アジアで続いたもう一つの“五輪”~幻の東京オリンピック前史(後編)

アジアで続いたもう一つの“五輪”~幻の東京オリンピック前史(後編)

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  • 更新日:2017/11/20
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[画像]大阪で開催された第6回「東洋オリンピック」大会のポスター

東京五輪・パラリンピックまで残すところ1000日を切った。さまざまなメディアがオリンピックに関する歴史や展望を書き連ねている。しかし日本でオリンピックが開かれるようになるまでにどのような試行錯誤が行われたのか、ほとんど知られていない。特筆すべきは、1940年の「幻の東京五輪」に先立って予行演習的なスポーツ大会が実施されていたことだ。歴史の闇に消えた「東京オリンピック前史」を3回連載で掘り起こしてみたい。

●ストックホルム五輪選考会で二人は出会った?

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[写真]嘉納治五郎の写真を背に行われた2008年北京五輪の柔道代表の壮行会(アフロスポーツ)

東京オリンピックへの動きは政府主導で直線的に動いたわけではなかった。

西洋史の本に書かれた古代オリンピックの知識しか持ち合わせていなかった明治期の日本人。西洋から入ってきた運動(スポーツ)という文化と折り合いをつけることにさえ難渋していた当時の日本では、オリンピックとの接近は民間主導で始まった。

これまでに触れてきた通り、「少年冒険小説の開拓者」こと押川春浪(おしかわ・しゅんろう)による「天幕(テント)旅行大運動会」(1908年)の開催、これがすべての始まりである。「東洋オリンピックの瀬踏み」と銘打ったイベントだったが、その実態は雑誌主催の大がかりな運動会だった。

その翌年にあたる1909(明治42)年、「柔道の父」嘉納治五郎(かのう・じごろう)がIOC委員に任命されている。

ところが当時の日本政府はオリンピック開催に無関心で「やるなら勝手にやってくれ」という態度を崩そうとしなかった。原因は国際オリンピック委員会(IOC)が民間組織だったからで、“お上意識”が強い日本政府は、いくら国際的とは言え一民間組織にすぎぬIOCを歯牙にもかけなかった。外務省の公式記録にはじめてオリンピックが出てくるのは1914(大正3)年。「万国体育大会雑件」という記録文章においてであった。日本がストックホルム大会(1912年)でオリンピックに初参加してから2年も後の話である。

ストックホルム五輪に向け、嘉納は1911年に派遣選手選考会を東京の羽田運動場で開催する。国からの援助も後押しもない中で、嘉納は金策に走り回った。

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[写真]羽田球場での「天狗倶楽部」。2列目右2人目が押川春浪か?

この五輪派遣選手選考会で、押川春浪と嘉納治五郎は何らかの関係を持っていたのではないかと推察される。こう考える根拠は二つある。

(1)羽田運動場は押川が主催するスポーツ社交団体「天狗倶楽部」のホームグランドであり、押川はこの運動場の創設にも関与していた。
(2)押川と嘉納の家柄の関係からも間接的な接点があったと考えるのが自然である。
(3)この選考会を経て初めてオリンピックに出場した日本人選手の中に「天狗倶楽部」のメンバーがいた。

(1)だが、当初この運動場は野球場として建設された。押川が「天狗倶楽部」の仲間で京浜電鉄の電気課長でもあった中沢臨川(なかざわ・りんせん)に働きかけ、中沢が社の上層部に掛け合い実現させたのだという。阪神電鉄による甲子園球場建設に先駆けること15年という画期的な事業だった。

ストックホルム五輪の選考会のとき、音頭をとったのは嘉納治五郎である。羽田運動場内の自転車練習場だった場所を400メートルトラックと競技場に改修し、日本人最初のオリンピック選手である三島弥彦と金栗四三を選出した。詳細は不明だが、この予選会の運営に天狗倶楽部が関与していた可能性がある。

(2)については、「日本野球の父」と言われる安部磯雄(早稲田大学野球部創設者)は、押川の父と親交のある人物だった。と同時に、押川の弟は早稲田大学野球部の3代目主将である。この線から押川とも面識があったと考えられる。

その安部は嘉納治五郎らとともに大日本体育協会を創立し、嘉納を助けてストックホルム・オリンピック大会の国内委員も務めている。

(3)だが、ストックホルム大会に派遣された選手は2人いた。短距離走の三島弥彦(みしま・やひこ)と長距離走の金栗四三(かなくり・しぞう)である。このうち、三島は押川が主催していたスポーツ団体「天狗倶楽部」の所属選手だった。

三島はスポーツ万能であったことから『冒険世界』の読者からの人気も高く、「痛快男子十傑投票」という読者投稿企画では、運動家部門で1位に選ばれている。

こうした縁から在野の立場からオリンピックに関心をもつ押川と、IOC委員という立場からオリンピックに関わった嘉納という本来であれば相容れない両者に、何らかの交流があったのではないかと思われるのである。

なお『冒険世界』の「日本の快男児100人」という記事で嘉納治五郎のことが言及されているが、嘉納が押川に言及した記録は残っていない。

IOCではなくYMCA 主導の「東洋オリンピック」

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[写真]東京で開かれた第9回「東洋オリンピック」大会

ところで「天狗倶楽部」が輩出したのは、オリンピアンだけではない。次に取り上げる「東洋オリンピック」にも、三神八四郎(みかみ・はちしろう)というテニス選手を送り出しているのだ。《三神は日本における硬式テニスの導入を最初に提言した人物で、早稲田大学の「三神記念コート」に名前が残っている。東洋オリンピックには第3回大会(1917年)と第4回大会(1919年)に出場し、前者はダブルスで後者はシングルスで優勝を果たしている》。

