔で歩いている者もいました」

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猿を飼う隊員もいた。昭和18年、ケンダリー基地にて、零戦をバックに。右は寺井良雄一飛曹(同年9月7日戦死)

当時の二〇二空搭乗員の写真を見ると、動物と一緒に撮られたものが何枚もある。徳岡二飛曹が「ゼロ」を抱いた写真もあるし、草原の飛行場で、零戦をバックに搭乗員が並ぶ足元に、「ゼロ」がたたずむ写真も残っている。だが、可愛がっていた徳岡さんは昭和18(1943)年5月9日に戦死。「ゼロ」は飛行場で、還らぬ飼い主を待ち続けていたという。その後しばらく、吉田さんたち搭乗員仲間が世話をしていたが、ある日、「ゼロ」は忽然と基地から姿を消した。二〇二空も、その後、ニューギニアから中部太平洋、フィリピンと移動を重ねて壊滅、解隊されたので、「ゼロ」がその後、どうなったのかは誰も知らない。

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「ゼロ」を抱く徳岡時寛二飛曹。昭和18年、ケンダリー基地にて。徳岡二飛曹は同年5月9日に戦死、「ゼロ」は還らぬ飼い主を待ち続けたが、ほどなく基地から姿を消した

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ケンダリー基地で、零戦をバックに。右が徳岡二飛曹、中央は塩水流俊夫中尉。徳岡二飛曹の足元に「ゼロ」がたたずんでいる

やがて戦局は日本にとって次第に不利となり、日本本土への空襲も激しさを増して、昭和20(1945)年になると、内地の航空基地が事実上の最前線となっていた。

二〇二空から、茨城県の筑波海軍航空隊に転勤した加藤清さん(旧姓・伊藤。飛曹長)は、筑波基地(現・笠間市)で、「シロ」と名づけたシェパードを飼い、可愛がっていた。

東南アジアやオーストラリア本土上空で、零戦を駆って32機もの敵機を撃墜破し、二〇二空司令より特別表彰を受けた加藤さんは、戦争に負けたことが悔しくて、戦後も長いあいだ、飛行機が頭上を飛んでも顔をそむけるほどだった。家族にも、戦争の話は一切しなかったが、長女・紀代実さんによると、かつて筑波空で飼っていた「シロ」がいかに賢く、自分が可愛がっていたかということだけは、懐かしそうに語っていたという。シェパードがなぜ「シロ」と名づけられたか、また「シロ」がその後どうなったかは不明である。

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零戦搭乗員・加藤清さんと、シェパードの「シロ」。昭和20年2月下旬頃、筑波海軍航空隊にて

同じ頃、神奈川県厚木基地の第三〇二海軍航空隊で、局地戦闘機「雷電」に搭乗、米爆撃機ボーイングB-29を撃墜した山川光保さん(上飛曹)が、子犬を抱いた写真も残っている。当時は野良犬が多く、どこからともなく基地に迷い込んだり、飼われてそこに居ついたりすることが多かったのだ。

「連日のように出撃、出撃待機で、明日をも知れぬ日々ですからね。そんななかで子犬がなついてきたりすると、殺気立った気持ちがスッと落ち着くような気がしましたよ」

と、山川さんは言う。厚木基地で山川さんが可愛がっていた子犬には名がなく、その後のこともわからない。だが、この写真は、思い出の1枚として大切にアルバムに貼られていた。

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厚木基地で、子犬を抱く「雷電」搭乗員・山川光保さん。この子犬に名はつけられなかった

「シロよ、おれはお前を忘れぬぞ」

最後に、「人間爆弾」と呼ばれる特攻兵器「桜花」搭乗員だった佐伯正明さん(旧姓・味口。一飛曹)が当時つけていた日記に描かれた犬との交流を紹介したい。

茨城県の神ノ池基地で飼われていた、「シロ」のスケッチである。斑模様のある犬だが、これもなぜか「シロ」と名づけられた。元は、「桜花」の母機である一式陸攻の機長が、中国大陸の前任地から神ノ池基地まで飛行機に乗せて連れてきた子犬だったという。佐伯さんの日記には、シロは〈飛行時間四時間の記録を持つてゐる〉と記されている。