実は20世紀の初頭には、IOC 以外にも“オリンピック”を運営する組織が存在していた。キリスト教青年会(YMCA)である。彼らが主導したのが「東洋オリンピック(極東選手権競技大会 The Far Eastern Championship Games)」だ。

戦前の段階では、IOCとYMCAは近代五輪の主導権争いを演じており、現在のようなIOCの絶対的優位性は確立していなかった。

「東洋オリンピック」は1910年にフィリピンのYMCA体育主事に就任したアメリカ人エルウッド・ブラウンによって提唱された。19世紀末にフィリピンを手中に収めアメリカ化を推進していた米国は、反米感情に手を焼いた。そこでスポーツ振興に力を入れ、強い選手を育てることで統治をスムーズにするという手法を考え出した。そのためには他国と争い、勝たなければならない。そこでフィリピン、中国、日本による3か国競技大会を開催しようと考えたのである。

アメリカ人は極東オリンピック協会の設立を目指したが、IOC委員であり大日本体育協会の会長でもある嘉納治五郎は消極的であった。

その理由として

(1)フィリピンと中国ではYMCA幹部のアメリカ人が主導権を握っている。
(2)キリスト教の宣伝に利用されている。
(3)IOC主催のオリンピックで間に合っている

という3点を挙げた。

しかし皮肉と言うべきか、IOC主催の東京オリンピックよりもYMCA主催の「東洋オリンピック日本大会」の方が先に実現してしまうのだ。

東洋オリンピック第1回大会は1913年にマニラで開催されている。このとき本家オリンピックのクーベルタン男爵からクレームを付けられたため、以降は「極東選手権競技大会」と改称。ただし日本国内では、これ以降も「極東オリンピック大会」という愛称で呼ばれ続け、隔年開催の形で第10回(1934年)まで開かれた。

フィリピンではYMCAのアメリカ人職員の指導を受けた現地人が指揮を執り、中国でも外国から派遣されたYMCA職員が指導するなど、東洋人主催の大会とは言いがたい側面があった。しかし何度か日本で開催されるうちにアメリカ色が払拭され、アジア人の手による大会へと変わっていった。

●日本開催の経験が後の64年東京五輪に活きる?

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[年表]東京五輪までの道のり

日本で開催されたのは第3回と第9回の東京大会と第6回の大阪大会である。この第3回大会は、日本で開かれた最初の国際的なイベントであった。万博に参加したことはあったものの主催はしておらず、ましてや数か国が関わる多国籍スポーツイベントの運営はまったく初めてだったはずである。おそらく「極東選手権競技大会」で運営ノウハウを獲得しなければ、日本でのオリンピック開催はずっと遅れていたに違いない。

ところでアメリカがフィリピン統治政策の一環として考えただけあって、「極東選手権競技大会」ではフィリピン人選手の活躍が目立った。野球、バレーボール、バスケが強かったが、圧巻は陸上競技だった。いまとなっては想像しづらいが、大正から昭和の初めにかけて、アジアの短距離界でフィリピン人選手は無敵だった。「極東の短距離王」の異名を欲しいままにしたフォルチュネイト・カタロンがアジアの短距離界で覇権を築き上げると、ネポムセノ、ゴンザガらが後に続き、日本や中国は手も足も出なかった。

この「極東の短距離王」カタロンだが、誰もが知っている「グリコのマーク」のモデルだと言われている(※ほかに1924年のパリ五輪に参加した谷三三五(たに・ささご)説やストックホルム五輪に出場したマラソンの金栗四三説など諸説あり)。カタロンは1917年の第3回大会と1923年の第6回大会で来日した。スタートの巧さとラストスパートで日本勢を引き離し、第6回大会では100ヤード走と220ヤード走で優勝を決めた。「カタロンには勝たれん」という洒落が流行り、日本でも人気者になった。

しかし「極東選手権競技大会」の命運は国際政治に翻弄された。決定打となったのは日本の「満州国」樹立であった。

1931年に満州国が誕生すると、中国との関係は完全にこじれた。そこにアメリカからの独立を目指すフィリピンの立場が影を落とす。

1934年のマニラ大会中に満州国の大会参加を求める日本が大会憲章の改正に手をつけると、中華民国側の委員が総退場した。そしてそのまま極東選手権大会は消滅してしまうのである。

2年後の1936年に1940年の東京オリンピック開催が決定するが、日中戦争の長期化による資材の逼迫(ひっぱく)、中国大陸での諸外国との利権争い、そして東京での開催決定に大きな役割を果たした嘉納治五郎の死などが引き金となって、政府は開催権を返上する。代替策として政府がぶち上げたのが「紀元2600年奉祝東亜競技大会(東亜競技大会)」である。満州国と中華民国臨時政府、そして日本という3か国だけの寂しい大会であった。

アジア初となる1964年の東京大会に至るまでの道のりは、文字通り紆余曲折を経ていたことが分かる。小説家・押川春浪が「オリンピックの瀬踏み」と言って「天幕旅行運動会」を開催してから、じつに56年もの年月が必要とされたのだった。

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■檀原照和(だんばら・てるかず) ノンフィクション作家。法政大学法学部政治学科卒業。近現代の裏面史などを追う。著作として単著に『ヴードゥー大全』(夏目書房)、『消えた横浜娼婦たち』。共著に『太平洋戦争―封印された闇の史実』(ミリオン出版)

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