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特攻兵器「桜花」搭乗員・佐伯正明さんの日記より、神ノ池基地で飼われていた「シロ」のスケッチ。昭和20年3月

人に慣れ、兵舎のベッドにもぐり込むなど、自由気ままにしていたが、用便だけはきちんと外でする。隊員たちも、「シロ」がベッドに残していったノミに閉口したりしながらも、よく世話をしていた。

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同じく佐伯正明さんの日記より、「シロ」の寝姿

ただし、ペットが「家族の一員」などという発想がなかった時代(戦後もふくめ、昭和の時代は、犬は外で飼い、人の残飯を餌にするのは当たり前で、「家族の一員」などと言われるようになったのは比較的近年のことだ)、隊員たちの「可愛がり方」は、現代の感覚とはいくぶん様子が違う。

海軍では、「手荒く美味い」「手荒く美人」など、何かにつけ「手荒く」という言葉を使った(近年の「超〇〇」にニュアンスが近いスラング)。「シロ」への接し方は、海軍流に言うと、「手荒く可愛がる」ということになろうか。

葡萄酒を飲ませて千鳥足になるのを面白がったり、ウイスキーを飲ませ、額に日の丸を描き、前脚を持って「炭坑節」を踊らせたり、「耐寒訓練」と称して、冬の池に投げ込んで泳がせたり……。いまなら、ペット愛好家が目を剥きそうな記述が残っている。

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佐伯正明さんの日記に記された「シロ」の「耐寒訓練」の様子

だが、犬が好きな人もいれば嫌いな人もいるのは世の常である。「シロ」は、昭和20年5月12日、ふとした悪戯に腹を立てた何者かによって殺害されてしまう。このときの佐伯さんの日記には、

〈おれは長い間シロと共に遊び、シロも亦誰よりもおれを強く慕つてくれた。シロ、シロのことは今後悲しき事実として頭に残り、シロの姿は何時迄も眼に映ずるであらう。シロよ、おれはお前を忘れぬぞ。(中略)シロはおれが今後出會ふ犬(飼犬)に再現せられ、愛撫せられるであらう。〉

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佐伯正明さんと「シロ」。荒い画面だが、可愛がっている様子は伝わってくる

「シロ」の死から2日後、佐伯さんは、基地の近くの農家で生まれた三毛猫の子猫をもらいうける。沖縄特攻のさなか、いつ特攻出撃の命令がくだるかわからないが、佐伯さんは、掌に乗るほどのその小さな子猫に「ミー」と名づけて可愛がった。「ミー」は、食卓に上がって、隊員が与えた小魚を無心に食べる。誰かが、「犬と違って、猫を殺したりしたら化けて出るぞ」と言った。そして5月20日、真っ黒な子犬が基地に迷い込んできて、またも佐伯さんが世話をすることになった。子犬は「黒」と名づけられ、馴れるにしたがい「ミー」とも仲良しになったという。

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神ノ池基地の「シロ」が、昭和20年5月12日に死に、ほどなく佐伯さんのもとへやってきた猫の「ミー」のスケッチ。日記には、真黒い犬「黒」も飼い始めたことが記されている

そして8月15日。出撃待機中に終戦を迎えた佐伯さんは、後ろ髪引かれる思いで「ミー」や「黒」と別れ、故郷・愛媛県に復員した。終戦直後の混乱で、犬や猫を郷里に連れ帰ることなど、到底不可能だったのだ。

――最前線にいた犬やペットたち。けっして歴史の表舞台で語られることはないが、極限の状況でもそこには人との絆が生まれ、人は動物に心の安らぎを見出していた。

そしてペットは、それぞれの人の心に忘れられない思い出として残り、ある人は犬を、ある人は猿を、戦時中、自分を支え、励ましてくれたペットの面影を重ねて、戦後も何代にもわたって飼い続けた。

時間軸の幅を、ほんの少し広くとるだけで視点が変わり、これまで気づかなかったことも立体的に見えてくる。ときには、歴史のなかで人とともに生きた、動物たちの小さな命にも思いを馳せてみたい。

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文中に登場する犬好きの進藤さん、羽切さん、加藤さん他、6人の戦中、戦後の証言を収録している。

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